婚約は破棄します、だって妬ましいから。
15000字↑ほどのざまぁ短編です。微量に百合成分があります。
住む世界が違う――――公爵令嬢に転生しておきながら、エミリアは彼女を見て、そう打ちのめされた。
乙女ゲーム本来の主人公、フラン男爵令嬢イリス。貴族学園入学初日、正門から歩いてくる彼女を見かけた瞬間。
「あ…………ぁ…………」
まず、声が出なくなった。否定したい言葉が、小さな悪意が、生まれようとする嫉みが……その圧倒的なオーラに、焼き尽くされていく。
(ふ、ふふ……これが世界の〝主役〟なのね。神々しくて、目がつぶれそう)
エミリアは、心の奥底で膝をついていた。
(ゲームの悪役令嬢、すごいわ。同じエミリアなのに、私には無理。アレに嫉妬して、殿下を取り合うなんて――――あるいは)
桃色の差した彼女の瞳が、こちらを向いて。
目が、合った。
(狂ってしまったのかも、しれない。私はもうなんか、笑いしか出ないけど。こんなの、勝てっこないわ。もし彼女がジーク王子にアプローチしたら、私は…………)
エミリアは胸の奥に、小さな痛みを覚える。同時に、肩や頬の力が抜けていくのを感じた。顔を綻ばせ、なぜか近づいてくるイリスを待つ。彼女がゆっくりと淑女の礼を深くとっていくのを、動く芸術品を眺めるように見つめた。
「頭を上げなさい。私は、パーシカム公爵の娘、エミリアよ。あなたは?」
「お許しをありがとうご存じます。イリス、父はフラン男爵です」
挨拶のやりとりは、自然と滑り出した。公爵家、そして王宮の教育に感謝しつつ、エミリアは深く頷く。
「結構。ここでは同じ学生同士、共に切磋琢磨を――――」
「イリス、というのかい」
どこからともなく現れて、二人に割り込んだのは……線の細い、エミリアの〝王子様〟。彼の声を聴き、いつもならば胸が弾むのに、どうしてかエミリアは不安でいっぱいになった。首の後ろに緊張を覚え、声もなく彼の姿を認め、眺める中で。
「私はジーク。よろしく、イリス」
婚約者の紹介も待たず……王子は男爵令嬢の手をとり、その甲に優しく口を付けた。
いつの間にかできていた群衆に、ざわめきが広がる。
(どうして……)
エミリアの胸の奥には。
もやり、とした何かが。
浮かび上がっていた。
☆ ☆ ☆
入学して、ある日の夜半。
(…………ゲームのエミリアは、ジーク様と婚約できなかった。妃教育で脱落したから)
エミリアは寮の廊下を、静かに歩いていた。小さなため息を、零しながら。
(でも私は生き残った。何の才も授からなかったけど、最後まで地道に努力して)
この世界の住人は10歳になれば、精霊の祝福を受ける。だがエミリアは〝無才〟だと判定され、蔑まれた。それでも、ジーク第二王子の妃を目指して……王宮の妃教育にしがみついた。他の令嬢たちが才に溺れて自滅していく中、最後まで残ったのは――――エミリア、ただ一人。
(もう安泰だと、そう思っていたのに……ジーク様)
エミリアは胸元の、桃色の差した石が埋まった、ブローチを握り締める。それは王子が初めてくれた、贈り物。国宝に準ずるという貴石を用いた、代物だった。
努力が実を結んだのか、ゲームとは異なり、エミリアはずいぶんジークに目をかけられた。
(あの方は無才の私を励まし、時折気遣って遊びにも連れ出してくれた。いきなり部屋に忍び込んできたあの日は、本当にびっくりしたけれど)
『君に会いたくて勉強を抜け出してきたんだ』と笑うあどけない彼が、とても愛おしくて。つい、いつも彼に手を引かれるまま、遊びに出た。遅れた分を、寝る間も惜しんで取り返さなければならなかったが……苦にもならなかった。
ずっと一緒に、いたかった。
(あとで怒られるのは、いつも私だったけれど……楽しかった。前世でも、あんな瞬間はなかった。誰も私を、顧みてくれなかったから。そう、殿下だけが、私を見てくれる。そう、思っていた)
王子に励まされながら、教育を受けて、数年。競い合った侯爵令嬢が、エミリアに道を譲って実家に帰った時、彼女は勝利を確信した。ほどなくエミリアは、ジークの婚約者に選ばれた。王子からブローチをもらったことと、彼と親しいこと。公爵家の娘であることが決め手となった。〝無才〟の者が王家に嫁入りするなど、前代未聞のことである。
エミリアは歓喜した。これできっと、乙女ゲームの断罪も回避できるに違いないと、確信したからだ。もうヒロインのイリスに嫉妬していじめ、王子にアプローチを続ける必要はない。ジークとの未来は、約束されている。
はず、だった。
(そう、大丈夫。イリスがいようとも、きっと大丈夫だから)
イリスは「努力すれば無限に成長する」という才〝才能〟の祝福を授かっている。頭角をめきめき現しつつある彼女に、多くの者が……もちろん王子も注目していて。エミリアは己の脳裏よぎる不安を、頻繁に打ち消していた。
寮の二階まで降りたエミリアは、ある部屋の扉をノックする。「鍵は開いています」と応諾の声が聞こえ、彼女はノブを捻って、扉を押し込む。
「あなたに貸した、工学書の記述が確認したくて――――」
顔を上げ、エミリアは目を見開いた。
「やぁ、エミリア」
かけられた声が遅れて耳から脳に入り、エミリアは数度瞬きしてから、素早く室内に身を滑らせる。扉を閉めて内鍵をかけてから、窓際の机に行儀悪く腰掛けているジーク王子に、詰め寄った。椅子に座ってあわあわしているイリスの肩に手を置きながら、わななく唇から出る声を……必死になって落として。
「殿下……! ここは女子寮です! すぐお帰りになってください! そろそろ見回りの時間です!」
エミリアは自分の言葉が出ると共に、血の気が引いていくのを感じていた。一方の王子はいつものように穏やかに――あるいはへらへらと、笑っている。
「イリスの将来に……殿下、御身にも関わります。お早く……!」
「なんだよ、エミリア。王宮の時と一緒だろうに……君に会いに来たんだけどなぁ」
だるそうなジークの言い様に……エミリアの胸の奥で、いつか感じたもやもやが湧き出ていた。ブローチを無意識に手で握り締め、エミリアは胸の不快感を無視し、息を吐き出す。
「女子寮に殿方が侵入などと、下手をすれば人死にが出るのです! そちらから、どうか!」
「わかったよ。じゃあね、イリス。おやすみ」
言うが早いか、ジークは身をひるがえした。窓枠に取りついて跳び、近くの木の枝を使い、上手に地上に降りている。それは、王宮で忍び込んできた彼を見送るときと、同じような光景で――――いつもなら名残惜しく、ずっと見ていたものだ。しかしエミリアは即座に窓を閉め、鍵をかけ、カーテンを引いた。
「ご、めんなさい……エミリア様。婚約者がいらっしゃるのにと、お断りしたのですが」
「謝ることはありません、殿下が悪いのです。彼を罰することはできませんから、場合によっては寮監の先生が責任をとらされ、処刑されてしまいます……今後、絶対窓を開けないように。部屋の鍵も、念のため常にしておきなさい」
「っ! わかりました。そう致します」
体を強張らせるイリスの肩を、エミリアは優しく撫でる。彼女も緊張が解けたのか、頬を綻ばせていた。
エミリアの、胸の奥のもやもやが。
(…………あれ?)
体の内側に、こびりつくようだったそれが。すっと、消えた。ベージュのカーテンを振り返り、エミリアは首を傾げる。
「エミリア様?」
「ああ、なんでもないのです。それで――――」
当初の用を改めて告げながら、エミリアは。
(あの〝もやもや〟はもしかして、嫉妬? けど……)
胸の内に、呟きを零した。
朗らかにほほ笑む、イリスを見ながら。
☆ ☆ ☆
またある日の学園、食堂。エミリアは野菜と豆や魚の載ったプレートを受け取り、席を探した。
「最近、お一人が多い」「殿下が魔物退治に行かれるからでは?」「だが男爵令嬢にご執心だと……」
ざわめきに混じり、どこかからそんな言葉が耳に入る。視線を向けぬようにしながら、エミリアは歩き続けた。
(大丈夫。ゲームと違って婚約もしたし、私はイリスをイジメてもいない。嫉妬など、できる相手ではないし……あれ以来、殿下が不用意にイリスに近づかないよう、気を付けてる。なのに……)
ざわり、と胸の奥から〝もやもや〟が沸き上がり、エミリアは小さくため息を吐く。
(あんな噂。いったい、どこから……)
目当ての人物を見つけ、エミリアは顔を取り繕った。
「ここ、いいかしら。イリス」
「はい! おいでになると思いまして」
男爵令嬢を見かけ、彼女が椅子から多量の本をどけるのを待ち、席に着く。〝万才の乙女〟とまで呼ばれるようになったイリスは、しかし友人には恵まれないのか、一人でいることが多かった。
「精が出るわね。殿下と遊んでいると、そんな噂を聞くけど?」
自分でも意地悪だと思いながら、エミリアが茶化して聞く。目を丸くしたイリスが、冗談だとわかってくれたようで……にこやかな笑みを浮かべた。
「とんでもないです! わたし、遊んだりなんてしませんから」
「そう、さすがの努力家ね。殿下は優秀だから遊んだり、魔物退治にも行けるけれど……我々が合わせたら、成績が落ちてしまいますもの」
イリスの才はあくまで、本人が努力しないと何かをできるようにならない。ふわっとした見目に反して、苛烈な上昇志向を持つ貧乏男爵家の娘には、実に合っている祝福だった。
(〝無才〟の私や、最初から優秀な殿下とも違う。憧れる。不思議とこの子を見ても、もやもやしないのよね)
彼女を盗み見ながら食事を始めようとしたとき、ふと目が合った。
「どうかしたの?」
「いえ、その。遊びはしないのですけど。殿下が勉強を教えてと、よくいらっしゃるので」
気になる一言を聞き、エミリアはフォークでさした生野菜を、そのまま口に放り込む。
(この間の試験、満点だったという殿下が……? どういう、こと?)
もやりとしたものを、抱きながら。エミリアはイリスから、詳しく話を聞いておくことを決意した。
☆ ☆ ☆
(やっぱり…………思い過ごし、よね。素晴らしい発表だった)
その日。ジークは王立の大学で、〝花と精霊の相関について〟という論文の発表を行った。祝福の仕組みに迫るものとして、大いに注目を集め、聴講したエミリアも誇らしい想いだった。
同時に。
(やはり、才能のない私なんかとは、違う。イリスほどなら、もう比べる気も起きないけれど。少し殿下が、羨ましい……)
未来の夫と、なるだろう相手。転生者イリスとしては、仄かに「対等であってほしい」という幻想も抱く。だがジークは、王になるかもしれない者。おこがましい想いだと、エミリアは首を弱く振った。微妙に〝もやもや〟が晴れず、エミリアは大学の廊下を彷徨う。
無意識に握り締めた胸元のブローチが、少し暖かく感じた。
そっと見て、ブローチの角度を確かめる。ジークからの初めての贈り物だったそれは、〝竜鳥の涙〟と呼ばれる宝石のついたブローチ。見ていると、当時のドキドキを思い出して、時が経つのを忘れる――――そんな宝物だった。
(これを贈られたときのことは……今でも、忘れられない)
妃教育を受けていた令嬢たち誰もが、有用な才を授かっている横で、なんの祝福も受けられなかったエミリア。貴族ではないとか、不義の子だとまで噂され、暗くふさぎ込んでいたとき。
『泣かないで。これをあげるから、元気出してよ』
そんな言葉と共に、もらったブローチだった。
(効いたなぁ、あれは。お父さまやお母さまが、間が悪くて王都に来れなくて……使用人のみんなも励ましてくれたけれど、心細くて。そんな時に殿下は、こんな私に優しく、してくれて。涙が、止まらなかった)
その瞬間、エミリアは彼を好きになってしまった。
それは衝撃的な、恋だった――――前世の記憶を、思い出すくらいに。
乙女ゲームの悪役令嬢に、転生したと自覚した彼女は。
シナリオを捻じ曲げて、王子の妻となることを。
決意した。
もちろん、周りからは笑われた。才のない令嬢が、王子の妻になんてなれっこない、と。エミリアは耳を塞ぎ、ひたすら突き進んだ。
そうして勝ち取った、婚約だったのだ。
なのに。
(大丈夫。殿下は私を、愛して――――)
このところ、人がいるところでは常に噂を耳にした。それはおおよそエミリアとジーク、そしてイリスのことだった。イリスに探りを入れているエミリアとしては、そんなことにはならないとわかっている。わかっているつもりだったが……噂を聞けば不安が膨らみ、〝もやもや〟が大きくなる。自然と彼女には、人のいないところを目指してふらふらと歩いていく、癖がついていた。
(ここは……………………あれは?)
見覚えのまったくない場所に出て、ふと顔を上げる。
廊下遠くに、重なり合う人影があった。
(まさ、か)
足が止まった。
声が、出なかった。
息をすることも、できない。
鼓動が止まったような、気がした。
影が分かれ、うちの一つが奥へ去る。
もう一つが……。
「エミリア様!」
エミリアに、近づいてきた。
眩い輝きを纏う。
ヒロインが。
「あ、あなたも殿下の発表を聞きに!? そうよね、素晴らしい論文で……」
「違います、殿下に呼ばれて」
(え。どういうこと? なんで大学にわざわざ?)
エミリアの視界が、揺らぐ。ぐらぐらとし、定まらない。だがなぜか、下だけは見ないようにと、視線が上がった。そこに、イリスの胸元に。
見てはいけない何かが、あるような気がして。
「それよりこれ、見てください! 殿下に頂いたんです!」
イリスが近寄ってきて、少し背伸びをする。エミリアより少しだけ背の高い彼女の胸元が、どうしても目に入って。
彼女の瞳のような。
桃色の差した。
宝石が。
「〝竜鳥の涙〟! エミリア様と、おそろいです!」
無邪気な光が、眩しくて。
あまりにも、輝かしくて。
エミリアは、がっくりと。
膝をついた。
★ ★ ★
胸の〝もやもや〟は、もう限界だった。
それからしばらく、エミリアは駆けずり回った。
ジークとエミリアの不仲、婚約破棄まで噂に囁かれる中。
どうしても彼を、信じたくて。彼の意思を、確かめたくて。
最後にエミリアは、決意した。
〝賭け〟に打って出ることにしたのだ。
ジークが自分を、信じてくれるかもしれない、と。
致命的な破綻をもたらす、覚悟をして。
★ ★ ★
賭け事は、苦手なのだけど――――エミリアは舞踏会に向かいながら、そんな呟きを呑み込みんだ。大学でのあの日から、しばらく。エミリアはジークに、呼び出された。
しずしずと歩いてきたエミリアは、胸元のブローチに触れ、そっとため息を吐いて俯いた。扉の前で、足を止める。結った髪と、布を重ねたドレスが重たい。服の留め具が外れてないかを密かに確かめ、扉が開くのを待った。
「私は……悪役すらやめた、無才の娘。何の取り柄も、ない。きっとこうなることは……決まっていたのよ」
エミリアは喉からせり上がるものをこらえきれず、そっと声を漏らす。誰にも聞こえないよう、慎重に。少しの震えを、混ぜながら。
エミリアは弱気を払うように首を振り、開いた扉の中へ向かって歩みだした。
(お慕いしています、ジーク様。どうか)
令嬢令息に道を譲られながら、使用人を置いて、エミリアは真っ直ぐダンスホール中央を目指す。天井の大きなシャンデリアには、ゆらゆらと灯りが輝き、しかし歩むうちに見えなくなる。視界の端を窺えば、密やかにエミリアを見て何事かを囁く者たち。目を伏せがちに下へ向けると、複雑な刺繍が描かれた見事な絨毯が広がっていて……目的の人物の、足先が視界の中に入った。
(どうか私を、信じて。あなたの愛を、信じさせて――――)
エミリアは白い手袋に包まれた両手を、胸の下でぎゅっと握り締める。心臓が早鐘のように鳴り、鼓動が口から飛び出しそうだった。声と息を漏らさぬように奥歯を噛みしめ、慎重に視線を上げる。目に映るのは、すらっとした脚、装飾煌びやかな装いに包まれた胸元と肩。甘い口元は、今は引き結ばれていて。澄んだ青い瞳が、睨むように細められていた。
「ジーク、様。エミリア、参りました」
オレン王国、ジーク第二王子。彼が髪を払うように顔を僅かに上向け、エミリアを見下すように視線を下ろした。その金糸の揺れが、止まり。
王子の、愛しい婚約者の、指が。
(ああ……これは、やはり。私、やっぱり。賭け事は……苦手だわ)
真っ直ぐに、エミリアに向かって突きつけられた。
「パーシカム公爵令嬢エミリア・クラメンス! 君との婚約は、破棄する!」
それは婚約者に選ばれた日、聞くことはないと確信していた言葉。訪れないはずの断罪は、しかしやってきてしまった。エミリアは取り繕うように、取り乱すように、瞳の端に涙を浮かべて口を開く。だが唇は震えるばかり、喉は強張るばかりで、なかなか言葉を発しない。
(終わって、しまった。私の恋が、ゲームが。こんなに、あっさり。あの日々は、なんだったというの)
恋心を塗りつぶす、胸の奥のもやもやが、邪魔で。
何も、言えない。
「異論はないな? エミリア」
重ねられた、問いかけに。
あるいは、彼の周りにいる、取り巻きたちを見て。
(そう……結局この方にとって、他人なんて。ならちゃんとお別れを告げて――――)
エミリアはふっと、肩の力が緩んだ。
(終わりに、しましょう)
無意識にブローチを握っていた手が。
離れる。
「殿下は――――羨ましいです」
「なに?」
一筋の涙が流れたが、エミリアは笑顔だった。対する王子は、眉根を寄せて頬を歪めている。
「国有数の公爵家の娘との婚約を、ご勝手に破談できるなんて。第二王子でも、その恩恵にあずかれるほどの……オレン王家の繁栄は。喜ばしい限りです」
「皮肉か? 私が、私の婚約を破棄して、何の問題がある」
(ああ、やはり。やっぱり大人へは、何の根回しもされてないのね)
ホールの奥。別の出口付近から、幾人かの者が慌てふためき、扉から出ていくのが見えている。エミリアは細く息を吸い、穏やかにほほ笑んだ。
「皮肉だなんて、とんでもないことでございます」
そう、皮肉ではない。ジークは承認欲求が高く、羨んだり褒めたりすると、感情が昂りやすいのだ。だから「羨ましい」と、そう言っているだけである。
彼が〝拒絶〟を選択した以上、エミリアは手を抜くつもりが、なかった。
「しかし理由もなく、破棄に踏み切れるその胆力。羨ましく思いますわ」
「理由がない、だと?」
エミリアが続けると案の定、王子は怒りの表情を鋭くした。
「あるとも! 才女イリスをいじめる女を、無才の君を! 王族に連ねるなど許されぬのだ!」
「羨ましい……そのお話、殿下が直接お調べになったわけでは、ないのでしょう? たくさんのことを囁いてくれる、ご友人がいて。やはり私、羨んでしまいます」
冷静さを欠いていくジークを見つめながら、エミリアは冷たく囁く。彼の両隣の令息たちを見れば、その手にはボロボロの本や、ドレスがあった。
「我々は無才のあなたと違って、その能力を殿下のために使っているだけだ」
「そうだ、証拠もある! これらはあなたが捨てたもの! 間違いないだろう!」
「証拠の隠滅を図った、ということだな。言い逃れはできんぞ、エミリア……!」
いきり立つ三人を、エミリアは流し見る。努めて冷静に、細く長く呼吸をしながら。そうしないと……感情が、噴き出してしまいそうで。
「確かに私が処分したもの、ですが。殿下、その本。覚えてらっしゃらないのですか?」
「なに?」
王子が怪訝な顔をし、本をちらりと見る。ボロボロで薄汚れているが、破れていたりはしない。よく見れば、それは読み込んで擦り切れて使い古されているのだ、とわかるはずのものだった。
「イリスが持っていたものだ、と記憶している。間違いない」
「中身については?」
「中身だと?」
(この方は……うわべだけで、人に興味がないんだわ。いつもご自分のこと、ばかり)
エミリアは背筋を正し、深く頷いた。
もう後戻りはできないと。
覚悟を決めて。
「それは植生についての本です。そういえば殿下、先々月の王立魔法大学でのご発表。お見事でした。花と精霊の加護の関係について、新しい切り口であると好評でしたね?」
「ふん。いまさら私をおだてたところで、婚約破棄を取り消すつもりはないぞ?」
「ええ。ですが、あの発表については、お取り消しいただきたく思います」
敏感に雲行きの怪しさを感じ取ったのか、ホールがざわつき始める。エミリアは薄く笑みを浮かべ、動揺を見せるジークを眺めた。
「どういうことだ。君に何の権利があって――――」
「権利がないのは殿下も同じ、そう申し上げているのです。あの原稿、イリス嬢に書かせましたね?」
エミリアは使用人が持ってきた紙束を、息を呑んで固まる彼に、見せつける。
「こちらは写しですが、私は彼女が書いた原本を確保しています。殿下が発表に使った原稿は、この丸写し。大学には、ご精査いただいている最中です」
「なっ――――」
ジークは言葉に詰まり、半歩下がり、目を泳がせた。
「な、なぜそんな真似をする! 私に盾突いて、何が楽しい!」
「楽しい?」
エミリアは喚く彼を見て……あの日のことを思い出していた。〝もやもや〟が限界を迎えた日。恋する相手が、大舞台にたって……誇らしくもあり、また置いて行かれたような気もした。素直に喜べない、応援しきれないその感情を抱えていたときに、イリスが〝竜鳥の涙〟を贈られたと言って――それでふと、エミリアは真実に勘づいたのだ。
彼は誰も愛していないのでは? と。
(苦しい、だけだった)
それからというものの、エミリアの愛情は〝もやもや〟にあいまいにされていった。気づいたことを忘れようとしても、彼の顔を見るたびに思い出す。恋しさを振り返ろうとすると、ずきりとした痛みが邪魔をした。
おかげでしばらく、眠れなくなった。おぞけと不安のようなものに襲われて、ジークには顔向けできなくなった。じっとしていたら心を病むと気づき、不安の原因を取り除こうとあれこれ動き回った。
エミリアはジークのことを、信じたかった。
「私、殿下が好きでした。聡明で、お優しくて、武勲までおあり。逞しく誠実な方だと、ずっと思っておりましたの」
「あ、当たり前だろう。私は……いずれ王になる男だ」
(そう、ご自分のこと。私の気持ちには、触れてくださらないのね)
エミリアは走り回った。
最近のことから順に、ジークのことを調べ回った。
信じたい思いは、どんどん強くなり。
情報は驚くほど、容易に集まり。
結局。
そのもやもやした感情に――――名前がついた、だけだった。
「あの原稿の下書き、銀貨4枚でイリスに三日も徹夜させて作らせたそうですね? 反響を思えば、報酬の桁が三つは足りないでしょうに」
「わ、私が発表した方が! 価値を見出されるに決まってるだろう! 男爵家の、それも女が言ったところで!」
煽るようにエミリアが言うと、すでに冷静さを欠いていたジークは面白いように喚いた。ホールの動揺が、大きくなる。信じられないといった目で、多くの者が王子を見ていた。
「いいえ? 〝万才の乙女〟とまで呼ばれる彼女、国外の研究機関からもお呼びがかかるくらいなのです。もしイリスのものだとわかっていれば、あの何十倍も聴衆がいたことでしょう」
「だから何だと言う! 私は王子だぞ!」
(それがあなたの……本心、なのですね。その立場だけが、よりどころ)
ずぐり、と胸の奥がうずく。
才あるヒロイン、取り巻きたち、使用人や兵士、大勢の人たちをかしずかせる〝王子〟という肩書に。大きく胸が、痛んだ。
「そのように仰って、魔物退治の手柄を譲らせていたそうですね?」
ジークが左右に控える令息たちを、きょろきょろと見ている。見られた彼らは、首を振っていて……エミリアはおかしくなってつい、くすり、と笑ってしまった。
「その方たちから聞いたわけでは、ありません。ご不満を持つ方は、もっといらっしゃるということ。他にもそれこそ、幼少の頃から」
王子が生唾を飲み込んでいる。反論は、出ないようだった。対してエミリアは、饒舌に糾弾の言葉を紡ぐ。
「王子が受けていた教育の確認試験、幾度か代理にやらせていた、と。教師まで脅していたそうで。この学園での試験は、どうでしょうね?」
痛いほどの視線が集まり、ざわめきが大きくなる。本来は些細なこと、だったが……学園ではまずかった。彼と試験結果を〝交換〟していた生徒がいるのだ。取り巻きの一人が、目を逸らしている。
「これ」
エミリアは胸元のブローチに触れ、ほほ笑んだ。彷徨う王子の青い目を、じっと見ながら。
「〝竜鳥の涙〟。文字通り、竜に次ぐ強大なモンスターの、竜鳥の涙が結晶化したもの。彼らが産卵する際に出るものですが、通常は生まれた子が飲んでしまって世に出ません。伝説になぞらえて、これを勇敢な男性が、想いの証として女性に贈る……そんな話がありますが。あなたがこれを、取りに行かせた結果」
証言を聞いた時のことを思いだし……エミリアは沈痛な面持ちを浮かべる。
「けが人、死者も出た挙句……竜鳥の報復で、村が一つなくなったと聞いています。最近もう一つ入手させて、騎士団に大変な損害を出したそうで?」
「そ、そんなことは知らない!」
「今お知りになりました。ご感想は?」
大ホールが、しん……と静まり返った。
誰もが、王子の返答を待っている。
彼は。
「私の役に立てたのだから――――浮かばれているに、決まっている」
目を泳がせ、息を荒くしながら、そう吐き捨てた。
「なるほど、〝竜鳥の涙〟を得ることが、あなたのお役に、と。独立機運が高まっていたパーシカム公爵家の娘を、篭絡する役に立った、と。そういうことですか?」
「わ、私が好いた君に贈りたかった、だけだ」
ジークの瞳はそう言いながらも、エミリアを見てはいない。彼女は思い出が音を立てて壊れるのを感じ……もやもやが大きく、強くなっていくのを理解した。
「お惚けにならなくてよろしいのに。我々妃教育を受けていた者は、抜け駆けを禁止するために……基本的に教育を受けている間は王族や、貴族のご令息たちと関われません。私のことを知っているはずもなかったジーク様が、いつ私を好いてくださったのです?」
「そ、それは」
(もっと前に見たとか、もっともらしいことを……言ってくれれば、いいのに)
反論できないジーク王子に蔑みの目が、エミリアには同情や奇異の視線が、ホール中から向けられている。
見られていると……体の奥で、〝もやもや〟が膨らんでいった。
「同じものを、殿下はイリスにまで贈った。〝万才の乙女〟を手にするためか……ああでも。殿下の仰る通りなら」
〝もやもや〟に押し出されるように、エミリアは言葉を吐き出す。
「彼女を好いたと。婚約者の私を差し置いて。そう言うお話、ですよね?」
首を振る王子を見ながら、最後の宣告のために、エミリアは息を整えた。
(なんという傲慢。結局この方に、愛などなかった。周りは自分が楽するための、駒に過ぎない。私はもちろん――――あの輝かしい、この世界の主役まで! ゆる、せない)
王子だから。ジークは許されてきた。
人が死んでも。不正を重ねても。
他人に、艱難辛苦を強いても。
エミリアの心を、弄んでも。
王子だから。
――――何の努力をしなくても、許されている。
それが嫌で。
憎くて。
「婚約は、破棄いたします。だって、妬ましいですから」
妬ましくて、たまらなかった。
〝嫉妬〟と名前をつけたエミリアのもやもやが、体の隅々に行き渡る。皮膚の下をはい回り、全身をかきむしりたくて仕方がない。むずむずとする感触に、呼吸は僅かに荒くなり、鼓動は高鳴り、目は血走って――――。
「この私が、妬ましい、だと? 確かに私は才溢れ、王に相応しい男だが! つまり私に嫉妬し、先のような出まかせを述べたということか! エミリア!」
愚かに喚く彼を見て。
笑みが、顔に張り付いた。
「嫉妬したのは事実ですが、出まかせではありませんし、あなたの才能などどうでもよろしい」
「なにっ!?」
エミリアは両腕を広げ、胸を反らす。顔を上げ、その目でシャンデリアを見た。今にも落ちてきそうな、ゆらゆらとした小さな灯たちが……眩くて、鬱陶しい。
その高い立場に甘んじて、ただ高いところにあって、下を照らし、見下す。
明かりとして必要なわけでもない。部屋を暖めるわけでもない。派手で華美で目にも痛い。邪魔で邪魔で邪魔で―――――。
エミリアは、視線を落とし、ジークを見る。
「王子であるというだけで! 他人を顎で使い! 時に死にすら追いやり! 私やイリスの努力を踏みにじった! 立場に甘んじて、何の努力もしないその怠惰が!」
責務を果たさず、不正にすら手を染める、彼は。
もう愛しい人ですらなく。
置物のように。
「 妬 ま し い ! 」
邪魔だった。
「何の騒ぎですか、これは……!」
奥の扉から、ドレス姿の令嬢が入って叫ぶ。王子がびくりと震え、青い顔で彼女を見た。
(早い……どうして)
滑るようにエミリアの元へやってきたのは。
男爵令嬢――――ヒロイン・イリス。
「衣装合わせに時間がかかると思ったけど、早かったわね。イリス」
狂笑を顔から消し、エミリアは淡々と迎える。ホールは彼女の登場で、再びざわめきを取り戻していた。
「自分で縫って合わせましたから。それよりエミリア様、わたしのことをイジメたから、婚約を破棄されそうだって聞いたのですが――――」
心配そうに眉根を寄せるイリスに対し、エミリアはゆっくりと頷く。
「事実です」
「そんな!? 事実無根です!」
「は、え?」
二人のやりとりに、王子が間抜けな声を挟んだ。エミリアは彼を鬱陶しそうに眺め、短くため息を吐き、口から言葉を紡ぐ。
「私は。イリスに新しい教本とドレスをプレゼントし、古くなったものを引き取り、処分した……それだけです。殿下のお友達は想像力豊かでいらっしゃるようで。私を見て、どんな報告をしたのでしょうね?」
「あ、あなたはイリス嬢を雇って下働きさせていただろう!」
「叱りつけているところも、大勢が目撃してる!」
(ほんと、たいそうなお友達だわ。その程度に、騙されてくれる、なんて)
取り巻きたちの反論に気をよくし、エミリアはにこりと微笑んだ。
「彼女の実家が苦境だというので、労働の申し出を受け、給金を払っているだけです。その仕事中、さすがに装飾やドレスをダメにされたら、叱責くらいはします。それが雇い主の責任です」
令息たちは目を見開いて、黙りこくる。彼らの手から、古びた本とドレスが滑り落ちた。
(……わざと人目につくように叱り、ドレスや本もこそこそと捨てた。人を使って、私がイリスをイジメていると広めたのは、まぁ事実ですが。この一月余りの仕込みで、よく引っかかってくれたものです)
「なぜ言ってくれなかったんだ、誤解だ、と」
絞り出すように、ジークが訴える。涙の滲む彼に、エミリアは。
「なぜ最初に私に一言、聞かなかったのです。事実かどうか」
笑みを作って、応えた。
「私を〝竜鳥の涙〟で絆そうとしたときと、同じように。〝万才の乙女〟をものにするチャンスだと思われたのでしょう? 婚約破棄を申し付けて私に瑕疵をつけ、イリスともども手に入れるつもりだったのか、あるいはお仲間の誰かに払い下げるつもりだったのか……おおかた先日の発表の反応がよくて、イリスは使えるとご判断されたのでしょうが」
「わたしを!? そんな、あんまりです! 殿下……!」
イリスにまで責められ、取り巻きたちは下がってしりもちをつき、当のジーク王子は泡を吹きそうな様子である。
その彼が。
「ま、待ってくれ! 婚約破棄なんて取り消す!」
愚かな懇願を、申し出た。
「最初に殿下が口走った時点で、使用人たちが走りました。国王陛下にも、もう伝わっているでしょう。取り返しは、つきません」
「なら! せめて側室に! そうだ、イリスは正妃として迎えよう! この私の! 王子の妃になれるんだ! 君たちも嬉しいだろう!?」
(それで許されると、思っているの!?)
支離滅裂なジークの返答を受け、エミリアの胸の奥からまた〝もやもや〟が沸き起こる。
「わたし、自分の欲しいものは自分で手に入れるので。結構です」
「イリス!? エミリア! 私が妬ましいのだろう!? 私の妃になれば、君だって――――」
「やめてください、吐き気がします」
近づこうとする王子から。
愛しかったはずの、王子様から。
エミリアは思わず、後ずさった。
「妬ましいからといって、同じになりたいわけではありません。むしろ絶対にそうなれないからこそ……憎しみも湧くのです」
「憎!? 違うだろう! 君は、私のことを!」
続きを口にされることが――――悍ましくて。エミリアはジークを、睨みつけた。怯んだ彼に、言葉を叩きつける。
「二度と愛することは、ないでしょう。いきましょう、イリス」
「はい」
二人、踵を返して歩き出す。
引き留める王子の叫びを、無視して。
☆ ☆ ☆
寮の自室まで引き揚げ、エミリアは盛大にため息を吐いた。使用人たちが忙しく動き回るのを眺めながら、傍らの少女……イリスに視線を送る。
「もう少し来るのが遅ければ……あなたはきっと、王妃にだってなれたでしょうに。そこだけが、心残りです」
「あっ! そのためにわざと、ドレスが合わないようにしたんですか!? やめてください、エミリア様!」
王子がこれまでしてきたことを、知ってしまったとき……エミリアは、限界を迎えた。もしも彼が、エミリアの計略など無視してくれたのなら――――彼が出逢った時に見せてくれた好意だけは、きっと信じられただろう。だから愚かな賭けに、乗り出した。イジメの風聞をばらまき、彼が信じてくれる方に賭けた。
だがそうはならなかったときのために、本来の王子のお相手……ヒロインのイリスだけは、残して行こうと考えた。ゆえ、エミリアは彼女が舞踏会に遅れるように、仕込んだのだ。
エミリアが婚約破棄された後。せめて二人が結ばれるように、と。
(結局、それも上手くいかなかった。私は何もかも、失って……ほんと、賭けなどするものではないわ)
エミリアは自嘲気味に微笑む。ジークの愛が、失われなければ。他に目を瞑ることもできた。だが恋心は……もやもやとしたあの感情に、塗りつぶされてしまった。
「どうして? 王妃となれば、思いのままよ? この国がもつかどうかは、別の話だけれど」
「わたしは、努力しない人は嫌いです」
エミリアが投げやりに問いかけると、イリスが可愛く頬を膨らませ、きっぱりと言い切った。エミリアは思わず、目を丸くする。
「殿下の周りをうろちょろしていたのは?」
「それは、殿下の方が近づいてきたからであって……お駄賃もくれましたし」
(最低賃金も真っ青な、子どものお小遣いみたいな金額をね)
どうにもイリスは、「それが成長の糧になるから」と対価を鑑みず、仕事を引き受けるきらいがあった。エミリアは彼女を雇うとき、正当な報酬の支払いを呑ませることに、ずいぶん苦労していた。勉強になるからと、タダでやりたがるのである。
その性質が、ジークの本性を暴くきっかけにもなったとはいえ……どうにも彼女のことが心配で、エミリアは落ち着かない気持ちであった。
「それに」
イリスが言葉を区切り、何やら照れた様子を見せている。頬を染める彼女を、暑いのだろうかと思って見ていると。
「わたしはジーク様の周りにいた気は、なくて。その。エミリア様の……」
「なにそれ」
「なんでもないですっ」
煮え切らない態度を、見せられた。エミリアは小さく息を吐き出し、私物が持ち出され始めた部屋を、また眺める。
「どこか、行かれるんですか?」
尋ねるイリスに向かって、エミリアはあいまいな笑みを返した。
「さすがに、学園にはいられないもの。実家に帰るわ」
「えぇ!?」
(そう、私は〝賭け〟に負けたのだもの。もしかしたら、お父さまは許してくれないかもしれない。そうなったらきっと、もっとひどいことに……)
何もしなければ、ひょっとしたら……ジークの妃になれたかも、しれなかった。だがエミリアはどうしても、〝もやもや〟に包まれる、自分の恋心を救いたかった。しかし王子はエミリアを信じずに糾弾し、エミリアは彼を拒絶した。関係の決裂は致命的であり、国にいられるかどうかすら怪しい。場合によっては、見たこともないような男の元へ、エミリアは嫁がされるだろう。
だがそれが、すべてを賭けて。
それに負ける、ということだった。
エミリアは自身の敗北を受け入れ、項垂れていた。
その眼前に。
「これ!」
封筒が、突き出された。顔を上げると、桃色の差した瞳が、エミリアをじっと見ている。
「帝国国立大学からの、招待状。わたし、留学をお誘いいただいています」
「ぁ…………」
輝かしい才能が、さらなるステージに上がる。その話を聞いて。
エミリアは、輝くような満面の笑みを浮かべた。
ジークの活躍を目にしたときとは……違って。
素直に心から、応援できた。
「おめでとう! 大学ということは飛び級……すごいじゃないの、イリス」
「すごくありません。条件を受け入れたら行くかもって、無理難題吹っ掛けて。そしたら」
彼女が指を滑らせると、封筒が二つになった。
「こちらの要望通り、エミリア様と一緒でもいいと、お返事をいただいています」
「は? 私?」
エミリアは二つの封筒と、イリスを見比べた。目と頭が、ぐるぐるとしている気がした。大学が彼女の無理難題とやらを聞き遂げるのは、わかる。〝万才の乙女〟をどうしても引き抜きたいのだ。だがイリスがエミリアとの入学を条件にしたのは、どうしてもわからない。
(私、なんか。この子とは住む世界が、違うのに――――)
天に選ばれたアイドルのような眩い才能が、相応しい舞台に上がろうとしている……自分がそれについていくなんて、エミリアには想像もできなくて。
ただ、眩しかった。
だがなぜかそのアイドルは、ご立腹の様子である。眉根が寄り、頬を膨らませ、可愛らしい怒りを見せていた。
「一緒に、行きましょう!」
「え? いや、私なんて――――」
「行きましょう!」
手をとられ、体が引き寄せられる。間近に、強い意思の力のこもった、綺麗な瞳が見えた。
「私はあなたの努力を、否定しません!」
見えていた眩しさは。ただの、目の曇りだった。
さーっと視界が晴れて。
エミリアは。
自分を引き上げる才女の顔を、初めてまともに見た気が、した。
「…………皆、イリスの支度を手伝って頂戴。すぐにここを出るから」
エミリアがそう零すと、使用人たちの、動きが変わる。以前王子が部屋に侵入したことを踏まえ、またイリスを雇っていた都合もあって、彼女とは相部屋にしていた。残されていたイリスの私物もまた、片づけられ始める。
「その、エミリア様」
「連れて行って」
「…………はい!」
目を輝かせて小さく頷くイリスに、エミリアの視線は吸い寄せられる。
(本当に眩い。まさに主人公。私の好きだった、物語の……ゆがめてしまった、シナリオの)
無限に成長するという、彼女の才。その祝福が、努力し続けるイリスを、内側から輝かせているようですらあった。
「曲もないけど。私と踊ってくれない?」
エミリアはふと、思い付きを口にした。
「えぇ!?」
「そのドレスがもったいなくて。ダメかしら」
顔を伏せ、茶化すように。
涙を隠して、言う。
「私の心が、落ち着くまででいいから」
「…………喜んで、エミリア様」
イリスに、半ば強引に手を取られた。腰に手を伸ばされ、揺れるようなステップが始まる。僅かに背の高い彼女のリードは、とても力強くて。
(ぉ…………男性パートも当然のように踊れるんだから、ほんと)
ゆりかごのように、エミリアに安心をもたらした。
(羨ましくも、ならない)
遠い世界にいるような、眩い人の腕の中は。
不思議と。
かつて想い人と踊った時より、ずっと心地よかった。
こうしてオレン王国は「物語のヒロイン」という最高の才能を失った。
無才の悪役令嬢は、天才ヒロインの輝ける舞台を探し、旅に出る。
胸の奥で燻ぶる、奇妙な嫉妬の炎を……持て余しながら。
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御精読、ご評価御礼申し上げます。
もう少しだけ二人の続き(と王子のざまぁ)を描きました。帝国辿り着く前まで、合計10万字ほどです。以下のリンク先で連載し、完結しております。
よろしければ、お読みくださいませ。↓