其の弐
『なんだか、少しだるい……な』
夏から秋へと移り変わり、日が落ちるのも早くなってきた。公園に来るひとの帰宅も早くなり、訪れる静寂は少しずつ長くなる。
そんな中、少しだけでも緩和した暑さにほっと溜息をついた。
今年の夏の暑さは今まで経験したことのないもので、私だけではなく、森の主さまをはじめ植物を司る精霊にはとても過酷な日々だった。
それでなのかどうなのか。
夏が終わっても、体のだるさが一向になくならない。喜楽に心配され大丈夫だと言っていたが、もうすでに千年を超える古木の身。やはり負荷が多かったらしい。
『はぁ……』
これからの夏は、同じような暑さが来るのだろうか。
考えても詮無いこと。そうは思うが。
私はただひとり、ここに生きる桜の木。暑い日差しを遮るものも、寄り添い助け合う同胞もいない。
しかしこの木に集う喜楽や他の精霊たちのために、なんとか毎年しのいでいかねば……。
『ん?』
ぼんやりと空を見ていた私は、公園に入ってきた男を見てまた来たのか……と視線で追った。
いつもと同じように木の根元のそばに腰を下ろして、本をひらく。
『一志は、今日も読書か』
相変わらず一志は週に一度はここにきて、難しそうな本を読みふけっている。
『こんな本を読んで、何が楽しいんだろうな』
わざわざここにきて息抜きしているのかと思えば、それに適した内容の本ではない。上から覗き込めば、ひとの体の中……臓腑の図や何かわからない数字や文字が書き連ねてある。多分、一志は医者を目指しているのだろう。
そう思えば、彼は高校生というものなのだろうか。ふむ。今の高校生というものは、だいぶ大人びているのだな。
寄りかかっていた幹から背を離すと、そのままふわりと一志の横に降りる。
『今日もその小難しい本を読むのか。お前の頭の中は、一体どうなってるんだろうね』
皆息抜きにここに来るのに、お前は何のためにここで本を読むのか。
『まぁ、好きにすればいいさ。今日は喜楽もいないし、遊ばれることはないだろうよ』
喜楽は、あまり一志が好きではないらしい。
珍しい事だ。精霊は好き嫌いの感情が、そこまで強くないのに。自身の感情が一番で、他の事には興味がない。
けれど喜楽は一志が来ると、とても小さな悪戯をして困らせる。
風の精霊と一緒になって、読んでいる本のページをめくってしまったり、枯葉を集めて頭の上から落としたり。
一志が来ると私の様子が変になるらしく、それが嫌で悪戯を仕掛けるらしい。当の私としては、ただただ一志にほんのかけら興味があるだけでそこまで感情を振れさせているわけではないんだが。
「……10月、か」
『?』
それまで黙って本を読んでいた一志が、ぽつりと呟く。そうして持っていた鞄から、ファイルを取り出して手元に置いた。
「成功、してくれ……」
『成功?』
自分が見えないのをいい事に、ひょこりとファイルを覗き込む。
そこには知らない名前と、術前説明書という紙が入っていた。
「どうか兄さんが……」
――あの人の想いが、どうか叶いますように。
『……』
両手を組んで額につけて、そうして祈った彼の言葉は今までのものより格段と強く心に響いた。
よく見れば、一志の手元にある本は、ここに来てから一ページも捲られていない。最初にちらりと見た人体図のままだ。
一志は、本を読んでいたのではなく。ただ考え事をしていた?
先ほどの説明書に書かれていた手術日は、年明けのものだった。
その、私の知らぬその名は、一志の兄なのだろうか。
一志の願いの強さに鼓動を乱された私は、微かにため息を零して枝へと上がろうと立ち上がりかけた。
「行かないで」
体が、固まった。
立ち上がろうと地に着いた手に、一志の掌が重なる。触れる感覚など少しもないが、それでもほんのりとした熱がエネルギーとして伝わってくる。
目を瞠ったその顔を一志へと向ければ、ただ一心に私を見ていた。
「誰か、きっと、たぶん、神様? ですか? わからない、でも」
微かにずれた視線に、やはり私は見えていないと分かっていても……。
「いますよね、ここに。い、いますよね? さくらの、神様っ」
いや、私は神などという大それたものでは……。
否定しようにも、声は届かず。一志も、何らかの存在を感じていてもそれが何かは分からないし見えていない。
けれど必死の形相で、きょろきょろと視線を巡らせながらも私の隣を離れない。
「僕がおかしいのかもしれない、でもそんなのどうでもいいんだ。誰か、神様、いるのなら。お願いします、お願いします! 兄を助けてください」
そんな願いを言われても、私に敵える術はない。
私はただの、精霊だ。精霊に、人の命に干渉する術など、欠片とて持っていない。
「兄の手術が成功して、元気に、元気になって……っ」
その必死な表情に、身の内に流れる何かが引いていく。きっと人ならば、血の気が引く、そんな状態なのかもしれない。
「元気に……っ! そ、それでっ」
言葉を続ける一志の声を、聞きたくない。
できないことは、できない。
私は、神などではないのだから……。
『私には何もできな……』
「そして、あの人と一緒に生きていけるように、あの人の想いが叶うように、どうか、どうか……っ!」
一志から流れ込んでくる何かが、奔流のように身の内を駆け巡る。命を削るように願うその心が、私を動けなくする。
私にその願いを向けられても、何もできない。
すまん、一志。お前の願いを叶えてやることなど、私には……。
『主さまをはなせぇぇぇえええっ!!』
なんの脈絡もなく、旋風が私たちを取り巻いた。
「うわっ」
『主さま!』
私の手に重なっていた一志の掌が離れ、慌てたようにファイルと本を押さえた。
離れた一志の手を視線で追っていた私は、ぐいっと腕を掴まれて宙へと浮き上がる。そのまま連れてこられたのは、桜の木の一番上。腰を掛けられる、最上の枝。そこにふわりと降り立つと、私の手が離された。
『人の癖に、主さまに何すんだこいつ!!』
そこには、顔を真っ赤にして一志を睨みつける喜楽の姿。
『喜楽……戻ったの』
『戻ったの! ホント、あいつ嫌い!!』
私よりも幼い、喜楽の精。私よりも大人の見た目をして、行動はとても子供っぽい。
『あいつが来ると、主さまがぼんやりする! 今までこんなことなかったのに!』
ぼんやりするって……。
思わず、喜楽の言葉に苦笑する。
『ここに来るひとのなかで、少し毛色の変わった者だったからね。興味が惹かれたが、もう近づかない事にするよ』
『ならいい!』
私の言葉に満面に喜色を浮かべて、集っている風の精と遊びだす。きっと先程旋風を起こした精霊達だろう。
まったく、切り替えの早い事で。
ならいい、で終わってしまう喜楽が面白い。まっすぐに向けてくるその視線は、生まれたての雛の頃と変わらない。
随分と心配をかけてしまったようだ。
視線を下へと移せば、諦めきれないのか一志が座り込んだままきょろきょろと辺りを見渡している。きっとそばにあった何かしらの気配を、必死になって探しているのだろう。
桜の木にまで祈るほど、一志は追い込まれているのだ。
『だから』
そう……
『だからこそ』
もう、一志には近づくまい。
一志は、只人だ。私達精霊を使役できるものではない。いや、たとえ使役できたとしても、ひとの命をどうこうする力は私には欠片もない。
『ならば』
私ができることは、期待をさせない事。
ひとが、ひとならざる者に願うのは自然の摂理なのかもしれない。
けれど叶えることができない私なのだから、変に期待を持たせる方が酷だろう。
「かみ、さま……」
微かに聞こえてきた声を、私は聞かないように目を伏せた。




