其の肆
いつもより気温の高いぬるま湯のような秋は深まり、朝晩の気温が低い日が多くなってきた。もうすぐ冬を迎えるのだろうこの町は、いつも通り穏やかな日常が続いていた。
「聞いてよ、さくらさん!」
『うん? どうしたの?』
いつも通りみやこが旦那の愚痴を言い、そして惚気て。子供は広場で元気に走り回り、暖かい午後には散歩をするひとたちが立ち寄る。
いつもと変わらない風景だが、春から違うことが一つある。
一志が、ここに来なくなった。
あの祈りにも似た願いを口にしてからも、何度かここに来ていた。けれど私は近づかなかった。期待をさせてはいけないから。
願いを言われても、叶えられないから。
一志は浮かない顔でいつも通り本を読んでいたが、何度目かの帰り際、桜を振り仰いだ。その視線の先は、私がいる。決して見えていないのに、なぜいる場所が分かるんだろう。
「……」
一志は、何も言わなかった。
私も、ただ見ている事しかしなかった。
一志は暫くそのままの姿で佇んでいたが、夜の闇が降りた頃に帰っていった。
それが、最後。
きっと、諦めたのだろう。兄を助けてくれる存在かもしれないと縋っていたのに、期待外れだったから。
もしかしたら私が気がつかなかっただけで、他にもそんなひとたちがいたのかもしれない。
私へと祈るひとたちは多かった。先の大戦の時は、それこそ数えきれないくらい。
けれど私には、その一つとして叶えることはできなかった。私は、風を巡らせる者。桜として生きていく者。ただそれだけの存在なのだから。
届けられる祈りを、ただ聞くだけ。受け止めるだけ。昇華する術はない。
『寂しい、な』
ぽつり、言葉を零す。
私は、ひとの期待に応えられずに生きていたのか。
こんなことを考えたことなど、一度もなかった。
そういうものだと思っていたし、疑問に思う事などなかった。
だというのに。
一志のあの姿が、思考を埋めていく。強く祈る彼の言葉が、博愛しか持たないはずの精霊の私を惹きつける。
――ありがとう
初めて、視線を交わして言われた時。
私は、初めて心から自分を見て欲しいと思った。私の存在を認識して、そして、私に言葉をかけて欲しかった。なんでもよかった。謝意でも挨拶でも、それこそ悪意でも。
この感情は、千年を生きたから生まれたのか、集う人々に感化されたのか、それとも……
――ありがとう
一志からかけられた声、そして視線を交わしたあの時に、そう、願ってしまったのか。
今ではもう、分からない。
『主さま、星が綺麗だねぇ』
先ほど森から帰って来た喜楽が、小さな精霊を連れてきた。
『喜楽、その子はどうしたの?』
多分、生まれてそんなに経っていない精霊の雛。土色の髪と同じく優しい瞳の色を見れば、土の精霊のように見える。喜楽は両の掌に座らせていたその精霊を、私の傍に降ろした。
『森の主さまが、主さまにって』
『私に?』
土の精霊を見下ろせば、ふわふわとした髪の毛の向こうからおっとりした目がこちらを覗いていた。
『桜の主さまの、癒しになればって』
な? と、喜楽が土の精霊の頭を指先で撫でると、こくこくと小さな頭が縦に揺れた。
『元々森で生まれた主さまだから、同じ場所の土の精霊なら癒しになるんじゃないかって言ってた』
俺だと強すぎるってさ。
不貞腐れたように口を尖らせた喜楽の頭を、柔らかく撫でる。
『ありがとう、喜楽。お前のお陰で、私の生まれた場所を感じることができる』
もう千年以上も前に別れを告げた、懐かしい気配。
私も森の主さまの懐で生まれた、桜の精霊だったのだから。この地に植え替えられるまでは、森の中で過ごしていた。
喜楽に変わって指先で頭を撫でれば、気持ちよさそうに目を細めている土の精霊に思わず表情が緩む。
『お前もよろしくね』
そう土の精霊に言って、目を細めた。
秋 終わり




