5 カイルという男
一斉に空気が張りつめた。
騎士たちは一瞬で隊列を崩し、剣や弓に手をかけて周囲を警戒する。
鳥たちが一斉に飛び立った。
森の奥から獣の気配がする。
「ば、バルドの嘘つき……!」
リアナは小声で呟いた。心臓がばくばくと跳ねる。
熊がいないなんて、適当に言ったのかもしれない。
そもそもリアナを誘拐同然で王宮に連れてきた張本人だ。
リアナの身の安全など想定になくともおかしくない。
ガサガサッ!
獣の重圧が、気味の悪い音に混じって近づいてくる。
騎士たちが一斉に武器に手を伸ばす中、リアナは思わず体を硬直させた。
馬も怯え、小さくいななき、足元の土を掻く。
「殿下、お下がりくださいッ!」
アルバートが叫びながら槍を構えた。
しかし槍は長すぎて近くの枝に引っかかり、アルバートはあっさりバランスを崩し、尻もちをついた。
「わっ、わああああっ! いてっ! なんだ、取れない! うわあああああっ」
アルバートはあてにできない。
自分で何とかするしかない。
リアナは馬から落ちないように手綱を引き、必死に姿勢を保った。
しかし雌の白馬は、危険を察して暴れ、あらぬ方向に駆け出そうとした。
ぐらり、とリアナの体が揺れる。
(まずい! 落ちる!)
頭の中が真っ白になった、その瞬間。
「こっちだ!」
鋭く短い声が凛と響いた。
同時に、逞しい腕が伸びてきてリアナの肩を掴んだ。
次の瞬間、白馬から引き寄せられるようにして、リアナの身体は宙に浮き、カイルの馬へと乗り移っていた。
「なっ……!」
驚きと恐怖。
そして何よりも、カイルと体がぴったりと密着している。
互いの鼓動さえ聞こえるこの距離に、反射的にリアナは体をこわばらせた。
男装しているとはいえ、リアナはただの少女だ。
カイルは細身に見えたが、腕は想像以上にたくましく力強かった。
「大丈夫だ。俺がついている」
声は静かだったが、決然としていた。
ひやりと冷たい金の髪が、リアナの頬に触れる。ビターオレンジのような甘い香りが微かに香った。
「く、熊は……!?」
リアナが問いかけたとき、森の奥からガサガサッと音を立てて一つの影が現れた。
「熊……じゃない! 猪だ!」
誰かが叫んだ。
太い体躯の野生の猪が、怒号のような唸りを上げて突進してくる。
「でかいぞ!」
獣の目には怯えも迷いもない。
攻撃対象にただ突っ走ってくるだけだ。
何頭かの馬がやられたのか、馬のいななきが聞こえた。
「まずい!」
騎士たちが次々に脇に飛びのく中、リアナの乗っていた白馬が足を滑らせた。
前のめりに倒れかける。
もしもカイルが抱き寄せてくれなかったら、落馬していただろう。
「アルバート、下がれ!」
カイルが叫び、右手で手綱を操り、左手でリアナの体をしっかりと抱き寄せたまま、鋭く馬を走らせた。
猪が目前に迫った。
リアナはぎゅっと目をつむる。
緋色のマントで包み隠すように、カイルはリアナをいっそう近くに抱き寄せる。
そして、腰に携えた銀色の剣をすらりと抜いた。
月光のような光を帯びた刃が、猪の脇を一閃した。
「ハアッ!!」
野太い叫びと共に、刃が風を裂いて猪の肩を斬りつけた。
甲高い悲鳴をあげて猪は転倒し、地面に激しく転がった。
一瞬の沈黙。
そのあと、木々の隙間を駆け抜けるような歓声が上がった。
「やった……!」
「カイル副団長が……殿下を守られた!」
「さすが……あの手綱さばき……剣の切れ味……!」
「美しいッ」
「さすがです」
リアナはまだ心臓の音が収まらず、荒く息をしていた。
自分の胸元にあるカイルの腕が、力強く自分を抱きしめていることに今さら気づく。
「もう、大丈夫です」
胸板を押し返すと、カイルの腕の力は弱まった。
緋色のマントがひるがえって一瞬。
鼻と鼻が触れ合いそうな至近距離で、端正な顔がリアナをじっと見つめていた。
「あ、あの……」
「いけませんよ、慣れていただかないと」
「えっ?」
「守られるたびにそんなに可愛い顔をしていたら、騎士たちが色めきだってしまいます」
芝居がかったその台詞を、嫌味なく言い切るこの男の底が知れない。
(……この軽薄男が。騎士のくせに、こんなに、こんなに――チャラチャラしてるくせに! 腰抜けのくせに! だめよリアナ、女相手にだけこんなに色気を振りまくやつなんて信じちゃいけないわ)
そこでリアナは、はた、と気が付いた。
(私、今、男!)
同性相手にこんなに気障ったらしい台詞が言えるのなら、淑女たちにはどんなに甘い言葉をささやくのだろう。
「……助かったよ」
胸に靄のかかるような感覚を遠くに消し去ってしまうつもりで、リアナは短く言った。
狩りは大猪を仕留めて、大成功のうちに終わった。