富裕層探偵レイジ
冷蔵庫の扉が開いた瞬間、アキラの喉が縮み上がった。
「ッ……!」
胃が、ぐっと持ち上がる。
生臭い冷気だった。
血とアルコールと、古い雑巾みたいな臭いが混ざっていた。
業務用冷蔵庫の中には、人間がいた。
正しくいえば、“収納”されていた。
四十八歳、男性。
バー経営。
膝を無理やり抱え込ませるみたいな姿勢で押し込まれていた。
背骨が変な方向へ曲がり、頬骨が潰れ、片目が半開きだった。
前歯だけがやたら白かった。
アキラは視線を逸らす。
「初めてか」
ヤマさんが言った。
「……まあ」
「吐くなよ。鑑識がキレる」
「いや、これ見て平気な人の方がおかしくないですか」
「慣れる」
「慣れたくないっすよ」
ヤマさんは煙草を咥えたまま、死体を見下ろしている。
五十代。
くたびれたスーツ。
目の下にクマ。
刑事ドラマなら、最終回で腹を撃たれそうな顔だった。
アキラは、今年で二年目だった。
まだ、「人を殺しちゃいけない」という言葉が、ちゃんと現実感を持っている時期だった。
「被害者、独身。駅前でバー経営」
鑑識が言う。
「死因は頭部への強打。死後、冷蔵庫へ遺棄されたものと思われます」
「借金は?」
「六百万ほどだそうです」
「まあ、ありがちな額だな」
厨房には、中途半端な値段の酒が並んでいた。
その時だった。
現場の黄色テープが、不自然に持ち上がる。
「あっ、すみませんすみません」
全員が振り向いた。
鹿撃ち帽。
チェック柄のコート。
咥えパイプ。
汗。
探偵のコスプレをした、小太りの中年男だった。
腹が黄色テープへ引っかかっている。
ビヨンッ。
「あっ」
少し後ろへ跳ね返る。
「何してんだアンタ!」
アキラが即座に怒鳴る。
「関係者以外立入禁止だ!」
「いや、関係者というか、探偵です」
「探偵ってなんだよ!」
小太りの男は困った顔でヤマさんを見る。
「ヤマさん…」
ヤマさんは煙草を外した。
「あー……レイジ」
「どうも」
「お前、毎度言ってるが、来なくていいんだぞ」
「いやぁ、殺人事件って聞いたので」
「イベントじゃねえんだよ!」
アキラが叫ぶ。
「帰れよ!」
レイジは傷ついた顔をした。
「でも僕、一応、協力者という立場で……」
「どこの世界に鹿撃ち帽かぶって現場来る協力者がいるんだよ!」
「えっと、シャーロック・ホームズとか?」
レイジは四十二歳だった。
休日に一人でコナン映画を観に行き、エンドロール後「今回のトリックは動機が弱いな」と呟く種類の中年だった。
ヤマさんがアキラの肩を叩く。
「やめとけ」
「いやいやいや!」
「追い返す方が面倒なことになる」
「何がですか!」
ヤマさんは小声になる。
アキラの耳に顔を寄せた。
「親父さんが署長とゴルフ仲間だ」
「…最悪じゃないですか」
「パトカーのタイヤ代、あいつの家が出してる」
「癒着が具体的すぎませんか」
レイジはその間に、もう現場へ入っていた。
冷蔵庫の前まで来ると、白い冷気が彼の腹のあたりを撫でた。
その奥で、折り畳まれた男の片目だけが、まだ薄く開いている。
「うわあ」
死体を見ていた。
ちょっと嬉しそうだった。
アキラは本気で嫌な顔になった。
「その“うわあ”やめろ」
「いや、だって」
レイジは冷蔵庫を覗き込む。
「かなり本格的ですよ、これ」
「“本格”って言うな。ミステリーコーナーの棚じゃねえんだよ」
「密室性もありますし」
「“密室”って言いたいだけだろお前!」
レイジはしゃがみ込む。
膝が、パキパキ鳴った。
「被害者、最後に冷やされてますね」
「だから冷蔵庫だって」
「いや、“演出意図”として」
「誰向けの?」
「読者です」
「単行本じゃねぇんだよ」
レイジは大真面目に言う。
「死体遺棄って、“余韻”が大事なんですよ」
「知らねえよそんなジャンル」
「例えば海へ沈めるタイプは、孤独感があります」
「殺人レビューサイトでも書いてんのか」
レイジは冷蔵庫の縁を撫でる。
「あと、この被害者」
「ん?」
アキラが少し身構える。
「几帳面な性格ですね」
「…ほぉ、根拠は?」
「冷蔵庫が綺麗なので」
「飲食店の冷蔵庫が汚かったら営業停止なんだよ」
「あと、冷気が均一です」
「お前もう量販店に行けよ」
レイジは少し考える。
「…では、飲食経験者!」
「バー経営者本人なんだよ!」
「なるほど」
レイジは頷いた。
「えーっと、じゃあ被害者、自殺かもしれません」
「なんでそうなるんだよ!!」
アキラの声が厨房へ響く。
ヤマさんだけが静かに煙草を吸っていた。
レイジは死体を見る。
「人って、追い詰められると冷たくなりたがるので」
「ポエムで捜査すんな!」
「探偵は比喩が大事なんです」
「現実が大事なんだよこっちは!!」
鑑識が小声でヤマさんへ聞く。
「……毎回こんな感じなんですか」
「今日はまだマシな方だ」
「マシ?」
「前は“犯人の残り香がする”って換気扇舐めてたよ」
レイジは突然、酒棚を見た。
「あっ」
「どうしたんだよ」
「この店、かなり苦しかったんですね」
「……なんで分かる?」
「ウイスキーの並びが、“夢を捨てきれない人”です」
レイジは続ける。
「本当に儲かってる店って、こういう半端なボトル置かないんですよ」
「へえ」
「成功してる人って、“夢”を長くやらないんです」
「すげぇ嫌な言い方するな」
「あと、メニューに“自家製”が多い店は危険です」
「なんで」
「人を雇う余裕がなくなると、全部自分で作り始めるので」
「急に現実っぽいな」
レイジは少し悲しそうな顔になる。
「働くって、大変らしいですね」
アキラの目が丸くなった。
視線だけが、レイジの小太りな輪郭をゆっくりと三周した。
「“らしい”?」
「僕、働いたことないので」
「うわあ」
「実家の会社の役員ではありますけど」
「最悪の“働いてる判定”だ」
「でも、六百万くらいで殺人って、ちょっとコスパ悪くないですか?」
レイジは本当に不思議そうに言った。
現場が静まる。
「命を損益分岐点で見るなよ」
「いや、だって」
レイジは真剣だった。
「土地とかならともかく」
「土地だとしてもだよ」
ヤマさんが煙草を咥え直す。
「レイジ」
「はい」
「世の中にはな」
「はい」
「明日の千円で、人生ズレる奴がいるんだ」
レイジは止まる。
かなり長く考える。
「……毎日コンティニュー課金してる感じですか」
「ソシャゲで理解すんな」
レイジは、本当にショックを受けた顔をした。
「それ、かなりの縛りプレイですね」
「お前はSteamレビューでも書いてろ」
その時だった。
レイジが、死体の顔をじっと見る。
潰れた頬骨。
半開きの片目。
冷気で乾いた唇。
さっきまで“本格的”だの“余韻”だの言っていた男は、そこで初めて黙った。
その目からは、子供のような輝きが消えていた。
「でも」
「何」
「この人、犯人に嫌われてはなかった気がします」
「は?」
「顔、拭かれてる」
アキラは死体を見る。
血はある。
だが確かに、顔だけ少し綺麗だった。
「普通、もっと雑になりますよね」
レイジは静かに言う。
「最後くらい、“ちゃんと人間だった”ことにしたかったんでしょうか」
厨房が静かになる。
鑑識も、誰も喋らない。
レイジはそれに気づいていない。
ただ少し嬉しそうに、パイプを咥え直す。
火はついてなかった。
*
その後、三人は駅前のパチンコ屋の裏にいた。
被害者の店の常連が、そこで煙草を吸っていたからだ。
「マスター?いい人だったよ」
六十代くらいの男だった。
ジャージ姿。
歯が一本なかった。
「金は借りてたみたいだったけど」
「借りてたんですか」
アキラが即座に言った。
「いや、でも返すって言ってたから」
「返してないから揉めてるんでしょ」
「まあ、それは……」
男は視線を逸らす。
レイジが前へ出た。
「被害者、冬の海とか好きでした?」
「は?」
「あと、アガサ・クリスティは?」
「知らねえよ」
「そうですか……」
本気で残念そうだった。
アキラが言う。
「何を基準に捜査してんだよ!」
「プロットの格調をと思って…」
「どこの文学賞だよ!」
ヤマさんだけが静かだった。
「…まあ、案外そういうとこに出る時もある」
アキラは振り返る。
「えっ」
「人間、急に人殺さねえからな」
ヤマさんは煙草へ火をつける。
「大体、その前に何か抱えてる」
レイジは少し嬉しそうに頷いた。
「そうなんですよ!伏線があるんです!」
「連載してたまるかよ」
*
犯人が捕まったのは、翌日の夜だった。
被害者の元共同経営者。
四十五歳。
売上金のことで揉めていた。
酔って口論になり、灰皿で殴った。
死んだ。
怖くなって冷蔵庫へ押し込んだ。
以上。
それだけだった。
取調室から出てきたアキラが言う。
「…ただの金の揉め事でした」
「大体そんなもんだ」
ヤマさんは缶コーヒーを開ける。
レイジだけが、少し不満そうだった。
「もっとこう……密室的情念があるかと」
「お前まだいたのかよ」
レイジは黙る。
少しだけ、しょんぼりしていた。
アキラは初めて、その顔をまともに見た。
なんというか、文化祭が終わったあとみたいな顔だった。
「でも、顔は拭いてましたよね」
レイジは小さく言う。
「まあな」
「仲良かったんですかね」
ヤマさんは答えなかった。
代わりに、煙草へ火をつけた。
レイジは続ける。
「殺したあとでも、“他人”にはなれなかったんだ」
アキラは何も言わなかった。
取調室の向こうで、犯人は顔を両手で覆って泣いていた。
帰り道。
規制線はもう外されていた。
駅前では、酔っ払いが笑っている。
「結局、金なんですね……」
アキラが言う。
ヤマさんは煙を吐く。
「そんな面白い事件なんてねぇよ」
その横で、レイジがぽつりと言う。
「でも」
「いや、お前本当にいつまでいるんだよ」
「あの人、死ぬほどお金に困ってたんですよね」
「……まあな」
レイジは少し考える。
駅前のネオンが、パイプの銀色をぼんやり光らせていた。
「お金ないと、人って壊れるんですね…」
アキラは何も言わなかった。
レイジは続ける。
「僕、正直」
「?」
「そこ、想像したことなかったです」
ヤマさんだけが、小さく笑う。
「安心しろ」
煙を吐く。
「お前ん家は、ひ孫のひ孫くらいまで安泰だ」
レイジは弱々しく笑った。
「それなら良かったです」
アキラは頭を抱える。
駅前のネオンが、三人を変な色に照らしていた。




