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触れて 融けて 流れて 消えて。  作者: 篠宮 楓


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8/21

其の肆

汗が引いたのか、男は地面に座ってぼんやりとしている。

いつもなら読んでいるだろう本がないからだろうか、少し手持無沙汰そうな雰囲気で。

私はそんな男の姿を見ながら、早まった鼓動を胸に手を当てて静めようとしていた。






分かってる。この男が私の存在に気付いていない事は、そんな事は分かってる。

目を合わせて言われた”ありがとう”に驚いて固まっていた私は、じっと男を見つめていた。

もしかしたら、人ならざるものを視るものなのかもしれないと。


私はあったことがないけれど、話しに聞くとそんな人間がいるらしい。

喜楽が風の精霊に聞いたと言って、面白おかしく話していたのを思い出していた。


まさか。もしかして。


けれど、そんな思いは男が苦笑しながら言った言葉に霧散した。


「桜の木の傍にいると、涼しい風が吹くのかなぁ。木陰だから……?」


不思議そうな言葉に自嘲気味な色が垣間見えて、私は肩を落とした。

見えているわけじゃなかったのね。

鼓動を高ぶらせたその邂逅は、私の方だけ。

春先の祈りと一緒だわ、そう独りごちて小さくため息をついた。


それでもその男が呟いた言葉に、再び動きを止めた。

「桜の精、本当にいそうだよね」

私の存在を肯定してくれる、その言葉に。





私は横になろうとしていた体を起こして、幹に背を預ける。


この男の名は、なんというのだろう。

私の存在を肯定してくれた人々はたくさんいたけれど、目を見てお礼を言われたことなど一度もなかった。

ただの偶然だとわかっていても、やはりそれは嬉しい。

男の、名が、知りたい。


ふわりと枝から、地面へと降りる。

男の少し離れた場所に、腰を下ろした。

地面に広がる袿を膝に引き寄せると、木陰よりも濃い影が差した。

『……?』

不思議に思って顔を上げると、なぜか立ち上がった男の姿。

何か考える様に首を傾げた後……


『え』


私の横に、座った。

何か納得する様に一つ頷いて、またぼんやりと遠くを見ている。

私は目の前で起きたことが信じられない状態のまま、すぐそばに座った男を見上げていた。


雰囲気? 本能? 何かで私の存在を感知してる……?


思い出せば、ずっとそうだった。

私のいるそばに、この男は……


『……っ』


顔に、血が集まっていくのが分かる。

気温の暑さじゃない、これは……顔が熱い……っ。

ぶわりと沸いた羞恥心に、片手で顔を隠しながら男とは反対側に顔を背けた。


なに? なんなの、なんでこんなに顔が熱くなるの?


どきどきと高鳴る鼓動、熱くなる頬。

あれ? あれ? と分からない感情に首を傾げながら、それでもその男の側から離れがたくてそのまま座ってる自分にも驚く。

私は、一体……


「なんでだろ……」


となりでぽつりと呟かれた声に、ぴくりと肩を揺らしてゆっくりと男の方へ視線を向けた。

穏やかな土色の瞳が、さらりと風に揺れた黒髪が、目に鮮やかに写る。

優しそう、そう一言で表されるほど落ち着いた雰囲気の男。


……名前、聞いてみたい……




「一志くん!」

『……っ』


突然上がった声に、私はびくりと震えて声のした方に顔を向けた。

広場の出入り口から走ってくるのは、小柄な女性。

この暑い中、こちらに向けて走ってくる。


「沙紀さん……! 走らないで……っ」


隣に座っていたはずの男が、焦ったような声を上げて慌てて立ち上がった。

すぐそこまで来ていた女性は、大丈夫よ! と声を上げた途端、がくりと体が前のめりになる。

「あっ!」

『あっ』

思わず、体が動いたけれど私には触れる事は出来ない。

私の腕をすり抜けた彼女の体は、ぽすんと男の腕の中に納まった。


『……』


「危ないよ、沙紀さん」

深く息をついた男は、腕の中で体勢を立て直そうとしている女性を見てそう諌める様に言い放った。

「ごめんて、一志くん。いやー、セーフセーフ」

「セーフじゃないでしょ。まったく」

そう言葉だけ聴けば呆れているだろう男の顔は目が細められ、嫌でも感情が読み取れた。

「ありがとね」

そう言いながら腕から離れていくその女性を見つめる目は、嫌でも感情が読み取れる。


「はい、これが兄さんの引っ越し先。それと頼まれてた大学の資料」

そう言って、男は先程までぺらんぺらんと音を立てていたものをその女性に差し出す。

その女性はそれを手に取ると、満面の笑みを零した。


「ありがとう、一志くん! 私頑張るね!」

「まずは大学受かるために、勉強しないとね」

「それいう?」


楽しそうに笑い声をあげるその女性を、穏やかに見る男。


「ごめんね、パソコン、私疎くて」

「いいよ別に、プリントアウトしてくるだけだし」


何か紙を見ていた女性は、腕時計に目を落として焦ったように声をあげた。

「あっ、私バイトの時間!」

そう言うと、見ていた紙を鞄にしまってその男を見上げた。

「じゃ、ごめんねバタバタして。今度何か奢るから!」

「いいよそんなの。気を付けてね」

言葉の通りバタバタと再び広場から出るべく駈け出した女性に、男は少し大きな声を上げる。

女性は何度か振り返って手を振ると、そのまま広場から出て行ってしまった。



残されたのは、男一人。


立ち尽くしたまま広場の出入り口を見つめている。


その横顔は、嬉しそうな悲しそうな、あの祈りの時の様な感情を浮かべていて。

思わず、男に向って手を伸ばした。


『……』


触れられない。


私は、この男に触れられない。


一志、と呼ばれたこの男の名を呼びかけることも出来ない。


沙紀と呼ばれた先程の女性を想う、一志を慰める事は出来ない。


しばらく佇んでいた一志は、あつ……と一言呟いてそのまま帰って行ってしまった。

その後ろ姿を見送って、私は枝へと居場所を戻す。


そこから見える風景は、いつもと変わらないのに。

何故か私の心は沈んでいた。

あまり感じる事のない感情に、首を傾げる。



『一志……か』



知りたいと願っていた名だったのに、何故か知っても嬉しくなかった――


                            


                              夏 おわり

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