03:イガカ帝国中央地区・クレド
「どうやら冒険者の連中がしくじったみたいでね、群れの多さも相まって刺激しちまったみたいなの。今から母さんこの店に結界を張るから、部屋から出ないで」
「…………母さん、まだゴブリンはこの街に来ちゃいないんだろ?」
「そうだけど、いつ来るか判らない。だから、ここにいて、」
「嫌だ」
ツァイフー!と母が半ば叫ぶような語調で名を呼ぶ。ツァイフーは自分と同じ色をした目を見つめながら、「俺だってそれなりに戦えるさ」と言った。
「それに母さんだって危ない。一人より二人の方が結界は早く張れるし、襲われたって助かる確率が上がる!」
自分が足手まといになるやもしれない可能性には蓋をして、青年は母に言い募る。低級とはいえ魔物は魔物、狂暴であるし、数で囲まれたらひとたま りもないのだ。ならば二人の方がまだいいし、それに、父と同じように知らない所で肉親が死ぬかもしれないと、そう思う事が怖かった。
「…………判った」
暫しの睨みあいの末、折れたのは母だった。
「ただ、危なくなったらあんただけでもさっさと逃げる事。これが守れるならいいよ」
「ん」
保証はできないなあなんて思いながら、あっさりとツァイフーは頷いて見せた。そうと決まれば親子はもてうる限りの召喚陣と触媒、それと水銀を持って外へ出た。
「…………」
いつもは騒がしい街中は、今だけは静まり返っていた。どの店もでき得る限りの対策を家の前に施し、沈黙を保っている。―――ゴブリンの姿は、まだない。
「じゃあ私が結界を張るから、あんたは見張ってておくれ」
「判った」
召喚陣を三枚取り出し、無詠唱で精霊を顕現させる。先ほども呼び出したサラマンダーと、あまり大きくはない低級精霊の小鳥二羽。行け、と呟くと 小鳥は空へ飛び立っていった。二匹は索敵要員だ。
水銀がなみなみと入った薬缶を抱えて母はそれを家の周囲へ垂らしていく。ぼそぼそと呟かれるのは、この宿を守るための結界の詠唱だ。母は水属性の精霊と相性がいいので恐らくそれ系統の結界となるはず。
妙な緊張を抱えながら二人は宿の周りを水銀が途切れる事の無いよう回る。索敵の鳥はまだ帰ってこない内は安全だ。親子の不安を感じ取ったが、サラマンダーが安心でもさせるようにぎゅうぎゅうと力強く鳴いている。
宿の周りを残す所あと三分の一、という所まで来て。それは、来た。
「――――――母さん!」
索敵の小鳥の片方が高い鳴き声を響かせながらこちらまでやってきていた。まだそれらしきものは見えないが、じき迫ってくるのだろう。急かすようにツァイフーは叫んだ。
母の詠唱が先程よりも早くなる。どうやら予定変更の様だ。一周する事無く、スタート地点付近の扉を無防備にし、結界を展開しながらそこに補強の魔術を叔父にかけてもらう事になったようだ。母がツァイフーの腕を引き、焦りを滲ませた声で歩を進めた、その瞬間、
「行け!」
母の真後ろ、小柄な怪物がそこに現れた。ツァイフーは帰ってきた二羽の小鳥をそれに差し向ける。短い手足と尖った耳、理性の消えた両目はぎらぎらと赤く、緑の肌は薄気味悪い。ゴブリンだ。
先頭がもうここまで来たのだろう。耳を澄ませると、どどどどど、という地響きが聞こえてきた。
「―――終わった!早く宿の中に!」
ぎりぎりで終わった結界は無事発動したらしく、一ヶ所を残して仄かに青い光が宿中を包んだ。自分よりも優先して息子を引き込もうと必死な無防備な母親を、数匹のゴブリンが襲わんとやってくる。
「馬鹿!俺より自分の事気にしろよ!」
もうすぐそこまで大群が迫っているのだろう。今優先すべきは極度の緊張と興奮、それと恐怖により息子しか見えなくなっている母をさっさと宿の中に押し込む事だ。結界は範囲さえ指定すれば勝手に発動してくれるのだから。そう思いツァイフーは青年らしい力強さと精霊の助力を借りて母を無理矢理宿の裏口に押し込んだ。扉をあけながら痩せ細った体躯を押す。背後では地響きと警戒音と、そして自分の精霊が時間稼ぎをしてくれている音が響いていた。心臓がうるさい。ツァイフーもまた、酷く混乱していた。正常な判断力が、鈍っていた。
ふと周囲が一際暗く陰る。彼は思わず振り向いてしまった。ここで、ここで振り向くべきでは、なかったのに。
しゅぼっ、と音がして自分の呼び出した精霊が三匹全て消えた。小鳥は握り潰され蜥蜴は踏みにじられた。
それは大きな身体を揺らして、太い腕に持った棍棒をゆっくりと上げる。少なくとも、ツァイフーにはゆっくりに見えた。
ホブゴブリン。このあたりではまず見かけない中級程の強さを持つ魔物である。ギルドの討伐ランクを参考にするなら、下から三番目のDだが、この数値は場馴れした冒険者を基準にしたもの。一般人が相対したら嬲り殺しがいい所だ。それは勿論、いかに精霊使いといえども、実戦の無いツァイフーは言うまでもない。
母の悲鳴が響く。
――――もしかして。
ホブゴブリンが醜悪な喜びに顔を歪ませた。
――――ここで死ぬのか。
全てがスローモーションに見えた。
――――母さん。
後ろから叔父夫婦が取り押さえているのかこちらに来る様子はない。
――――よかった。
短い安堵が全身を満たし、間抜けな顔で棍棒が振り下ろされるのを見ている。重力とあらん限りの暴力が凝縮された凶器が、ツァイフーの頭を砕く。
かに、思えた。
それは明らかに撲殺の音ではなかった。鋭く、重く、肉を裂き骨を貫いた音。目を開いたままのツァイフーは、見た。ホブゴブリンの側頭部に突き刺さる、お世辞にも質がいいとは言えない槍を。その槍を持つ、明るい茶色の髪を持った、自分と同じほどの年の少女を。
槍の刃を少しだけ返して少女は思い切りそれを引き抜く。見れば全身擦り傷と打撲痕だらけで、装備の鎧には少々罅が入っている。少女はツァイフーの方には目もくれず、絶命したらしいホブゴブリンの頭を踏み、剣を抜いた。少々錆がかった剣だが、それは難なく魔物の首に切り込みを入れた。恐らく留めなのだろう。
「っ、あああああッ!」
裂帛の気合いを込めながら少女が宿の裏口付近から往来へ踊りだす。今になって、ツァイフーはあの少女が申し訳程度に纏っている布に思い至った。隅の部屋へ案内した一人きりの冒険者。
「リーデ………」
よく舌に馴染む名前だった。仲間はどうしたのだ。同行させてもらったという、あの狼の名前を冠すギルドに何があったのだ。何故ここまで魔物の存在を許したのだ。簡単なクエストではなかったのか。何故。何故、そんなに。
必死になって、瞳を憎しみに染めて武器を振るうのか。
少女は、リーデは琥珀の瞳を憎悪に歪ませながら両手の獲物を振るった。決して卓越した腕ではなかった。基礎が何とかなっているだけの、ほぼ付け焼刃の技巧。足は疲れ以外の要因で少しばかり震え、その両目の苛烈さは言うまでもないのに表情はどこか怯えている。槍がゴブリンの腹を突いた。剣が腕を切り落とした。その度に、ぼろぼろの少女の装備はさらに痛みを増し、血に塗れていく。
あのホブゴブリンが統率を行っていたのか、ゴブリンの数は見るからに減り、機動力も散漫になってきたようだった。ゆっくりと、だが、着実に街からは魔物が消えている。
その様子に隠れていた街の人間が何人か武器を持って飛び出してきた。リーデのような年端もいかない少女が戦っているから、ではなく、恐らくこの数なら戦闘経験の少ない自分たちでもやれると判断したからだろうと、この街の人間をよく知るツァイフーはそう思った。利害と打算。それが、イガカ帝国の国民の根底にはある。
それが決め手になったか、やがて動くゴブリンは一体もいなくなった。後に残るのは、異形の遺骸。それと。
「おきゃく、さま」
「…………ああ、宿、屋の」
ぜいぜいと肩で荒く息をする、冒険者の少女だけである。
今まで鬼のように獲物を振っていたというのに、緊張が取れたせいか、がっくりと両膝をついて持った槍を支えにしている。顔色は酷く悪く、瞳は疲れによりどんよりと淀んでいた。
「だ、」
大丈夫ですか。そう、ツァイフーが尋ねようとした瞬間、リーデの身体が糸を失った操り人形のようにくずおれ、倒れ込んだ。