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【暴力的】アブノーマル・スイッチ・キャンパスライフ

掲載日:2026/05/04

『あら、あなた、まだ人間でいらっしゃるの? 』


頭から聞こえる声は、背筋が凍るほど冷たい

影の囁きは、私の心臓を直接掴むように響く


引き釣った顔の相手選手が渾身のストレートを放つ

私はそれを冷淡な目で観察し、顔を正面に向けたまま上半身を

左にそらしつつ、左のグローブで巧みに

いなすように軌道を逸らした。


軸足と蹴り足の位置をミリ単位で調整し体幹をコントロールする

次のコンビネーションへ繋げるために導く技術だ。



『〝わたし〟がやりましょうか?いつまでもそんな

 小賢しい技術に頼っていては、この〝発散〟が滞りますよ』



幻聴は理性で行っている行動を小賢しいと断ずる

その誘惑的な声の誘いに乗るように口元がわずかに引き上がった



― この暴力的な囁きが、私に入り込んできた〝異質な影〟―



私は後ろに下がった右肩から右のストレートを打ち込む

これはフェイントだ、感情的になり大げさに打ち込むふりをし

相手の顔に届く前に機動を修正。この一瞬で相手で私の体は既に相手の

左わき腹を捉えるため、左の軸足で懐に強く踏み込んでいた。


右の拳と肘で、顎とわき腹を守りながら鋭く踏み込み

左ひじを上げながら、左フックを相手の体に叩きこもうとする

避けるダッキングではなく攻めるダッキングを使い懐に潜り込もうとする。


――瞬間。


正面から、顔面に激しい衝撃が走った


「ッ…!」


脳が一瞬〝ホワイトアウト〟する

相手はこちらのフェイントに合わせてカウンターの防御を取っていた

自ら顔を相手の拳に突っ込ませた形になってしまう。



これは、計算外の出来事だ。



『あら、この程度の衝撃で中断させられると

 思っているのかしら、無駄な抵抗ですね』



幻聴は私の負った衝撃を無視し、冷徹に相手の行動を分析する

痛みは、私を支配しようとする影にとって「邪魔」なのだ。


痛みで思考が乱れるのを抑え込み

態勢を立て直すさっきから心を揺らしてくる声を無視して

そのまま左フックをボディから相手の手を払うように軌道を修正し


慌てて距離をっ……

――とらずに自ら、前に跳んだ。


相手の顔はさっきから引きつったままだ、恐怖と怯えが見える

たまらず亀の様に両手で顔と体を守る、その動きは既に鈍い。


さらに右フックを顔と体に二発ねじ込み、しゃがみながら拳を打つ

わずかにガードが右にそれて、相手の左の顎がガラ空きとなる。



『もう脳の処理の限界でしょう?速やかにこの作業を完了しなさい』



頭の中の声は、もはや躊躇を許さない。



『ふふ、まだ終わりでないしょう?この程度の抵抗で

 わたしの貴重な時間を浪費するのは、いけませんわ』



私は逆らえない心の中の〝生存本能の塊〟と同じように冷徹な感情を抱きながら

地面を蹴って蹴り足と軸足を調整、距離も完璧、ベストな位置だ。


移動させた身体の重さをコマのように操り左の拳を振る。

鉛のような質量を得た左フックが相手の顎に寸分違わず差し込まれた。



---



あれはまだ小学校に上がる前

近所の公園で友人と二人乗りのブランコで遊んでいた。


目の前を舞う一匹の蝶に魅せられ、フッと手を伸ばす


― それが、全ての間違いだった―


身を乗り出した身体がバランスを失い座席から弾き出された

頭から地面へと落ちていく感覚、コンクリートから

鈍い音が響く様にが聞こえてくる。

小さな身体は、鉄柵を超えて5メートル以上も彼方へと飛び

頭部を強打して、壊れた人形のように意識がそこで途切れた。


次に感じたのは激しいサイレンの音と

地面から浮き上がっていくような浮遊感。


緊急手術の後、そのまま長い昏睡状態に陥ったらしい。

一ヵ月間意識は止まっていたが、〝血のように赤く〟

私の様な形の『赤い影』が生存と関わる何かに静かに

笑いながら融合していくのを感じていた。


これが後の『幻聴』と『攻撃性』の原因となる

冷徹な生存本能の確立だった。


ーーー


意識が、唐突に浮上した。

白い天井、消毒液の匂い。

隣にいた看護師が、私を見て驚愕の声を上げ、病室を飛び出していく

数時間後、検査結果は異常なし。だが、私にはわかっていた。


―何かが根本的におかしい―


看護師がコップの水を差し出してくれる

私が受け取ろうとしたその瞬間、〝目に水が映る〟


手が反射的に動いた。


投げたコップが壁に当たり、ガラスが砕ける音が響く。

看護師の表情は凍りつき、怯えたように後ずさる。


身体が、水に映った光を「脅威」と誤認し

拒絶反応を起こしたのだと直感的に悟る。


幼い頃から、この『おかしい身体』と付き合ってきた

危険になりそうな物を避け、常に物事の「予測」を立てる努力を重ねた。


高校生になる頃には「穏やかで優しい、誰にでも礼儀正しい」

自分を完全に作り上げていた。


そして、大学へ無事に進学する、誰も私の過去を知らない

新しい場所で、「普通の私」を演じ続けることを決意する

静かに、平穏に。


それがキャンパスでの新たな葛藤の始まりとなることも知らずに




---




「いや…今日はいつもより〝ちょっと〟食べすぎじゃない?」


大学の賑やかな学食 で友人の 美咲 に突っ込まれた。

テーブルには半分ほど食べたところの食べかけの大盛りオムライスと

食べ終わった定食の皿、さらに、追加の定食の食券が

並んでいた、呆れたように私を見ている。


「ごめん、今日は少し食欲が止まらない日みたい」

「少しかなぁっ!?」


呆れた顔でこちらを見ている。


笑顔で返したつもりだ、だけど身体の奥の方で

激しい攻撃本能が鳴り響いている

これは、事故以来、私の脳内に居座る

〝赤い影〟を理性で無理に抑制し続けている代償だった。


幻聴が、脳内でイライラと囁き始める


『もう限界です。あなた……まだ身体を使いこなせてないわね?』

(うるさい!わかってる!でも、これ以上食べたら、流石に美咲に怪しまれる!)


衝動を抑え込みながら『普通の人間』として振る舞い続けるための努力を続ける。


「ほんと、すごいね。その体の、どこに入ってるの?」


美咲は笑ってはいるが、その目には既に疑問の色が

浮かび始めている。


その時、私の頭の中で幻聴が激しく命令した。


『無駄な会話!すぐに黙らせなさい!手を伸ばしなさい!』


視界の端が、一瞬チカチカと赤く染まる

反射的に、テーブルに置いてあったフォークを握りしめようとする

テーブルの上で、指先が、ピクピクと、痙攣する。


(やめて、お願い止まって!)


理性の防壁で、全身の力で押し戻す。その反動で、一瞬だけ顔の表情が硬直する。



美咲は私の異変に気づき、私の名前を呼びながら首をかしげる

私はすぐに笑顔を取り戻し

美咲が返してくれるその無邪気な笑顔に


――胸がきゅっと縮む。


(壊したくない)


日常の象徴みたいな人だ。


食堂で一緒に昼を食べるときも

コンビニで並ぶときも

くだらない話で笑い合う時も


全部が〝普通〟で

全部が〝守るべきもの〟で


だからこそ嫌な質問もされる。


「最近…なんか……疲れてる?」


心臓がひやりとする。


(気づかれたら駄目だ)


「大丈夫、ちょっと食べすぎて急にお腹が痛くなっちゃった

みたい、ごめん。すぐに治るよ」


何事もなかったかのように腹痛という理由で

美咲の視線から逃れる

テーブルの下に隠した手に痙攣の名残が残っていた。


(危ない…。これ以上ここにいたら、本当に暴発する)


冷や汗をかきつつ心の中思うが幻聴はまだ収まらない。


『あら、この程度のことで…わたしが代わりに汚れるわ、早く変わりなさい』


この暴力を「発散」するためのもっと効率的で

安全な方法を見つけなければならないと焦燥に駆られた。




---




この衝動を安全に発散する方法を探し続けた

そんな折、大学の掲示板が目に入る

近隣のボクシングジムの広告が目に留まる。


一瞬、電流が走ったような感覚、これだ


勢いでジムに体験入学を申し込む。


まずは鏡の前で、トレーナーの指示通りにジャブとストレートの

基本フォームを確認する、ぎこちないステップを踏み

不格好なフォームで、シャドーを繰り返す。


理性でなんとか抑え込み、ひたすらサンドバッグを打ち続ける

脳内に溜まった暴力的な衝動が『拳』として外へ解放されていくのを感じていた。


ミット打ちの練習が始まると、頭の中の影が

ミットの中心ではなく、それを持っている人間の急所を自動的に計算し始める


恐怖する。ミットを打つたびに〝衝動〟が拳に乗り移りそうになるのを

必死に理性で食い止めた。


フックやアッパーなどの動きや、それらをステップに織り交ぜる

コンビネーションを貪るように習得した。


ただのボクササイズに来た女子大生に見えていたはずのトレーナーも

尋常ではない熱心さと時折見せる〝謎の集中力〟に

徐々に興味が沸いたようだ。


やがてトレーナーはプロ入りを勧めてきたが即座に拒否した。



ーーー



ある日、トレーナーの提案でアマチュアを目指す先輩と

軽いスパーリングを試す、その時、理性を失いかけた。


先輩のガードの隙間が見えたとき、私の肉体は完全に赤い影に支配された。

容赦なく、致命的な軌道で拳を打ち込む。

トレーナーの「ストップ!」の声がなければ、大事故になっていただろう。


数週間後、彼は私の潜在的な〝誤った才能〟を見抜き

試しに他のジムの選手との練習試合を組む。



相手は経験豊富な実力者だった。試合が始まると

容赦なくパンチをもらい始める、右のストレートを顎にもらい

視界が激しく揺れる、鼻の奥が熱くなり、すぐに口の中に鉄の味が広がる。


〝赤い影〟が激しく攻撃的に私を怒鳴りつける。

 やりたくない、混乱する。


激しい痛みと混乱の中で、急に頭がクリアになった。

痛みを負うほど、我慢するのがどうでもよくなっていく。



―― 私の中で何かが壊れる音がした――



全力で暴力を振るう快感を知る

その容赦のない圧倒的な打ち込みの結果は明白だった。

試合中、こうしてスポーツとして相手に攻撃を当てている時の方が

暴れていた衝動が驚くほど速やかに鎮静していくことを発見する。


やっと暴力を発散するための、安全で効率的な手段を手に入れたのだ

私の生活は、平和な日常を守るためのボクシングへと完全に傾いていく


だから私は〝ボクシング〟を始めた。




---




ボクシングでの発散の手段を得てから、日常がガラリと変わった

私の日常は大学生活とジムでのトレーニング、美味しいごはん。


最近では卵と鶏肉をお酢を使って煮込んだ料理が今のマイブームだ

少しハチミツを加えるだけでおそろしいほどに柔らかいお肉になる。


しかし、おなかは満たされても脳の要求が止まらない

甘いもので衝動を一時的にねじ伏せようとする、そのとき。


『ちょっと、あなた。もう十分でしょう?体を維持する

 カロリーの計算値を既に大幅に超過しています。

 あなたのために言ってるんですよ?』


 急に的確な生活指導をしてきやがった。


いつもは恐ろしい癖に急に家庭的な一面を見せる…。


「うるさいわね、誰のせいだと思ってるの?たまには好きにさせてよ!」


たまには「義務」ではなくて甘くておいしい物も食べたい。


部屋に響く怒声に幻聴がわずかにたじろぐ。

結構人間的なとこもあるらしい…と思いながらも、冷蔵庫の扉を閉め……ずに

素早くスイーツを手に取って完食した。


その満足感と、今日の激しいトレーニングの疲労が一気に私を襲う。


私は皿をシンクに放り込み、そのまま力尽きるように布団の中に潜り込む

ベッドに入り、目を閉じる。すぐに、頭の中で幻聴が響く


幻聴はいつものように冷静だが、どこか声に高揚感を含んでいた。


(何を期待してるんだか、これはただの、私が平穏に生きるためのガス抜きだ)


影の期待を打ち消すように静かに心で反論する。

しかし、内心では認めていた、明日の試合が、この一ヵ月

抑え込んできた暴力的な衝動を合法的に解放できる唯一の機会

であることを、明日を待ち望む影と共に、深い眠りについた。




---




――そして、今。


今、私の目の前にはたまらず亀の様に両手で顔と体を守りながら

態勢を立て直そうとする相手がいる。動きは既に、鈍い。



先ほど私が相手のカウンターを受け、脳が一瞬

〝ホワイトアウト〟した。



あの衝撃が過去の全ての記憶を

一瞬にして再生させたトリガーだった。


相手の顎に寸分違わずねじ込まれた拳が相手の顎を打ち抜く。

限界まで研ぎ澄ませていた感覚の、視界の端に血が 、赤く、走る。


もう躊躇を許せない〝私〟が、笑う、嗤う、わらう

目の前の相手を発散のための完全に〝道具〟として認識している

冷徹な感情と共に左フックを顎に差し込む様に振り抜いた。


ゴッ、という鈍い音がリングに響き、相手の身体が揺らぐ…


―〝私〟と『赤い影』はその一瞬の隙を見逃さない―


致命的な角度で相手の頭に左のフックをに打つ

フェイントではない右ストレートを右肩から顔に打ち込む

下に潜り込みながら後ろに下がった左肩を利用して顎を上に打ち上げる

くずれ落ちる前の腹部に右の拳が地面を蹴った全体重を乗せて叩き込まれた


相手の肉体の奥から響く嫌な音が、拳から伝わり

完全に意識を失って、リングに崩れ落ちた。


お互いの体から飛び散った赤い液体がリングの白いキャンバスを汚す

綺麗で、凄惨で、清々しいとしか言いようがない


冷徹な目で倒れた相手を見下ろす。


(終わった。これで発散できた。……これで、私の日常は平穏になる)


そう考えて我に返った時、耳に飛び込んできたのは




観客の悲鳴と、混乱、そして怒声だった。


「ひどい!」「やりすぎだ!」「おい!大丈夫か!救急車呼べ!」


セコンドやチームメイトからは、叫ぶように安否を確認する声が聞こえる。


横たわる相手選手は、壊れた人形のように

完全に意識を手放していた、呼吸は荒く、かすかな呻き声が聞こえる。

その目は虚ろで、生命の光を失いかけているかのようだった。


怒号の中、選手の姿を見て、初めての感覚に陥る。


(……これは、私の身体が受けた痛みとは、違う)


これまで、自分の肉体や心がどれだけ傷ついても

全然平気だった、発散や処理という言葉で片付けてた。

でも…この目の前の光景は、違う…絶対に違う!


激しいサイレンの音と共に病院に運び込まれた

あの時に感じた身体が壊れていく感覚と酷似している。

――相手のチームが叫ぶ声が



― 過去に公園で意識を手放す前の友達の泣き声と重なる―



あの時の私と同じように、目の前の選手は

暴力によって〝壊された側〟に立たされていた。


自分が 〝壊れた人間〟 であると同時に

たった今

〝人を壊した人間〟になったのだと、直感的に悟る。


そして、この暴力は、「発散」どころか、私の中に眠る『赤い影』をより深く

この身体に定着させる行為に他ならなかった。


痛い、体が痛い、体も、頭も、心も全部が痛い。

この痛みは、私が積み重ねた平穏な日々を

たった一瞬で無意味にした重すぎる代償となった。




---




練習試合の翌日、ジムでの出来事は瞬く間に大学の学生たちの間で「噂」として

広まった、誇張され、尾ひれがつき、ただの「危険人物」として認識され始めた。


私は大学の食堂で、食事をしている。

目の前にはオムライスがあるが、スプーンを持つ手がやけに重い。


昨日の試合後からどうにも食欲が湧かない、体が飢えを求めているはずなのに

胸の奥の「痛み」が、胃を固く締め付けていた。


そこに美咲が、テーブルに近づいてきた。


「ねぇ、聞いたよ? ボクシングで相手を病院送りにしたんだって?」


美咲は困惑と軽蔑をする様な目を浮かべる。


「すごいね。女子なのに…?ああいうのって野蛮じゃない?

 暴力を発散するためにスポーツやってるんでしょ?

 自分のことしか考えてないって噂だよ」


続ける様に言う


「あと…大学でも…結構浮いちゃってるみたいだよ?

 この間講義中、ボサボサした髪の男があなたの

 写真撮ってたし、様子もおかしかった。」


さらに続ける。


「あと、最近変な人に声かけられたんだよね、あなたとは

 仲が良いって言っといたけど、色々変なこと聞かれて、怖かった

 もしかしてあなた『何か悪いこと』したんじゃないの?」


頭の中で『赤い影』が激しく叫び始めた。


『すぐに黙らせなさい!この程度の侮辱は、一瞬で「発散」できます!』


反射的に手が震え、テーブルの上に置いてあったフォークに触れる

目線が、友達である美咲の急所を冷徹に計算し始める。頭が混乱する。

壊したくない、大事な友人に向けて


―ストレスから身体を守るために壊そうとする―


(ちがう…!これは今までとは違う!止められない!)


しかし、その瞬間、私の脳裏に鮮血に塗れて横たわる昨日の選手の姿が

フラッシュバックする、虚ろな目、荒い呼吸、〝絶望と恐怖に歪んだあの顔〟


「ッ……」


フォークを握りしめたまま

無理やり衝動を押し殺した。

感情が、深く抉られるような鈍い痛みを訴える。


(この目の前の光景は、違う。絶対に違う。 暴力で、心を傷つけてはいけない)


言葉の暴力が、拳の暴力と同じくらい

あるいは、それ以上に心を壊すことを知る。


「正直あなたの事が心配だよ…」


何も言い返せずに立ち上がる。


「ごめん、私…帰る」



---



逃げるように食堂を出て、家に帰り、自室に閉じこもる

ベッドの上で身体を丸め徹底的に自分を責めた。


平和な日常を守りたかっただけなのに


しかし、私の行動は結局「悪意ある暴力の加害者」

というレッテルを貼られる結果を生んでしまう。


その夜、食事を一切摂れなかった。

まるで、影の機能そのものが生きるための機能を停止したかのように…。




---




家に閉じこもってから二日間、体は一切の食事が喉を通らなかった。


しかし、本能的な飢えは、理性を遥かに超える。三日目をすぎた夜

ふらふらと立ち上がり、空腹からくる眩暈に耐えきれず

近所のスーパーへと向かうことにする。


いつものように危険になりそうな事を避けつつ歩いていたその時。


「あっ」


美咲だった。


拳が、少し震えている。

生存を求めて勝手に動いた体の名残が、影みたいに背中に張り付いて離れない。


「あの…えっと~。」


取り繕うように美咲が言う。


「最近、無理してない?」


「してないよ。ただ…うまくいかないだけ」


「何が?」


聞かないでほしい。


「……殴るとね、少しだけ楽になる。でも違うの

 〝正しく〟なりたいのに、なんか……ズレてる気がする」


私の顔を見た美咲は、わたしの拳をそっと包む


冷や汗で湿った拳を嫌がらず、ただ息を呑んで見上げてくる。


「ねえ、今まで黙ってたけど、時々怖い顔してる時があるよ。

でも……怖がってるのはあなたのほうだよね?」


言われた瞬間、胸の奥がぐしゃりと痛む

そう、わたしは、怖い。


「わたし、暴力と武力の区別……ついてないのかも」


「うん」とだけ、美咲は言った。まるで受け止めるように。


「でもね、区別って、たぶん〝誰のために使うか〟で決まると思うよ?」


美咲の言葉は、不思議と私の胸の奥で残る


その瞬間


黒いワゴンが、美咲の横で不自然に止まる

扉が開き、腕が伸び、布の擦れる音が響く、そして。



〝 美咲の身体が路地裏に引きずられる〟



動こうとするも〝赤い影〟が〝生存本能の塊〟が、動くのを許さない

足が地面に縫い付けられる、心臓の鼓動が早くなる


〝反射的〟に足が動こうとする

視界がまた、チカチカと赤く染まる

足が動かない、助けたい、狂いそうになる

美咲を助けたい、足が動こうとしない

景色が真っ赤に染まっていく。


心臓の音が、あと何拍で、私は狂う。



『——っ美咲を、守りなさい!!』



苦しそうな命令が鼓膜を破らんばかりに響き渡る。


頭が割れそうになる、もはや激痛と言ってもいい。

心臓の鼓動が早くなる

視界が染まる、血のように、真っ赤に染まっていく



―― また何かが壊れる音がした――



〝生存本能を捨てた私〟が

狂うのをためらわず

鋭く踏み込むように走り出した。



---



路地裏の影で、聞き慣れた悲鳴と、男たちの乱暴な声が聞こえる


「オイ、行くぞ、大人しくしろ」 「やめて!離して!」


美咲が二人組の男に腕を掴まれ

停車している黒い車へと引きずり込まれようとしている


男の一人に見覚えがあった、あの日、私が病院送りにした選手の

チームメイトだ、きっと私の事を調べるうちに、美咲の事を知ったんだろう。


恨みによる、卑劣な報復だった。


男が美咲の腕を強く掴み、車に押し込もうとする



―美咲の顔は〈〈言葉にならないほどの恐怖〉〉に歪んでいた―



その瞬間、私の中で、時間が引き伸ばされる


美咲の、恐怖に歪んだ顔、私を見て怯えた、〈〈看護師の顔〉〉

そして昔病院の鏡で見た〈〈私の中の何かが壊れていく恐怖の顔〉〉

さらに、リングの上見た〈〈絶望と恐怖に歪んだ選手の顔〉〉



全ての〈〈恐怖の表情〉〉が、今の〝美咲の顔〟に重なった。



拳の震えがぴたりと止まる

暴力じゃない。

武力でもない。

衝動の正体が初めて、輪郭を持った。


脳が最も早く〝衝動的〟に

最も安全にこの場を乗り越える計算を始める



—暴力は、衝動に任せて相手を壊すこと。

—武力は、誰も壊さず目的のために力で制止すること。


「暴力」と「武力」の違いを腹の底から理解した。



『やめなさい 』



自分の声とは思えないほど、静かな声だ

その声には、感情は一切含まれていない

それは、騒音全てを凍らせるような

異様な迫力と冷徹な感情だけを帯びていた。


男たちは一瞬だけ怯む。


私は構えを取り、足を動かす。

次の行動に移れるように身体を揺らす。ステップを踏む

殺気を込めた目線でフェイントを送る。


だけど、彼らを

〝絶対に傷つけない〟


ただ私の友達の心を壊す行為を

〝それだけは絶対に「制御」させる〟


二人の男は、私の異常な暴力性と残虐性を最近見たばかりだ

彼らは悪態をつきつつ美咲を放し、車に乗り込み、車を出した。




――見送ったあと、ふと我に返った。


(……怖がられたらどうしよう…。)


私の対応を見た美咲は、戸惑いの表情を浮かべたままだった


さっき怖い顔をしていると言われたが、私にとっては

今の美咲の顔の方が怖い…さっきの男たちより怖い… 。


カクついた、ぎこちない足取りで美咲に近づく。

何も言わずに美咲の肩を手を置き、自分の意思で安心させるように言う


「美咲、もう大丈夫だから」


戸惑いを含んだ眼で。こちらを伺う。


(そこまでの事を私はしてきたんだ)


もう何も言わず、無言で手を取り

ゆっくりと二人で歩き出した。


近くの駅まで送り届けた、もう安全だ。


美咲は私の先ほどの行動の意味を測りかねているように見える。


周りを見渡し安堵の表情を浮かべた後

また伺うようにこちらを見る。


…視線に耐え切れず、背を向けて歩き出した。


「武力」は暴力の痛みしか生まない、そう知ったことで、私を縛っていた 自己嫌悪の重荷は、確かに軽くなった、ただ、胸の痛みは完全に消えてはいなかった。


ふと、独り言のように呟いた



「お腹減ったなぁ…。」


「……ぐふっッ」



やっぱり飯だけは食うのか、と言わんばかりの

吹き出すような笑い声が

背中の後ろから響いた。


居心地が悪くなり、振り返ろうとしたが

先ほどの路地裏で見た美咲の顔を思い出し

そのまま美咲に視線を送ることなく、空っぽの自宅へと向かって歩き出した。



---



あの夜から、私の脳内から冷徹な声や攻撃的な衝動は全て消え去った

鏡の前で顔を動かしてみても、依然のような冷酷な笑みは出ない


まるで昔の頃の普通の子供みたいな顔だ

昔の自分に戻った様な気がする。


あの夜、美咲が発した笑い声と、駅へ向かう道のりの空気

そして自分の中から消えた『赤い影』それらが、私を本当の意味で

「平穏な日常」へと導いたのだと、直感的に悟った 。


数日後、私は大学の学食へと足を運んだ。


食欲はまだ完全には戻っていなかったが

身体を保つための「義務」を果たさなければならない。


席に座って、今日は何を食べようかと考えていると


誰かがテーブルに近寄ってきた。


美咲だ…。


美咲はオムライスを二つ持ってテーブルに近づいてきた。

一つは自分の分。そして、もう一つ

私が以前食べきれなかった大盛りオムライスを、私の目の前に、そっと置いた。


目の前に座ると、少し照れくさそうに、でも真剣な目をして私を見た。


「あとね…あの時はごめんね、噂なんて気にしちゃって

 酷いこと言った、でもあなたはあの時助けてくれた。

 あなたのことを信じてあげるべきだったのに」


美咲は少し俯き、小さく息を吐いてから、言葉を続ける


「あの夜、本当に怖かった、でもね、路地裏で『やめなさい』って

 言った時のあなた、すごくかっこよかったよ?」


美咲はそう言って、私に子供の頃の

〝公園で見た友達の様な笑顔〟を浮かべる。


あの夜、私を変えた表情ではなく、心から許し、信頼してくれる

いつもの、美咲の笑顔だった。


「ううん、私の方こそごめん、おかしかったのは…


 遮るように美咲は目の前のオムライスに指を差す


「今日は、これならちゃんと食べられるかな?

 今日もオムライスでよかった?大盛りだけど」


 今度はこっちが思わず吹き出した。


 彼女の中ではもう私=オムライスが好きらしい。

 もちろんオムライスも好きだ

 あの日は重かったスプーンが、今日は軽い。

 

 美咲がつられて笑った。


 私も変わった影と同じように笑った。

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