04:イガカ帝国中央地区・クレド
朝。
全身の痛みでリーデは目を覚ました。部屋に帰った覚えはないので、誰かが運んでくれたのだろう。ありがたい、と思いながら身体を起こす。清潔なシャツと、包帯。それらの出所にリーデは覚えがなかった。まずシャツは一番上のボタンを留めても鎖骨が出るような大きいものは持っていなかったし、包帯はストックを切らしたばかりだ。初日に研ぎ石や薬草などを買おうと思って出向いた先でうっかり買い忘れていたのである。
もしや、この宿の人の所持品なのだろうか。咄嗟に胸元を見るが、それは 間違いなく自分が使っている下着である。少し安心したが、これも買い替え時だと悟って憂鬱になる。そんなに裕福ではないというのに。
水でも飲もう。そう思ってベッドから降りようとすると、これまた全身が痛んだ。筋肉痛と擦り傷と打撲痕と、その他諸々。思い当たる所がありすぎて泣きそうだ。久々に無理な動きをしてしまった。
一歩一歩踏みしめるたびに全身が軋んだ。思った以上に悲鳴を上げる筋肉に、「ひぃぐ」と引き攣った悲鳴と呻きの中間のような声が漏れた。
シャツの下には下着だけで、ズボンの類は身に着けていない。それでも、案内されたこの部屋にいるのは自分だけである。一歩、また一歩と確実に水への道を踏みしめて歩いている時、何の前触れもなく扉が開いた。
「…………え、」
「…………あ、」
扉を開けたらしい青年には覚えがあった。髪を後方へ撫で付け、高い位置で三つ編みにする特徴的な髪型と、裾の長いあまり見ないデザインの衣服。大きな瞳は驚きによるものか更に見開かれ、黒々とした黒曜石のような色は珍しく、思わずまじまじと見てしまう。ドアノブを掴んでいない右手は二の腕の位置まで上がっており、盆のようなものを持っていた。
それなりに長い沈黙を保っていた両者だが、ややあって動いたのは青年だった。
「すっ……っ……すみませんでしたぁっ!」
「えっ、…………えっ?」
あっという間に閉まった扉は、バァン!と凄まじい音を立てて閉まった。何が何だかわからないリーデは部屋の中を見回すが、相変わらず原因が判らない。手に持っていた盆を落としたのか、扉の外からは短い悲鳴と派手な音が聞こえる。
…………まあ、何はともあれ、水だ。やっとこさ水瓶とコップに手を伸ばして、少女はふうと一息つく。喉の奥を滑り落ちていく冷たさが心地いい。その余韻に浸っていると、はた、と思い至り、リーデは自分の格好を改めて確認した。
下着が見えるか見えないか。そんなすれすれの長さのシャツは、彼女のむき出しの太腿を隠す事無く晒していた。
「ああー…………」
そういう事かあ、と思いながら、リーデは何か手軽に着れる物はないかと己の荷物を見下ろした。機動性重視の服はもちろんズボンばかりで、さすがに極度の筋肉痛の最中でこれを履くような真似はしたくなかった。
鞄の奥へ奥へと手を伸ばす。リュックサックの形をしたそれは、ここ数年になって発明された空間魔法を施した鞄だ。見た目以上の収納力を誇るそれは、冒険者は勿論、ただの旅人や一般人にも重宝される。
あまりスカートを好む性質で無かったのが裏目に出たようだ。何かないか何かないか。一見粗暴にも見える手つきでリーデはとにかく足を上げずに履ける何かを探した。扉の外はいつの間にか静かになっていた。
「…………あ。あった」
見つかった素っ気ないチェックのミニスカートに、リーデは感動した。奇跡と言ってもいい。何故こんなものがあるのかは全く思い出せないが、この幸運は今はただありがたい。筋肉痛がまだましな頭からスカートを履くという暴挙を行いつつ、滞りなくリーデはそれを身に着けた。ただスカートを履くだけでもずいぶん時間がかかってしまったが。
ベッドサイドに腰かけてぼんやりしていると、こんこんと控えめなノックが響いた。どうぞ、と短く応えると、先程の青年が非常に気まずそうな表情でそこにいた。
「あの、さっきは」
「ああ、いえ、全然、気にしてないです」
ぶんぶんと手と首を振るとやはりまだ痛かったが、起きた時よりはマシだった。あからさまに安心したらしい青年は、右手に持っている盆をベッドの近くにある簡易な椅子と机に置いた。
どうやら、粥のようだ。イガカの地でもごく限られた場所でしか栽培されない、コメ、という穀物を使ったものだ。ほかほかと湯気を立てるそれを見ていると、急に食欲が湧いてきて腹の虫がきゅうと鳴く。正直生足を見られた事よりは、腹の音を聞かれた事の方がリーデには恥ずかしかった。
青年は思わずと言った様子で吹き出し、どうぞ、と言わんばかりに粥を指し示した。
いいの?と視線だけで問うと「ほら」と青年が席へ着くことを促す。ここは甘えてもいいだろう。そう思い、リーデは痛む身体を少し動かして簡易な椅子に腰かけた。
頂きます、と小さく呟いてリーデはそのスプーンによく似た食器に手を付けた。スプーンにしては形がかなり緩やかで凹凸が少ない。柄の先にある丸い部分のみが深く窪んでおり、それをまじまじと見つめてしまう。初めて見る食器だ。
「そういやウチの飯はまだ食ってなかったですもんね。それ、レンゲって言います」
青年が穏やかにその食器の名称を伝える。へえ、と目を丸くしたあと、それで粥を少し掬う。未だ熱そうに湯気を立てているそれは少しばかり黄色い。卵粥というのだ、と青年が言った。
「お客様が寝ている間に起きた事を簡単に話そうと思います。よろしいですか?」
「ん、あ、ふぁい」
はふはふと卵粥を食べながらリーデは了承の意を伝える。あまりに堅苦しいので、「敬語も使わなくていいですよ。わたしも今から使いません」、と言うと青年は有り難いとばかりに礼を言った。
「敬語そんなに得意じゃないんだよね」
そう零しながら青年は、自分の物なのだろうか、紙袋に入った硬そうなパンを左腕の裾から取り出し、食べながら話し始めた。
現在はゴブリンが街に押し寄せてから三日後だそうだ。時刻は正午。意外と眠ってたんだな、と思いながらリーデは適度な塩気と甘さが丁度いい粥を啜る。サービスなのだそうだ。
コメなど初めて食べたのだが、成程、これは美味しい。あまり噛まなくてもいいのは、それだけ寝ていたリーデを気遣っての事なのだろう。いきなり固形物を腹に入れれば暫く仕事をしていなかった胃腸は驚いて、結果的には腹を壊すことになるのだから。
「ギルドの偵察隊がホブゴブリンを補足できなかったから、被害はとにかくでかい。遺骸の回収も今日中には終わるみたいだ。アンタが倒してくれたホブゴブリンは、多分その内ギルド内で爪とか骨が取引されるようになるんじゃないか」
少ない事のあらましを、その一言で終わらせた後、青年はパンを傍に置いて頭を下げた。突然の出来事にリーデは混乱する。
「えっ、なっなぁっ、ちょっと!」
「アンタがあの時来てくれなかったら、多分俺は死んでた」
今でもはっきり思い出せるのだと、青年は言う。振りかぶられた棍棒、叫ぶ母の声、諦観と混乱に満ち溢れた思考、それが不意に終わったあの瞬間を。青年はきっと忘れられない。
「本当にありがとう。感謝する」
「…………そ、んな」
そんな大それたことはしてないです。そう呟くように零して、リーデは残りの粥を啜る。丁度いい温度になってきたそれは、もう冷まさなくとも火傷はしないだろう。
「………そうだね。あんときのアンタは、少なくとも俺を助けようとして飛び込んだ様子じゃあなかった」
ああやはり、ばれていたか。リーデは少し苦笑して見せた。青年は真剣な表情で、あの黒曜石にリーデを映している。困ったように眉を下げる自分がリーデにはどこまでも気持ち悪くて。少しだけ、吐き気を堪えた。
「差支えなければ、だけど。もしかして、身内が魔物に殺されたクチかい?」
独特の言葉遣いは素直に耳に入ってくる。彪という国があったことはリーデも知る所なので、そこの訛りみたいなものなのかな、と思いつつ頷いた。
「魔物って言うか、魔獣だったけど」
「それはもしかして、古代竜ノーヤ?」
ひゅっ。と。
驚きのあまり喉に侵入した吐息は食事にも影響を与え、細かいコメが気道に入るのが判った。げほごほと咳き込むと、青年が立ち上がって背中をさすってくれる。
「ああもう。ほら」
差し出された水に礼を言う間もなくごくごくと嚥下する。ようやっと落ち着いた頃に、驚愕の色濃い表情で、リーデは何故、と疑問を淡く呈した。青年はどこか困ったような表情をしながら、彼女が眠った三日間の『補足』を伝えた。
「下着とかは母さんが替えてたんだけどな、俺もたまにこの部屋来てたんだ。アンタがホブゴブリン倒してくれた日とか、他にも起きた時の為に水とか代えたり。その時アンタ、魘されてたぞ。恨み言言いながら」
なんてこと。思わず歯噛みした。これは無意識とはいえ、完全に自分の落ち度だ。ノーヤ、許さない、殺す。恨み言はそんな所だろうか。
リーデの住んでいた町は、キリエという名だった。賑やかで穏やかで、人々の笑顔が暖かい町だった。クレドほど大きくはないが、確かにそこには人との交流があり、誰かの笑顔があり、そして自分の人生があったのだ。
気付けばそんな事を、ぼろぼろと年も変わらない青年に話していた。キリエ、と聞いて青年は少しだけ顔色を変えていたが、その時のリーデにはそれを気にする余裕はなかった。
リーデ、というのは彼女の愛称である。フルネームは、ティディリーデ=テトラ=サザキカ。かつてはキリエ周辺のイガカ帝国南地区一帯の統治を任された貴族だったが、いくつか前の代より没落した、名ばかり貴族である。
サザキカの家は五つほど傍系と本家が入り乱れているので、その中でも序列が四番目と低かったテトラの家が没落するのは、家人にも読めた事であった。
かくして、没落貴族が管轄は南地区の中でも辺境の地、神を敬い信じる宗教の町、キリエとなった。住人との仲は良好で、それはリーデの代までも同じこと。あの日、あの時。古代竜が上空を通過するまで。それまでは、リーデは信じていた。ここで一生暮らして、生きて、死ぬのだと。
「………アンタまさかさ。ノーヤを倒しに行く、とか。言わないよね」
その言葉に弾かれたようにリーデは顔を上げ、やがてくしゃりと泣きそうな様相に顔を顰め、だって、と言い募った。
「…………それ以外に、わたしにどうやって生きろっていうんですか。故郷は焼けました。家族は死にました。何も手元に残ってないです。何も。………何も」
だから命からがら隣町のギルドまで行って、冒険者登録して。誰とも組まず、一人で、ただ一人であの竜の行方を求めて彷徨っていたのだ。
この悲しみは、生きるのには重すぎて。この憤りは、新しい生活の足枷になって。
――――――この憎しみは。身を焦がすような憎しみは、ただ安穏に日々を過ごすことを許さなかった。
深い、重たい沈黙が二人の間に落ちた。それは先だって感じたようなものではなく、今のこれは、その場から逃げ出したくなるような、嫌な空気を伴っていた。
「なあ」
そこで、青年が口を開く。
「一つ、提案がある」