壱
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花蘇芳
花言葉
豊かな生涯
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絶対にあなたより先に倒れたりしない。
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あたしと先生が出会ったのは、あたしがまだほんのちびだった頃。
村を襲った流行り病で、お父ちゃんもお母ちゃんも、兄ちゃんも姉ちゃんもいっぺんに死んじまって、あたしも病で死にそうだった。
あたしは、もう誰もいなくなったあたしの村で、枯れた田んぼにボロ雑巾みたいに倒れてた。
喉はからからで、舌は喉の奥で貼りついて、満足に息も出来やしない。でも動けなくて、唇はかさかさで、目もよく見えなかった。
ああ、あたしは死ぬんだなぁって、ぼんやり思っていたのだけ憶えてる。もういっそ死んじまった方が楽だと思うのに、あたしはお父ちゃん達みたいにコロリとは死ねなかった。
先生が言うには、あたしは人一倍免疫が強かったらしい。大事な『資質』のひとつだって、先生は自嘲気味に言った。
そんな死にかけの村に、先生はやって来た。とても長い太刀を腰に下げて、でもお侍じゃないってわかったのは、二本を差していなかったから。長い太刀だけで、小刀は差していなかった。
お侍を見る事なんて滅多になかったけど、あたしは一度見た事、聞いた事は決して忘れない。
だから、あの時の先生の言葉も覚えてる。
『おい、死にたいか。』
あたしは泣きながら死にたくないって答えたよ。掠れる声でそう答えたよ。喉はからからで、もう何日も水を飲んでいないのに、それでもあとからあとから零れる涙の温かさで、本当はあたしは生きたいんだ、って、知った。
いいや。知ったなんてもんじゃなかった。
望んだ。強く。叫んだ。力の限り。
先生はとても優しく笑った。
その時に、前髪に隠れていない、唯一見えるその左目が、黒じゃなくて藍色だったのを知った。
先生が長い太刀を空に向けて振るうと、あたしの体がどんどん良くなっていくのがわかった。
長い太刀を巧みに操って、見えない何かを斬っている先生は、その時射した朝日に煌いて、あたしには仏様か何かに見えた。如来様があたしを迎えに来てくれたんだと思った。極楽浄土へ行けるんだ。仏様を信じていて良かったなぁって。
男の人だっていうのに、如来様に見えたよ。
男の人だって言うのにね。
舞いを終えて、おっきな手であたしに水を飲ませてくれた先生。
あたしの命を救ってくれた先生。
それからずっと、あたしは先生の後をついて回っている。先生の生涯ただ一人の弟子として。
「紫藍」
先生の呼びかけに、あたしはもったいぶらずに振り向いた。
紫藍と言うのは、先生があたしにくれた名前。名前に先生の目の色と同じ『藍』が入っているから、あたしはこの名前がこの世で一等いい名前だと思ってる。
何より、先生はあたしにこの名前をくれた後、この名前と同じ花の花言葉を教えてくれた。
紫藍。美しい姿。
紫藍。お互い忘れないように。
「紫藍」
「なあに?先生」
「お前、今年でいくつになる」
太刀を磨きながら、先生は言った。太刀は先生にとって大事な大事な宝物だ。もしかしたらあたしより大事にしてるかもしれない。
「…十五、かな」
もちろん、あたしも先生の弟子として、先生より大事な太刀を持っている。病魔を断ち斬る宝刀を。
「…立派に嫁入りの年だな」
「先生は?」
「…俺は…自分の年など、忘れた」
そう言って、先生は笑った。知ってるよ。先生がそうやって笑う時は、言いたくないことをあたしが聞いちまった時。
知ってるよ。先生は自分の年を気にしてる。あたしが、子供だから。
「紫藍」
先生が、あたしの顎を捉えて上向かせた。
藍色の左目は、病魔を映すという仙眼の片割れ。
あたしの、まだ黒い両目とは違う仙眼の片割れ。
「お前はまだ若い。俺はもういつ病に倒れるとも知れない身だ。早く自分の人生を見つけろ」
まだ黒いあたしの目には、先生の胸の病魔は黒い靄にしか見えない。
先生の目には見えているのかな。
先生の命を吸って、黒々と大きくなる蟲が。
その靄を掴むように、あたしは先生の胸の上で握り拳を作る。
「先生に拾われてから、あたしの人生は普通じゃないんだ。今更そんなこと言わないで」
そして、自分の太刀を抱き締めた。
先生があたしの為に鍛えさせて、あたしの為に拵えてくれたもの。
あたしが唯一、先生を助けられるもの。
「あたしが先生の病魔を必ず斬るから。そんで先生は七十、八十まで生きて、みんなに“大老”って言われるんだよ。絶対そうなるよ」
先生は病魔を斬るのに失敗した。
そして、今その病魔に侵されている。
呪に失敗すれば、病魔は仙医の身体に宿る。
先生の身体は、病魔に蝕まれているんだ。今こうしている間にも、ゆっくりと、確実に。
先生の唯一の弟子であるあたしがこの病魔を斬らなければ、先生はあと一年も保たない。
あたしがこの病魔を斬らなければ、先生はあと一年で死んでしまう。
あと一年しか一緒にいられなくなってしまう。
手が震えるよ。先生、助けて。
あたしの前からいなくならないで。
「紫藍」
先生が呼ぶから、あたしの目から堪えてた涙の大粒が零れ落ちた。
一粒零れて、つられるように二粒三粒。
ぽたぽたと零れて先生の手の上に落ちた。
「怖いか」
あたしは何も答えられなかった。
だって、先生が言ってたんじゃないか。
本当に怖いのは、病魔に侵された患者の方なんだ、って。だからあたし達仙医は病魔を恐れてはいけない、恐れている風を見せてはいけないって。
ただ、病魔を憎めって。
そうあたしに教えてくれたじゃないか。
「恐れていい。大切な者を失う恐怖を知っておかなくては、仙医は務まらない」
ボロボロと涙は零れて、先生の手とあたしの肌の間に染み入った。
先生はあたしの涙で濡れた手で、あたしの頬を撫でてくれた。
「…怖いよ。怖いよ。先生。先生があたしの前からいなくなっちゃうなんて、そんなこと考えたくないよ。…一緒に生きたいよ。先生のやや児産みたいよ。先生とずっと一緒にいたいよ…。死なないで。あたしとずっと一緒にいて。死なないで…っ!」
先生はまるで子供のわがままを宥めるようにあたしの頬を撫でて、困ったように笑って言う。
「俺は、自分の病は斬れん」
先生の声が震えていた。あたしは、びっくりして先生を見上げる。
先生のそんな声は初めて聞いたから。
「お前がやるんだ。紫藍」
先生の藍色の目があたしの目を覗き込む。あたしの涙は止まっていた。
だから先生の顔はぼやけずにはっきりとあたしの目に焼き付けられる。
あたしは、先生のこの顔を一生忘れないだろう。
例え先生が生きても死んでも。
「お前は強くなれ。強くなって、なにものにも負けない技を持て。…お前が、俺を生かしてくれ。
もしもそれが叶わなくとも、俺はお前を怨まん。俺のこの命はお前が握るんだ」
「…先生。あたしには無理だ。先生にも斬れなかった病魔を、あたしが斬れるはずがない。仙眼も開いていないあたしが見えるはずがないよ。今だって、ほら…ぼやけてる…」
先生の胸の上。
蠢きたなびき、幻のように巣食う蟲。
あたしがその影を掴もうとしても、霞を抱くように手には何も残らない。
あたしはそれに絶望した。
あたしの手を取って、先生は先生の頬をあたしの手に触れさせた。
「病魔を恐れるな。憎め。お前が恐れていいのは、俺を失う事だけだ」
先生の藍色の目には、さっきみたいな震える声であたしを見た弱々しい光はなかった。
あるのは仙眼だけが持つ、不思議な強い光。
「いいか。紫藍。この世にお前と俺以外に仙医はおらん。これからはお前がやるんだ。その太刀で病魔を斬れ。斬りまくれ。決してお前は病魔に負けるな。太刀を振るう毎にお前は強くなる。もしも俺を生かせなかったその時は、構わずに進め。その時はお前が継承者だ」
先生を失って一人生き残るか、病魔を斬って先生と生きるか。
それを突きつけられれば、あたしに選べるのは先生と歩む明るい一生だ。
あたしは自分の太刀を掻き抱いた。
今は先生よりも大切な、先生の命に、先生と歩む未来に通じる大切なあたしの太刀。
「絶対に先生を助けてみせるから」
先生を助けるまで、絶対に病魔にやられたりしない。生き抜く。
あの朝日の舞いをあたしは覚えているから。
絶対にあなたより先に倒れたりしない。




