3.
「あれ、お婆ちゃんは?」
玄関先に祖母の履物が無いことに気付き、美琴が台所に顔を覗かせてツバキへと問う。離れの店の方にもいないみたいだが、と。
少し早めに夕飯の用意に取り掛かろうと冷蔵庫の中身をチェックしていたツバキが、木綿豆腐のパックを出しながら振り返って答える。
「先生は、依頼を受けて出られました」
「ええーっ、最近ちょっと多くない? ネットで口コミでも回ってたりして」
普段の買い物なんかはツバキが請け負っているから、真知子が家を出ている時のほとんどは本業絡み。表向きはオニギリ屋の名物店主である祖母の本来の稼業は祓い屋だ。その対象は心霊や、あやかしなど、ある種の人間にしか視えないものがほとんど。八神家はそういったものに悩んでいる人の相談を受け、先祖代々から伝わる術や護符を用いて対処するのが生業だ。
とは言え、八神家の入り婿だった祖父は祓いの能力どころか、視える人ですら無かったらしい。美琴の両親もその辺りの素質がどうだったかはこれまで聞いたことはない。ただ、八神の分家で同じように祓い屋として動いている家が他にもあるとは聞いたことがある。親戚付き合いはあまり多い方ではないから、詳しいことはよくわからないが。
「先生が、護符が少なくなってるから、新しく作っておくようにと」
「うん、着替えてから取り掛かるよ」
「紙と墨は準備してあります。今日は多めに持って出られたようなので――」
「分かった。できれば先にお風呂の用意をお願いしていい? お婆ちゃん、最近は出掛けた後かなり疲れてるみたいだから」
小さく頷き返したツバキは、出したばかりの豆腐を冷蔵庫へ戻して、風呂の支度をする為に台所を出ていった。美琴も自室へ戻って制服からの着替えを済ませると、仏間を横切り、さらに奥の部屋の襖を開く。
畳四枚が敷かれた小狭い和室に一歩足を踏み入れてみれば、無意識に背筋がしゃんと伸びる気がした。四方八方に護符が張り巡らされている部屋には、横幅1メートルほどの座卓一台が置かれているだけだが、この部屋の中だけまるで違う空気が流れているように感じる。それは四枚の畳の下の床板には特殊な陣が彫り込まれているせいだろうか。それだけではなく、杉の一枚板で作られた座卓をひっくり返して見ようものなら、板裏にも墨で描かれた同様の陣が確認できるはずだ。この部屋は屋敷で唯一の神聖な場所。
美琴は座卓の前に敷かれた座布団に正座して、長方形の紙の上に墨を乗せていく。一文字を一呼吸で一気に書き上げるのは、古来から八神家が扱う梵字護符。黒墨で梵字を描いた上から、赤墨で封の印を重ねていく。これは他の部屋で書くのでは意味がない。陣で力を集約させ、護符で清められたここだからこそ効力が生まれると聞かされている。
幼い頃から何度も書き直しさせられ、ようやく使えるものが書けるようになったと認めて貰えたのは二年前。美琴には人ならざるものの存在が視えたことはないけれど、一応は紙に力を込めることはできるみたいだ。ただ、その自覚はゼロに等しい。
――ほんと、こんな紙で何ができるんだろ……?
護符の効力を一番信じていないのは、何を隠そう美琴自身だ。手本に従い、言われた通りに墨で紙の上に適当に書いた文字。そこに除霊の力があるとは思えない。確かに紙も墨もこだわりの物を取り寄せて使ってるみたいだけれど、書いているのは修行僧でも弘法でもない、十七歳のただの小娘なのだ。
しかも、陣を張ったこの部屋でなら誰にでも書けるかというと、そうでも無いらしい。真知子がツバキに護符を作らせているのは見たことが無い。
子供の頃から何度も喉元まで出かかった「胡散臭い」という言葉。高校生が書いた護符を除霊だと言って客に渡す真知子もそうだけれど、それを信じてすっきりした顔で帰っていく客もまた、胡散臭さを漂わせている。
かと言って、霊感商法で訴えられたという話は聞かないし、客足は減るどころか最近ますます増えている。今のところは信じているふりを通す方が賢明なのか。
ただ心底それらを疑うことが出来ないのは、美琴自身にも人ならざるものの存在に薄っすら気付き始めているからだ。どこからともなく感じる視線。不意に耳に届く、何かの囁き。それらは年々強く感じるようになった気がしてならない。けれど、それらが何を伝えようとしているのかは、視えない美琴には知る術などない。
用意されていた紙の半分を書き終わったくらいだろうか、玄関の戸がカラカラと開かれる音が遠くに聞こえた。窓の外に視線を送れば、もうすっかり暗くなっている。残りを一気に書き上げた後、台所から漂ってくる麻婆豆腐の香りに美琴が吸い寄せられるまでは一時間くらいが過ぎただろうか。お風呂場の方からは真知子が湯舟に浸かりながら口ずさんでいるらしい上機嫌な鼻歌が聞こえていた。