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花蘇芳  作者: 峰子
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花蘇芳

花言葉


豊かな生涯


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欲しかったのは、あなたと共に歩む明るい未来だった。






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 先生の病を斬れるのはあたしだけ。この世に仙医はあたしと先生だけだから。

 あたしが仙医である限り、これはあたしと先生の契りで、あたしの生きている理由だった。これが、あたしが先生に生かされた意味のような気がするんだ。

 もしも、人が生きるという事に意味があるのなら。

 あたしは先生なしでは生きていられないだろうから、この命は先生のものなんだ。

 人を癒し、感謝された時はもちろん嬉しい。先生も、あたしを見て笑ってくれる。何も言わないけど、大きな手であたしの頭を撫でてくれる。

 人からの感謝の言葉より、この手があたしには一等嬉しい。

 あまり喋る事のない先生は、あたしを褒める時にはいつも身体のどこかに触れて、気持ちを伝えようとしてくれているような気がする。

 触れた手から伝わる、労り。

 触れた髪から伝わる、誇り。

 そして、声から伝わる、愛しさ。

 ずっとずっと感じていたい先生の気持ちのかけらは、まだ全部を集めきれていない。

 だから、死なせてはいけない。

 あたしが、先生を生かさなくてはいけない。

 あたしの両目は、まだ相変わらず黒いままだった。前よりは病魔を捉えることが出来るけど、藍色の目が一人前の仙医の証。あたしの目は一向に黒いまま。

 今まで斬ってきた病魔なら、この目でも大丈夫だった。

 おぼろげなその黒い蟲の姿が、あたしの目の前で患者の肝や腕や、脚や目に取り憑いて、少しずつ少しずつそれらを溶かしながら喰らう姿が見えた。

 初めてそれが見えた時、あたしは何度も吐いた。

 吐いて吐いて、ふらふらになりながら、先生の差し伸べられることのない手をどこかで期待している自分を励ましながら、太刀を振り上げてその蟲を斬った。

 あたしのその姿を、満足げに見ている先生の姿があたしの目に入った時、仙眼が開いた時に見るだろう先生の胸の黒い靄も一緒に目に入った。


 怖かった。


 先生は、自分がゆっくり溶かされて喰われていく様を、あの藍色の目で見ている。

 あたしが、初めて見た時気が狂いそうになったその光景を、先生は、自分の体で。自分の目で。見ている。

 それに気付いた時、先生の目が縋るようにあたしを見ているような気がした。

 あたしは先生を救えるだろうか。じきに一年が回る。



「太刀筋が鈍っている」


 患者をまた一人癒したその夜、野宿の焚き火に照らされた先生が言った。

 目は、真っ直ぐにあたしを見る。

 あたしは何も言えずに俯いた。先生の言葉には、あたしも心当たりがあるから。

 患者の蟲を見る度に、先生の目がちらついて一瞬怯む。そんな隙を見せれば、病魔にやられるのはあたしなのに。あたしが死ねば先生を救える人間はいなくなってしまうのに。

 仙医の太刀は至宝の方術。

 術師少なにして失われゆくもの。

 仙医はこの世にあたしと先生だけなのだ。


「臆したか」


 先生の言葉にあたしの肩がびくりと震えた。怖い。だけど、そうと知られたくない。先生を失望させたくない。

 もうすぐ一年が回ってしまう。なのにあたしの仙眼はまだ開かない。これ以上、失望されたくない。

「紫藍。俺は恐れていい、と前に言ったな」


 あたしは炎を見つめながら無言で頷いた。拠り所であるように太刀を抱き締めて。

「恐れというものはいずれは立ち向かい、打ち勝たねばならんものだ。だから、俺はお前に恐れていいと言った」


 恐れるから、仙眼はあたしの望みに応えない。恐怖から逃げることも出来ずに、睨まれて立ち竦んでいるから、仙眼は今一歩のところであたしを待っている。

 一生追いつけないかもしれない。

 あたしの命は、先生がいなくなってしまった時に同時に失われるものだから。


「お前は強い女だ。打ち勝て。お前の命はお前のものだ」


 あたしは顔を上げて、初めて先生を見た。

 だって、あたしの命は先生のものなのに。先生を生かすためにあるのに。先生はあたしの命はあたしのものだって言う。

 あたしは突き放されたような気がしたんだ。

 あたしは泣き虫だから。勝手に零れる大粒の涙は、今まで何回先生の苦笑を誘ったことだろう。

 今も零れる涙に先生は苦笑した。


「お前は何か勘違いをしていないか?」


 一生懸命目を擦るけど、涙はあとからあとから溢れてくる。


「命は寄り添うものだ。誰のものであるとかないとか、そういうものじゃない」


「…だけど、先生は前に、先生の命はあたしが握るんだって言ったよ」


 まだ収まらないあたしの涙を、先生の手が拭ってくれた。あたしの大好きな先生の大きな手。

 あたしは両の手で先生のその手を覆って、ひたりと、あたしの頬に触れさせる。あたしが先生の手を捉えているから、小さくなった焚き火が薪を求めて小さく爆ぜた。


「そうだ。俺の命はお前が握る。だが、俺が死ぬその時まで、俺の命は俺のものだ。俺が死んだ後は、仏の御許に帰るだけだ。そして…また、生まれ変わる」


 先生、苦しいの?先生の額に汗が浮かんでいるのは、あたしの目のせいじゃない。

 あたしは、仙眼じゃなくたって普通のものならよく見える。

 先生は胸を押さえて苦しそうにうめいた。


「先生っ!?」


「紫藍…俺が師匠から与えられた名がある。…本当の名は、疾うに忘れた。…意味を、知っているか?」


 先生の名。先生の名は菖蒲。

 あたしの名前にも意味があるように、先生の名にも意味がある。


あなたを信じている――。


「先生っ!!」

 あたしより大きな先生の身体が崩折れて、苦しそうにうめく。

 蟲がざわざわと蠢き、鳴き声を上げた。甲高くて、怖気の走る耳障りな声。

 今まで一度だって病魔の声を聞いたことはなかったのに。それに、あたしはいつもと違う嫌な予感がした。

 小さな焚き火に照らされて見える、先生の吐いた赤い血に、あたしの体中の血が重力に負けて大地に引っ張られた。

 先生を溶かし喰らっていた蟲の動きに合わせて、先生は何度も咳き込む。

 地面に染み入る黒ずんだ赤い血。

 あたしはその色に後退りしそうになる。


「恐れるなっ!!」


 初めて先生の大きな声を聞いた。物静かな先生は、あたしを叱る時でさえ、声を荒げることは決してなかった。

 相変わらず不思議な光を放つ先生の瞳が、あたしを見た。

 強い力を感じた。

 突風が吹くみたいな、急激にぶつけられる強い力を。

 その風は、あたしにこびりついて歩みを止めていた恐怖を絡め取り、世界の果てに連れ去って行った。

 ゆっくり息を吸って吐くと、肺が震える。

 あたしは柄を握り締めて、太刀を鞘から引き抜いた。

 すらり、と鞘から伸びる鋼の輝きは、今まで何度だって見てきた。恐れと共に。

 開いたあたしの藍の両目は、先生を喰らう黒々と大きな蟲を捉えた。これまでになくはっきりと。

 先生をその鉤爪で捕らえ、嬉しそうに口から涎を垂らし。耳に障る鳴き声は、笑っているのだと気付いた。

 今恐れるべきは、先生を失うこと。

 今憎むべきは、先生に巣食う黒い病魔。

 あたしの震える肺と手は、病魔の笑い声をいっそう賑わすだけ。

 だけど、病魔はあたしの目を見るとぴたりと笑うのを止めた。どうやら気付いたようだ。

 あたしの、憎しみのありったけを込めた、燈る藍の眼に。

 呼吸を整えて。

 病魔の姿を見据えて。

 震える手でも、しっかり太刀を握り締めて。

 黒い蟲は身動ぎをした。


「…ぃいやあっ!!」


 掛け声と共に一太刀。返す刀でまた一太刀。

 太刀を振るうごとにあたしを捕らえる恐怖は薙ぎ払われていく。

 あたしは強くなっていく。

 朝陽よ。味方して。まだ萎えそうになるあたしの心を励まして。その姿を現して。

 黒い蟲は、顔を出して大地浄める陽光に、一声鋭く鳴いて怯んだように身を縮めた。その恐怖に染まった目と、あたしの藍の目がぶつかって、あたしと蟲は一瞬見詰め合った。

 そして、最後の一太刀で蟲のその姿は霞と消えた。


 耳元で、血が唸っていた。

 全身が脈打っているように律動が止むことはない。

 自分の呼吸だけが、いやに耳についた。


「紫藍」


 取り落としたあたしの太刀が、地面で跳ねて陽光を反射した。


「紫藍」

 差し伸べられる、大好きな手。

 あたしは、その手を取って、震える両手で包み込んだ。…あったかい。先生は生きている。


「先生…」


 泣き虫なあたしは、やっぱり涙を堪えることが出来なかった。だけど、先生はいつもの苦笑であたしの涙を拭ってくれる代わりに、ぎゅうっ、とあたしを抱き締めた。

 その胸に黒い靄はない。あたしが、斬った。

 とうとう堰を切ってしまったあたしの涙は、流れ流れては先生の着物を濡らした。先生はずっとあたしを抱き締めていてくれた。


 嬉しくて泣くなんて、初めてだったと思う。

 先生がこんなに長くあたしを抱き締めていてくれたのも、初めてだったと思う。

 あたしと先生は、寄り添って生きていくんだ。






 欲しかったのは、こんな風にあなたと共に歩む明るい未来だった。
















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