26 劇の力
「あの、すみません。先ほど聞こえてしまったのですが、これ、よかったらお使いください」
ほっかむりの女が振り返ると、分厚い眼鏡をかけた青年がオペラグラスを差し出していた。
「僕は二つ持っているので」
「あら! いいのです? なかなか護衛が戻らなくて」
「もちろん」
「ありがとうございます。お優しい方なのですね」
「いやいや、そんな……」
女が微笑む。青年も照れくさそうに笑った。
どこか、ぎこちなく優しい空気が流れる。
二階席の中で最上級の不審者は二人、並んで腰を下ろしていた。
「楽しみですね」
「ええ、本当に」
*
王都の劇場はほぼ満席だった。
大理石の柱の間を金の灯が照らし、貴婦人たちのパフュームの花の香りが漂う。
一階席は平民に開かれた場になっている。もちろん高級な装束に身を包んだ成金やブルジョワたちだが、娯楽に目を輝かせながら、皆、人気の劇団に見入っている。
舞台の上では、恋人たちがすれ違い、運命に翻弄されながらも結ばれようとしていた。
上演されているのは、庶民に人気の喜劇――『花嫁の仮面』。身分違いの恋と勘違いと笑いに満ちた物語だ。
リアナは、胸を押さえながら観ていた。
まるで人ごととは思えない。
「貴族が生まれついてえらいだって? 冗談じゃない。全ては偶然だ。人間の価値なんて、何をやったかで決まるんだ」
隣にはカイルがいる。
肩が少し触れただけで泣きそうになる。
舞台の中央には、リアナの育ての親でもある団長が立っている。団長は花嫁の父親を演じていた。
娘を手放す場面――。
「おまえが幸せなら、もう何も言うまい」
その声は、芝居ではなく本心のようだった。
リアナの目が熱くなった。
――団長。
いまも私の心に生きている。劇団では厳しい顔もたくさん見た。いっぱい叱られた。だけど、団長が教えてくれたことが、きっと平民の自分を二階席まで連れてきたのだ。
舞台の中で、花嫁が恋人の胸に飛び込む。
拍手が起こり、楽団が軽やかな調べを奏でる。
(カイル様。好きです。好きでした。いいえ、きっと殺されるまぎわにも――好きだと思うでしょう)
たとえ私が処刑されたとしても。
この想いだけは、終わりにできない。
隣のカイルは、拳を握っていた。
舞台を見ていない。
何かを決意するように、うつむいている。
(言わなきゃいけない……)
――好きだ。これで終わりにしてはいけない。
嫌われるかもしれない。全部を失うかもしれない。
けれど、それでも。
小声で、かすれるような声が重なった。
「あの」
「ちょっといいか」
「あ……」
「……」
互いの視線が重なる。
どうしよう。泣きそうだ。
カイルが諦めたように、息を吐いた。
劇の台詞に重ならないように、声を潜めて。
「言わなきゃいけないことがあるんだ」
*
舞台の中の台詞が再び響く。
正直にいるのは難しい。損をするかもしれない。
けれど、自分をさらすのは強さだ。
人間は、強い人間を美しいと思うものだ。
劇の台詞が胸に刺さる。
王立歌劇団、団長――リアナの親代わりであるその人の言葉は、まるでカイルの心を見透かしているようだった。
そうだ、やらなければいけないことをやらないで、なにが貴族だ。
「言わなきゃいけないことがあるんだ」
まんまるい目をしてこちらを見るリアナ。
カイルは、唇をかみしめた。
勇気を出せ。
そう言われている気がした。
「……俺が、王太子フリードリヒだ」
「え?」
空気がはじけた。
「今、なんて」
「嘘をついていた。悪かった。俺なんだ。フリードリヒは……カイルは偽名だ。俺が、王太子フリードリヒなんだ」
リアナは――泣いていた。
頭が真っ白になる。
「す、すみません……先に、帰ります」
立ち上がり、劇場の通路を歩き出す。
舞台ではちょうど、主人公が敵に斬られて倒れる場面だった。
拍手と叫びが重なり合い、劇場が揺れる。
カイルは座ったまま、頭を抱えていた。
それくらいしか、できなかった。




