キンモクセイ
作中の歌は、私も中学生の時に歌いました。今になってみると、とてもいい歌詞だったなと思うのです。和訳は雰囲気なので、あまり気にせず読んでください。
換気のため、と古谷が開けた窓からはキンモクセイの匂いがした。
補修課題のプリントに頭を抱える俺の隣で古谷は、甘い、と呟く。その両耳にはイヤフォンがついていて、コードを挟んでウォークマンと繋がっている。そんなのいつからもってたんだろう。なんて、頭の隅で考えながら、ミミズのようなアルファベットを空欄に入れた。
「ナカ、それちがう。"rr"じゃなくて、"ll"」
古谷は少しの間違いも見逃さなかった。そして必ず正してくれる。このプリント、ほとんど古谷にやってもらったようなものだな。そう思い、声のした方をちら、と見てみる。黄色い、オレンジになりかけの日の光を頬に乗せて、古谷は目を閉じていた。なに聞いてるの、と言っても返事はない。ただ、まぶたから伸びるまつげが光を絡ませてキラキラ光るばかりだった。まつげ長かったんだ。知らなかったな。
古谷はいつも、俺の苦手な英語を教えてくれる。きっかけなんて覚えてない、いつのまにか仲良くなって、いつのまにかこうして残って勉強することがあたりまえになっていた。図書館でこっそりと、他の奴らも合わせてわいわいと、こうやって教室の中ふたりだけではっきりと、古谷が発する英語の発音は俺の中にすっと染み込んでいく。先生、向かいの席の橘、あこがれの佐々木さんよりも、古谷の発音だけが。
残りの答えもプリントに書き込んで、なんとかすべての空欄を埋めることが出来た。大きく伸びをして窓を見てみれば、校庭は完全にオレンジ色に染まっている。
「古谷、終わったよ」
そう呼びかけても古谷は目を閉じたままぴくりとも動かない。寝てるのか。俺は古谷が目を閉じているのをいいことに、じっと彼女を観察する。
腕を組み、椅子の背に体重をかけて眠る姿は男らしく、すこしかっこいい。けれど、すこしうつむいて眠る頬はほんのり赤くて、目を閉じていてもわかる整った顔は女の子らしく、かわいらしい。
今の古谷の姿は、本当に彼女そのものを現しているようだった。きれいな顔をした、おとなしい、無口な女の子に見える古谷。しかし本当は誰よりも男らしく、まっすぐなやつで。
楽しかったこと、傷つけ合ったこと、救われたこと、古谷と過ごした今までのいろいろなことを思い出して、おもわず俺は笑っていた。本当、変なやつだよな。
古谷、ともういちど名前を呼んでみた。しかし、反応はない。ただ、まつげと同じように光を絡ませた前髪がきらきらと光るだけだった。
あ、髪が顔にかかってる。そろそろ邪魔だから切らないと、とかそういえば言ってたな。
俺はこちらに向かって座る古谷の髪へ手を伸ばす。起こさないように慎重に、古谷の髪の毛を邪魔にならないようにとかす。けれど、さらさらとながれてしまって、なかなかうまくいかない。俺が髪の毛をとかす度、古谷の甘い匂いがする。それがキンモクセイの匂いと混じり合って、でもそれなのにお互いに邪魔をすることはせずに溶け合って、俺の鼻に届く。それがまざまざと俺に実感させる。
ああ、俺、今、古谷に触っているんだな。
そう気付いたら、急に心臓が大きく跳ねた。手がじんわりと汗をかいて、細かく震えた。
「痛っ」
緊張してすべった手が、古谷の額に強くぶつかった。そして古谷は額を押さえて、恨めしそうに瞼を開ける。古谷のつやつやとした目が、俺をまっすぐ見つめる。
「あ、ご、ごめん……俺、プリント出してくるから!!!先に、行ってて!!!!」
なんだか慌ててしまった俺は、自分の鞄をひったくり走って教室を飛び出した。下駄箱でまってて、と後から思い出して付け足す。
そのままの勢いで、俺は走って職員室へ向かう。廊下は走らない、なんて書かれたポスターが目の端に見えたけれど、今はそんなの関係ない。
そうだ、違うんだ。走っているからだ。だからなんだよ。まだこんなに、心臓がドキドキうるさいのは。
「走ったわりに、遅い」
途中、うるさい教師に見つかって説教をうけた俺は全力疾走の疲労感も相まって、へとへとになりながら古谷に苦笑した。外はオレンジ色から、紺色に変わる準備をはじめている。古谷は俺が靴を履くのを見届けてから、ひとりですたすたと歩き始めてしまう。俺は早足で追いついて、イヤフォンをしたままの古谷に少し大きな声で呼びかける。
「なあ、お前、そんなの持ってたっけ?」
古谷はこちらをちら、と見て俺と反対側、左耳のイヤフォンを外す。普通外すならしゃべっている人の方だろ。そう思っていると、古谷はイヤフォンを持ったままの手を俺にずいっと突き出す。聴けってことか。俺はそれを受け取って、古谷のいる方の耳へねじ込んだ。
「これ、橘の机に入ってたんだ」
え、と驚く俺に古谷は悪戯っぽく口の端を上げて笑う。流れているのは英語の歌。でも、おしゃれな洋楽なんかではない。少し懐かしい、聞き覚えのある歌。
あ、そうだ。俺たちはこの歌で繋がった。俺と橘と、佐々木さんに、古谷。
「この歌、4人で音楽の時間に歌ったよね。ソプラノとアルトに分かれて、発表させられた」
橘、こんなのまだ聴いてるなんて。恥ずかしいやつだ、なんて古谷は馬鹿にしながらも、なんだかうれしそうにしていた。それを見て、ああ、どうして俺は忘れていたんだろう、と思った。橘でさえ覚えていたのに。
「ナカ、知ってた?この歌、ラブソングだったんだよ」
古谷はそう言って、俺に笑いかける。彼女が振り向いた瞬間、甘い匂いがした。心臓が、ぎゅっと小さくなる。
「君と並んで一緒に歩く 手をつないで ふたりぼっちで歩いていく」
古谷は流れる英語にのせて、ぽつりぽつりと呟く。それがこの歌の和訳だと気付いた俺は、しばらくそのまま黙って、曲と古谷の声とに耳を傾けた。
途中、古谷はデタラメな和訳だと、はにかむように笑った。それでもいいよと、俺も笑った。
俺より狭い古谷の歩幅に合わせて歩く。ウォークマンのコードのせいで、離れて歩くことはできない。
「とても愛しあってる ふたりとも 何をしていいのかわからないくらいに」
すぐ近くから聞こえる古谷の声。右を向けば、すぐに古谷もこちらを向いて。オレンジ色の光はもうないけれど、古谷の目はつやつやとしている。つやつやと光って、俺から目を逸らさない。
いつもならこの視線から逃げてしまう俺だけど、この時はぐっと、我慢した。すると、古谷はまばたきを繰り返し、ふっと目を逸らして照れたように前を向いてしまう。俺はそんな古谷にぷっと吹き出して、思わず笑ってしまった。
かわいい、と思った。
「おい、古谷」
むっとする古谷の左耳に手を伸ばし、イヤフォンを外す。目を大きく見開き、体をびくりとさせた古谷にまた笑って、俺も自分の耳のイヤフォンをとる。そして、言ってしまったんだ。
「俺、古谷が好きだ」
古谷は俺の言葉を聞くと、足を止めて固まってしまう。そんな古谷の両耳にイヤフォンを刺して、俺は帰り道をさっさと歩く。すると、少ししてから古谷が小走りで追いついて来て、俺の隣に並んだ。
俺たちは黙って、ただただ、足を動かした。どちらかが口を開いて、けれど、何も言えずに口を閉じて。それを何度も繰り返しながら、歩いた。
キンモクセイの匂いがする。どこかでまた咲いているのだろう。甘い甘い、匂い。
僕らはふたりぼっちで歩いた。何を言っていいのか、何をしていいのかもわからずに。ただただ、うるさい心臓の音を聞きながら。
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