2 王宮の春祭り
「まあ! 王太子様が出てこられたって、本当なの!?」
「そう! そうなのよ、あの、フリードリヒ様よ」
「ずっとお部屋に閉じこもっていらした、『金の牢の愛し子』」
「どうやら美貌はご健在のようよ。着付けを任された娘があまりの美しさに倒れてしまったとか」
「まさか! だけどいったい何があったのかしら。これまでに一度も姿を見せなかったのに……」
久方ぶりに開かれた王家の夜会だった。
煌めくシャンデリアの下、今宵の貴族たちはまるで舞台の開幕を待つ観客のように息をひそめていた。
「……いらっしゃったわ」
誰かの小さな声が、波紋のように広がっていく。
その瞬間、大きな扉が静かに開かれた。
金糸の髪が光を受けて揺れ、白磁のような肌を持つ美青年が現れる。
フリードリヒ王子——。
長らく人前に姿を見せなかった『金の牢の愛し子』。
王子が一歩、また一歩と進むたびに、ざわめきが抑えきれず漏れ出す。
「本当に……お美しいわ……」
「夢を見ているようだわ」
「線が細いわね。ご苦労なさったのだわ。あの儚さは、まるで絵画の中の住人のよう」
「聞いた? 非公式だけれど、この場で婚約者を探しておられるとか」
「まさか、王太子様が……? この場で誰かに声をかけることがあるのかしら」
金の瞳が一瞬だけ、会場の人々を見渡す。
その視線が自分に向けられた、と錯覚した令嬢たちの頬が一斉に紅潮した。
だが王子の表情はどこか遠く、淡い哀しみさえも宿している。
「おいたわしいわ……」
「わたくしが守って差し上げたい……」
「身分をわきまえなければいけないわ。あの方に近付くには、公爵やそれに近いくらいの身分でなければ……」
「外国の姫君も招待されているらしいわよ。大国ウェンロウやルイター公国の姫も来ているとか」
「ああっ、私、正妻でなくともかまわないわ。公妾ならば何人でもめとれるというじゃない」
「まあ! あなた、それでいいの」
「だって、見て。あの優美な視線! 硝子のような儚い眼差し。女性よりも美しいわ」
「きっとお外に出られず、心を痛めていらっしゃったのよ」
「ああっ、かごの鳥のフリードリヒ様! なんておいたわしいの」
まるで幻の金の鳥が来訪したかのような、静かな興奮が会場に満ちていた。
*
淑女たちの甘やかな笑い声は、高級な花の香を焚きしめた部屋に良く似合う。
つまりは胸やけしそうだということなのだが、リアナは居心地の悪さを押し隠して微笑んでいた。
「あは、あは、あはは……」
春祭りは、城下にいたときは華やかで楽しい祭りだった。
『お外に出られず』どころか、『野外の演劇場や路上芝居に出まくっていた』リアナ・フェルナーは、城下のほとんど全ての美味しいものを知っていた。
果実も酒も串焼きもパンも、小さなケーキさえ並んだ出店は見るだけでわくわくしたものだ。
が、王宮にいてはこうもつまらなくなるのかと感動さえする。
特に王太子ともなれば退屈などというものの比ではなかった。
台本通りの口上を述べた後は、微笑んでいればいいと言われた。
王と王妃がパレードに出かけて不在の間、リアナは各国からの来賓をもてなす役目を仰せつかったのだ。
「フリードリヒ様ぁ」
「あーん、つれないわぁ」
そういうわけで、リアナはもう小一時間もこの淑女の群れに捕まっている。
王も王妃も一刻も早く戻ってきて欲しいのに、全く音沙汰がない。
もちろん、王も王妃もリアナが偽物だということは理解しているはずだ。
しかし、何かあったときにバルド宰相の独断ということにするためなのか、信じたふりで、リアナのことを本当の王太子として扱ってくる。
全く、宰相も含めて、王族やそれに近い人間というのは食えないものだ。
しかたないので、リアナもこの茶番劇に乗っかっている。
「はぁ……」
リアナの目の前に並ぶのは、各地の有力貴族や来賓の外国の豪族たちが、セレスティード王家に送り込んだ「候補者」たち。
つまりは王太子の寵愛を受けることを願う姫君たちだ。
「フリードリヒ殿下。お初にお目にかかります。本当にに麗しゅうございますわね」
「まるで春の光を閉じ込めた宝石のようですわ」
「白くてすべすべとしたお肌。愛らしい猫のようなお目元。はぁ、こんなに愛らしい殿方がいらっしゃるだなんて」
「こんなに近くでお顔を拝見できるなんて……どこに隠れていらしたの? うっとりしますわ」
この調子だ。
蝶よ花よと愛でられて育てられた各国の姫君や公爵令嬢たちは、自制心なるものを皆ほとんど持ち合わせていない。
「あ、あは、あはは……」
リアナは居心地の悪さを堪えながら、へらへらとぎこちなく微笑んだ。
これだけの美姫たちをだましていると思うと心苦しい。
が、何があっても正体がばれるわけにはいかない。
リアナにできるのは完璧な『王太子』を演じ切ることだけだ。
うまくいけば、王太子から王になって生を全うできるかもしれない。
(待って――私が国王?)
それは本当に意味が分からない。
絶対に姫君と子を成すことができないうえに、それこそ国民にばれたらバルド宰相と共に広場で極刑だろう。
(いや。何か……何か方法はあるはず。きっと)
何か分からないが、妙案はあるはずだ。
それまではとにかく王太子の顔をしなければならない。
リアナは切って金に染めた髪を撫でた。
猫のおしっこは絶対に嫌だ! と強固に主張して、なんとか葡萄酒で色を抜いたのだ。
バルドに見せてもらった、フリードリヒ王太子の肖像画を思い出す。
幼少のみぎりに宮廷画家に描かせたという絵には、まるで天使のような金髪の美少年が映っていた。
確かに、顔形の一部は似ていなくもないかもしれないが、そっくりというほどだろうか?
中身がリアナとは知らない令嬢たちは、ひっきりなしに声をかけてくる。
「王太子殿下、お茶をもう一杯いかがですか? これは我が国の特別なハーブを使った香り高いお茶なんです」
「いいえ、こちらのクッキーを試してください。わたくしがひいきにしている商店のものです」
「お待ちになって。殿下、この珍しい海図をごらんください。わたくしの故郷に出回っているもので……」
品のいい笑みを浮かべながら、彼女たちはリアナ、否、王太子フリードリヒの肩にそっと触れたり、顔を覗き込んできたりする。
王族の寵を得ようとする戦いは、すでに始まっているのだ。
しかし、平民とはいってもリアナも同性だ。
ウブで女に免疫がない若い青年などではない。
女同士の熾烈な牽制や肘鉄の食らわせ合いを見ると何となしに辟易してしまう。
しかも彼女らは時折、偶然を装って頬やら肩やら胸やらに触れようとしてくる。
(やめてえええぇ……それ以上、近寄らないでっ)
内心、叫びたかった。
胸が無いとはいっても、リアナは男ではない。
万が一、色仕掛けやらハニートラップやらで脱がされでもしたら、すべてが終わる。
咎が及ぶのはリアナだけではない。
リアナの育ての家族の劇団員たち。
計画を仕組んだバルド宰相。
そしてこの秘密を知る者のおよそ全てが罪に問われるだろう。
場合によっては王太子自身も危ういかもしれない。
血みどろの王宮サスペンスの完成だ。
早く、一刻も早くこの場所から離れたい。
「王太子様! わたくし、なんだか気分がすぐれませんの。一緒に外に出ませんこと」
「ちょっと! あなた、わきまえなさい!」
「何よ、やめなさいよ! 痛いじゃない」
「抜け駆けなんて許さないわよ!」
(うわあああ、どうしよう、怖い怖い怖い。貴族怖い!)
リアナが涙目になったそのとき、ひとりの女性がリアナの前に歩み出た。
淡い藤色のドレスを纏い、静かな微笑を浮かべている。
ただならぬ雰囲気に、周囲の女性たちが一斉に距離をとった。
「フリードリヒ殿下。ご機嫌うるわしゅう」
優雅なカーテシーに思わず見とれてしまう。
葡萄酒を煮詰めたようなこっくりとした色の唇だ。
「わたくしはリュシーヌ。現国王陛下の……愛妾です」
リュシーヌは、諸外国の令嬢たちに自己紹介をすると、リアナの前に立った。
大人の女性の色気が滲み出ている。
「皆様、フリードリヒ殿下には今後の学びもございますゆえ、これ以上のお引き止めは——」
リュシーヌの言葉に姫君たちは口元を抑えた。
「そ、そうでしたわ。すみません、殿下」
「またお目にかかれるのを楽しみにしておりますわ!」
下がっていく美女たちを見送りながら、リアナは心の底から安堵した。
「助かりました……えっと、リュシーヌ様」
「お礼など不要です。見ていられなかっただけですから」
彼女の声は、涼やかで優しかった。
救われるような思いだ。
うるうるしてすがってしまいそうなのをこらえる。
(王太子! 私は今、おーたいし!)
にっこりするリュシーヌに会釈をしていると、バルド宰相が近寄ってきてリアナに耳打ちした。
「王がもうすぐ帰還されます」
彼もさるもので、普段はリアナのことを徹底的に本物の王太子として扱うつもりのようだ。
これを幸いにとリアナは謁見の広間の椅子から降りた。
ようやく自室に下がれる。
「皆、楽しんで下さい」
リアナが言うと、その場の人間たちは頭を垂れて見送った。
バルドもうやうやしく一礼して、その場を下がる。
そんな豪奢なパーティー会場の隅。
騎士の礼装を着て壁際に立つ青年がいた。
琥珀色の髪は、柔らかな光をまとっている。表面は茶色だが、中にはまるで黄金色の炎が静かに揺れているようだ。光の当たり方によって僅かに色を変える。
目は深く澄んだ蜜のような不思議な色合いで、少し垂れ目なせいか甘やかだ。長い睫毛が繊細に頬に影を作っている。
右目の泣きぼくろがあるためか、男性でありながらもどこか妖艶な魅力がある。
その騎士は、まさに王宮の隅でひときわ異彩を放っていた。
「あら、カイル様だわ。瞳に見つめられたら、一瞬で蕩けてしまいそう」
「笑うときのあの唇……まるで甘い蜜のようで、つい誘われてしまいそうになるわ」
「本気にはならないらしいわよ」
「ああ、遊びでもいいわ! 分かっていても寄り添ってしまいたくなる」
「危険な香りがするわよね」
「気に入った子しか絶対に手を出さないらしいわ」
「ああ、羨ましい」
「遊び人だとしても、許してしまうわ」
王宮の女性たちは、水面下でその魅力を奪い合い、密やかな競争を繰り広げていた。
誰もが公爵カイルの気を引こうとささやき、目線を送り、時には微笑みを交わす。
しかし、当人のカイルはそんな騒ぎをよそに、ただ静かにグラスを傾けて、退室する王太子の姿を見つめていた。
「へえ。これが『王太子殿下』の初めてのお披露目ってわけか。ふーん……思ったより、線が細いな」




