9.
美琴はベランダに面した窓から外の様子を確認してみる。アスファルトで舗装された駐車場には普通車十台が停められるよう白い線引きがされ、それぞれに番号が書かれている。隣接する住宅との境界にはブロック塀があるくらいで、至って何の変哲もない住民用の契約駐車スペース。
「東の隅にまだ欠片か何かが残ってるんやろうな。それに縛り付けられたままのやつが、敷地内を彷徨ってる」
「東って、あっち側ってこと?」
間取り図を確認した時、ベランダが南東向きだったことを思い出し、美琴は窓から首を伸ばして左側に視線を送る。アヤメに教えられた駐車場の角はちょうど駐車中の黒のワンボックスカーの陰になっていて、ここからでは何も見えない。直接確認する為にと、急いで玄関に回ってスニーカーを履き直し、ぐるりと建物を裏手に向かった。
小さな祠か何かが祀ってあったはずのそこは、今は何の跡形もなく駐車場の他の場所と同じようにアスファルトが敷かれ、ブロック塀に囲まれているだけだ。アヤメの話では何かがわずかに残っているらしいのだが……。美琴はしゃがみ込んで、周辺を注意して見回してみる。
「あ、もしかして、あれ?」
「ああ、それやそれ。柱か何かやろうな」
塀の真下、U字ブロックを敷き詰められた側溝に、片手に乗るほどの小さな木片が一欠けら転がっていた。人為的にではなく、自然と朽ちて折れてしまったように見えるものは祠の社を支えていた柱だったのだろうか。
拾い上げようと溝の中に腕を伸ばした時、美琴の手をパンっと何かが払い除けた。
「ヒトの子が、それに触るなっ!」
驚いて溝の中を覗くと、乾いたU字溝の中で真っ白の毛を持つ狐が、美琴へとギラギラした威嚇の目を向けてきていた。大きさとしては、ミニ柴くらいだろうか。大きめの小型犬という感じだ。その身体の後部には毛をふさふさと逆立てた尻尾が三本。
――三尾の狐……? あれっ、狐のあやかしって、確か九尾じゃなかったっけ?
「なんや、まだ子ぎつねやん」
美琴の背後からひょっこりと顔を覗かせたアヤメが、溝の中で威勢よくキャンキャン吠えている狐を見つけて、小馬鹿にするように笑い飛ばす。尻尾が九尾になる前のかなり幼い子供の妖狐だと説明しながら、尻尾の一尾を引っ張って揶揄い始める。
「ばぁっ、バカにするなっ! 馴れ馴れしく触るな! お、オレは、九尾の銀狐の正統な血を引く妖狐なんだぞっ!」
「銀狐って?」
「妖狐の始祖って言われてる、伝説の狐みたいなんやろ? あんま知らんけど」
子ぎつねをそっちのけに、アヤメと二人でコソコソ話していると、三尾の狐は尻尾を三方へ広げてさらに喚き続けた。小さいながらも種族としての誇りがあるみたいだ。
「と、とにかく、ヒトの子はここから出ていけっ! ここの稲荷様をお守りするのが、妖狐であるオレの役目だ」
ブンブンと尻尾を回して興奮した様子の子ぎつねに、美琴はどうしたものかとアヤメの方を振り返る。アヤメや狐の言う通り、以前はこの敷地の角に稲荷を祀る祠が建てられていたのかもしれないが、今はもう完全に駐車場の一角になっていて跡形もなく、どうしようもない。今回依頼してきた井上を通じて、家主に新しい祠をもう一度建てるよう進言するという手もあるけれど……
「ここの祠ってさ、もう……」
「そやな、随分前から何もおらへんな。空っぽや」
周辺を見渡しても、子ぎつね以外の気配は感じない。かつてはここで祀られていた何かがいたのかもしれないが、今はどこかへ行ってしまっている。ただ、この小さな妖狐を縛り付けてしまう程度には地に力が残っているのが厄介だ。
この妖狐を祓ってしまえば、依頼通りにここでの不可思議な現象は収まるだろう。でも、それでは何だか納得がいかない。
「祠の力をお祓いしたら、この子は自由になれると思うんだけど?」
「は? 何言ってんだ、ヒトの子がっ」
「誰も祀られてないのに守ってても意味ないし、このまま居座り続けられると家主さんも困ってるんだよね」
「だからって、ここを出ても行くあてなんて……」
一気にシュンと尻尾を下げ始めた子ぎつねは、大きな三角の耳まで萎れさせていた。ようやく尻尾が三つになって親元を離れられたと思ったら、あるべき場所にあるべき祠もなく、ただこの土地に縛り付けられてしまったと嘆く。
「うちの庭にも祠があるし、何ならそこに来ればいいよ。――あ、なんか祠同志で流派みたいなのあったら同居はダメ……?」
オニギリ屋のある離れの横庭に、小さな祠が建っている。割とまだ新しい社だけれど、もし先住者がいるのなら、互いに話し合って貰えれば何とかならないだろうか?
そんな美琴の咄嗟の思いつきに、アヤメは手を叩き声を出して大笑いし始めた。元から鬼姫はよく笑う方だとは思っていたが、多分、今まで見た中で一番ウケている気がする。
「あははっ、さすが真知子の孫や、おもろいな! あそこはアタシが祀られてるねん。オニギリ屋の商売繁盛を願ってな」
「だから、店の名前が『おにひめ』なんだ……」
「ええよ。下僕にチビ狐が一匹増えるくらい、問題ない」
新しい住処が決まったことで、子ぎつねの耳はピンと立ち直したが『下僕』呼ばわりには尻尾を振り回して抗議していた。
美琴はリュックの中から封印の護符を一枚取り出すと、それを駐車場の隅のアスファルトの上に置いた。そして、右手を広げて乗せてから、護符へと祈りを込めて唱える。
「――われの名は美琴、この地に残る力を封印する――」
かつて祠の横に植わっていたという桜の大木の、その葉の騒めきが一瞬だけ耳に届いた気がした。