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富裕層探偵レイジ

作者: ナガタコウ
掲載日:2026/07/03

冷蔵庫の扉が開いた瞬間、アキラの喉が縮み上がった。


「ッ……!」


胃が、ぐっと持ち上がる。


生臭い冷気だった。

血とアルコールと、古い雑巾みたいな臭いが混ざっていた。



業務用冷蔵庫の中には、人間がいた。

正しくいえば、“収納”されていた。



四十八歳、男性。

バー経営。



膝を無理やり抱え込ませるみたいな姿勢で押し込まれていた。

背骨が変な方向へ曲がり、頬骨が潰れ、片目が半開きだった。

前歯だけがやたら白かった。



アキラは視線を逸らす。



「初めてか」


ヤマさんが言った。


「……まあ」


「吐くなよ。鑑識がキレる」


「いや、これ見て平気な人の方がおかしくないですか」


「慣れる」


「慣れたくないっすよ」



ヤマさんは煙草を咥えたまま、死体を見下ろしている。


五十代。

くたびれたスーツ。

目の下にクマ。

刑事ドラマなら、最終回で腹を撃たれそうな顔だった。



アキラは、今年で二年目だった。

まだ、「人を殺しちゃいけない」という言葉が、ちゃんと現実感を持っている時期だった。



「被害者、独身。駅前でバー経営」

鑑識が言う。


「死因は頭部への強打。死後、冷蔵庫へ遺棄されたものと思われます」


「借金は?」


「六百万ほどだそうです」


「まあ、ありがちな額だな」


厨房には、中途半端な値段の酒が並んでいた。




その時だった。


現場の黄色テープが、不自然に持ち上がる。



「あっ、すみませんすみません」


全員が振り向いた。


鹿撃ち帽。

チェック柄のコート。

咥えパイプ。

汗。


探偵のコスプレをした、小太りの中年男だった。


腹が黄色テープへ引っかかっている。


ビヨンッ。


「あっ」


少し後ろへ跳ね返る。



「何してんだアンタ!」


アキラが即座に怒鳴る。


「関係者以外立入禁止だ!」


「いや、関係者というか、探偵です」


「探偵ってなんだよ!」



小太りの男は困った顔でヤマさんを見る。


「ヤマさん…」


ヤマさんは煙草を外した。


「あー……レイジ」


「どうも」


「お前、毎度言ってるが、来なくていいんだぞ」


「いやぁ、殺人事件って聞いたので」


「イベントじゃねえんだよ!」


アキラが叫ぶ。


「帰れよ!」


レイジは傷ついた顔をした。


「でも僕、一応、協力者という立場で……」


「どこの世界に鹿撃ち帽かぶって現場来る協力者がいるんだよ!」


「えっと、シャーロック・ホームズとか?」



レイジは四十二歳だった。

休日に一人でコナン映画を観に行き、エンドロール後「今回のトリックは動機が弱いな」と呟く種類の中年だった。



ヤマさんがアキラの肩を叩く。


「やめとけ」


「いやいやいや!」


「追い返す方が面倒なことになる」


「何がですか!」


ヤマさんは小声になる。

アキラの耳に顔を寄せた。


「親父さんが署長とゴルフ仲間だ」


「…最悪じゃないですか」


「パトカーのタイヤ代、あいつの家が出してる」


「癒着が具体的すぎませんか」



レイジはその間に、もう現場へ入っていた。


冷蔵庫の前まで来ると、白い冷気が彼の腹のあたりを撫でた。


その奥で、折り畳まれた男の片目だけが、まだ薄く開いている。


「うわあ」


死体を見ていた。


ちょっと嬉しそうだった。


アキラは本気で嫌な顔になった。


「その“うわあ”やめろ」


「いや、だって」


レイジは冷蔵庫を覗き込む。


「かなり本格的ですよ、これ」


「“本格”って言うな。ミステリーコーナーの棚じゃねえんだよ」


「密室性もありますし」


「“密室”って言いたいだけだろお前!」


レイジはしゃがみ込む。


膝が、パキパキ鳴った。


「被害者、最後に冷やされてますね」


「だから冷蔵庫だって」


「いや、“演出意図”として」


「誰向けの?」


「読者です」


「単行本じゃねぇんだよ」


レイジは大真面目に言う。


「死体遺棄って、“余韻”が大事なんですよ」


「知らねえよそんなジャンル」


「例えば海へ沈めるタイプは、孤独感があります」


「殺人レビューサイトでも書いてんのか」


レイジは冷蔵庫の縁を撫でる。


「あと、この被害者」


「ん?」


アキラが少し身構える。


「几帳面な性格ですね」


「…ほぉ、根拠は?」


「冷蔵庫が綺麗なので」


「飲食店の冷蔵庫が汚かったら営業停止なんだよ」


「あと、冷気が均一です」


「お前もう量販店に行けよ」


レイジは少し考える。


「…では、飲食経験者!」


「バー経営者本人なんだよ!」


「なるほど」


レイジは頷いた。


「えーっと、じゃあ被害者、自殺かもしれません」


「なんでそうなるんだよ!!」


アキラの声が厨房へ響く。


ヤマさんだけが静かに煙草を吸っていた。


レイジは死体を見る。


「人って、追い詰められると冷たくなりたがるので」


「ポエムで捜査すんな!」


「探偵は比喩が大事なんです」


「現実が大事なんだよこっちは!!」




鑑識が小声でヤマさんへ聞く。


「……毎回こんな感じなんですか」


「今日はまだマシな方だ」


「マシ?」


「前は“犯人の残り香がする”って換気扇舐めてたよ」




レイジは突然、酒棚を見た。


「あっ」


「どうしたんだよ」


「この店、かなり苦しかったんですね」


「……なんで分かる?」


「ウイスキーの並びが、“夢を捨てきれない人”です」


レイジは続ける。


「本当に儲かってる店って、こういう半端なボトル置かないんですよ」


「へえ」


「成功してる人って、“夢”を長くやらないんです」


「すげぇ嫌な言い方するな」


「あと、メニューに“自家製”が多い店は危険です」


「なんで」


「人を雇う余裕がなくなると、全部自分で作り始めるので」


「急に現実っぽいな」




レイジは少し悲しそうな顔になる。


「働くって、大変らしいですね」




アキラの目が丸くなった。

視線だけが、レイジの小太りな輪郭をゆっくりと三周した。




「“らしい”?」


「僕、働いたことないので」


「うわあ」


「実家の会社の役員ではありますけど」


「最悪の“働いてる判定”だ」


「でも、六百万くらいで殺人って、ちょっとコスパ悪くないですか?」

レイジは本当に不思議そうに言った。


現場が静まる。


「命を損益分岐点で見るなよ」


「いや、だって」


レイジは真剣だった。


「土地とかならともかく」


「土地だとしてもだよ」



ヤマさんが煙草を咥え直す。


「レイジ」


「はい」


「世の中にはな」


「はい」


「明日の千円で、人生ズレる奴がいるんだ」


レイジは止まる。


かなり長く考える。


「……毎日コンティニュー課金してる感じですか」


「ソシャゲで理解すんな」


レイジは、本当にショックを受けた顔をした。


「それ、かなりの縛りプレイですね」


「お前はSteamレビューでも書いてろ」




その時だった。


レイジが、死体の顔をじっと見る。


潰れた頬骨。


半開きの片目。


冷気で乾いた唇。


さっきまで“本格的”だの“余韻”だの言っていた男は、そこで初めて黙った。


その目からは、子供のような輝きが消えていた。


「でも」


「何」


「この人、犯人に嫌われてはなかった気がします」


「は?」


「顔、拭かれてる」


アキラは死体を見る。


血はある。

だが確かに、顔だけ少し綺麗だった。


「普通、もっと雑になりますよね」

レイジは静かに言う。


「最後くらい、“ちゃんと人間だった”ことにしたかったんでしょうか」


厨房が静かになる。


鑑識も、誰も喋らない。


レイジはそれに気づいていない。


ただ少し嬉しそうに、パイプを咥え直す。


火はついてなかった。







その後、三人は駅前のパチンコ屋の裏にいた。

被害者の店の常連が、そこで煙草を吸っていたからだ。



「マスター?いい人だったよ」


六十代くらいの男だった。


ジャージ姿。

歯が一本なかった。


「金は借りてたみたいだったけど」


「借りてたんですか」

アキラが即座に言った。


「いや、でも返すって言ってたから」


「返してないから揉めてるんでしょ」


「まあ、それは……」


男は視線を逸らす。


レイジが前へ出た。


「被害者、冬の海とか好きでした?」


「は?」


「あと、アガサ・クリスティは?」


「知らねえよ」


「そうですか……」


本気で残念そうだった。



アキラが言う。


「何を基準に捜査してんだよ!」


「プロットの格調をと思って…」


「どこの文学賞だよ!」


ヤマさんだけが静かだった。


「…まあ、案外そういうとこに出る時もある」


アキラは振り返る。


「えっ」


「人間、急に人殺さねえからな」


ヤマさんは煙草へ火をつける。


「大体、その前に何か抱えてる」


レイジは少し嬉しそうに頷いた。


「そうなんですよ!伏線があるんです!」


「連載してたまるかよ」







犯人が捕まったのは、翌日の夜だった。



被害者の元共同経営者。

四十五歳。

売上金のことで揉めていた。

酔って口論になり、灰皿で殴った。


死んだ。

怖くなって冷蔵庫へ押し込んだ。


以上。

それだけだった。



取調室から出てきたアキラが言う。


「…ただの金の揉め事でした」


「大体そんなもんだ」

ヤマさんは缶コーヒーを開ける。


レイジだけが、少し不満そうだった。


「もっとこう……密室的情念があるかと」


「お前まだいたのかよ」


レイジは黙る。

少しだけ、しょんぼりしていた。


アキラは初めて、その顔をまともに見た。

なんというか、文化祭が終わったあとみたいな顔だった。



「でも、顔は拭いてましたよね」

レイジは小さく言う。


「まあな」


「仲良かったんですかね」


ヤマさんは答えなかった。

代わりに、煙草へ火をつけた。


レイジは続ける。


「殺したあとでも、“他人”にはなれなかったんだ」


アキラは何も言わなかった。


取調室の向こうで、犯人は顔を両手で覆って泣いていた。






帰り道。


規制線はもう外されていた。

駅前では、酔っ払いが笑っている。



「結局、金なんですね……」

アキラが言う。


ヤマさんは煙を吐く。


「そんな面白い事件なんてねぇよ」


その横で、レイジがぽつりと言う。


「でも」


「いや、お前本当にいつまでいるんだよ」


「あの人、死ぬほどお金に困ってたんですよね」


「……まあな」


レイジは少し考える。

駅前のネオンが、パイプの銀色をぼんやり光らせていた。


「お金ないと、人って壊れるんですね…」


アキラは何も言わなかった。


レイジは続ける。


「僕、正直」


「?」


「そこ、想像したことなかったです」


ヤマさんだけが、小さく笑う。


「安心しろ」


煙を吐く。


「お前ん家は、ひ孫のひ孫くらいまで安泰だ」


レイジは弱々しく笑った。


「それなら良かったです」


アキラは頭を抱える。




駅前のネオンが、三人を変な色に照らしていた。





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