23 アーデン公爵の息子たち
夕暮れの光が、分厚いカーテンの隙間から細く射し込んでくる頃、アーデン公爵邸の暖炉には、薪がくべられ、火が入れられていた。
淡い橙の明かりが室内をやわらかく照らしている。
「ちょっとあなた!」
そこに勢いよく扉が開き、クリスティーナ公爵夫人が入ってきた。紅いベルベットのドレスの裾が揺れ、胸元には金のペンダントが光っている。上品な洋装にふさわしくなく、夫人は短距離走でもしたかのようにハアハアと息をしていた。
「なんだい騒々しい。君としたことが珍しいね、クリスティーナ」
書斎の奥では、公爵が椅子にもたれて葉巻をくゆらせていた。灰皿の上にはまだ煙が漂い、焦げた香りが室内に満ちている。
「葉巻なんてくゆらせている場合じゃないわよ、あなた。ねえ、夢じゃないかしら? ちょっとつねってみてくれない」
夫人の声は震えていた。
だが公爵は、半ば呆れたように笑う。
「どうしたんだいクリスティーナ。愛する妻をつねるなんてできるわけないじゃないか」
「だったらいいわ。自分でやるから……いたたたたっ! 夢じゃないわ。帰ってきたのよ」
「何がだい?」
「帰ってきたの、アシュレイが!」
「なんだって?」
葉巻が、指の間から落ちた。
灰が絨毯に散っても、公爵は拾うことさえ忘れていた。
「夢のようだわ。ああ……ずっと森の塔にひきこもっていて、一生そこで暮らすかもしれないといっていたあの子が、やっと帰ってきたの。もう間違えるわけにはいかないわ」
「ああ。あの平民の子との恋に反対したとき、駆け落ち寸前だったのを無理矢理に止めたのは私たちだったものな……」
「ええ。謹慎といってあの塔で暮らすように言ったのは、私たちだったのよね……」
クリスティーナの声が震える。
指先でハンカチを握りしめ、目を伏せた。
「そうしたらあっけなく、アシュレイの思い人は流行病でこの世を去ってしまった。あの子がどれだけ悲しんでいたか、私たちはあの頃、想像もできなかった」
「今は違う」
「ええ。あの子があんなふうになるくらいなら……公爵を継ぐなんて、もう小さなことよ。あの子が一番、好きな人と一緒にいられるようにしてあげましょう」
「そうだな。この領地は王家に献上しよう。あいつらなら悪いようにはすまいて」
公爵は立ち上がり、窓の外を見つめた。
森の向こうに、古い塔の尖塔がかすかに見えた。
そこに閉じこめてしまった息子の、長い孤独の年月はいかばかりか。
煙草の香りが、安堵と涙混じりの笑い声に溶けて消えていった。
*
アーデン公爵邸の西棟。
西側2階の角部屋がアシュレイの部屋だ。
かつて跡継ぎとして育てられた証の、広い書斎兼寝室がある。深青の壁紙と銀縁の鏡はどこか冷たく、時間が止まったような静けさが漂っていた。
しかし、今日は埃が払われて灯りがともっている。
アシュレイは小さく息を吐いた。
ランプの灯がゆれて、彼の横顔に淡い影を落とす。
「面白い娘さんだった」
向かい側に険しい顔をして座っているのは、カイルだ。
「どうしてお前のところに」
「『フリードリヒ様』を探しに来たと言っていたよ」
アシュレイは壁に寄りかかり、天井を見上げた。
本棚の上の時計が、ゆっくりと時を刻む。
「彼女、必死だったよ」
カイルは口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。
アシュレイの沈黙が、塔の壁よりも重い。
いいかげんに切り抜けられはしない。
「フリードリヒを探してどうしようっていうんだ」
「あの子に頬でもはたかれたほうがいいんじゃない? フリードリヒ様は」
「……どうしてだよ」
「いつまでも逃げてはいられないってことさ」
はあっと息を吐き出して、カイルは頭を抱えた。
かきあげた茶色い髪の根元は、光るような金色だ。
「そんなこと、今さら言えるか? 俺がきみの探してる『フリードリヒ殿下』だって」
「言えばいいじゃないか。14歳でうちに来て、養子になったふりをして、カイルとして生きてきたんだって。本当のことを言って何が悪いんだ?」
「いいか、俺は公爵令息『カイル』として、あの娘に会ってきたんだぞ。今更、王太子は別人になりすましていましたなんて知ったら、あの娘はきっとものすごく怒るだろう? そうに違いない」
「だから、それのなにがいけないんだ」
「嫌われたくない」
「ええぇ? 百戦錬磨のカイル様が?」
「茶化すなよ」
「いいじゃないか。仕方がないことだった。暗殺未遂をされてばかりのフリードに、あの王妃様の毒殺未遂の一件……アルノー派が年々過激になっていく中で、城を出ようと決断したんだ。賢明な判断だったよ。偽名を使わなければ、あのしつこいアルノー派たちは、この公爵邸にまで毒牙をのばしてきたのに違いないんだ」
「運良く生き延びて、小さかった頃とはずいぶんちがう体格にもなった。だけど、俺は……この自由を捨てても、あの娘を守りたいと思ってしまった」
「だったら早く王太子に戻ればいい。騎士団の副団長にまでなったんだ。もうやられっぱなしのちびっこじゃない。きっと立ち向かえるさ。というか、さっきから聞いてれば何なんだよ。あの娘、あの娘って、きちんと名前で呼べばいいのに」
「えっ? いや……それが、知らないんだ」
「まさか」
「俺だって、令嬢や街の女相手なら、それなりにうまくやれるはずなんだ。が、あの娘は……男装して『男』として振る舞っているだろう。本当は女だって俺が知っているなんて、思ってもないんだ。だが、それが可愛い」
「あーはいはい。のろけはいいよ。さっさと本当のことを言って、くっついちゃいなよ」
「それがまだいろいろと問題があるんだ。あの娘……ええい、本名が知れればいいのだが……バルドは絶対に頑として教えてくれない……とにかく、偽のフリードリヒを見初めたウェンロウ国の姫が婚約を申し込んできたんだ。あれをどうにかしなければ」
「リアナだよ」
「は?」
「リアナ・フェルナー。あの子が入ってくるなり自分で暴露してくれてね。おかげで、最後に僕が『フリードリヒじゃない』って種明かしをしたら、蛇が脱皮したあとの抜け殻みたいになっちゃってね。ふふふ、あの表情は最高だったな」
カイル、否、本物の王太子フリードリヒは、アシュレイのニタニタ笑いをとめるためならば、首のひとつやふたつ締めてやってもいいような気になっていた。
が、その前に、公爵令息アシュレイが真顔になって言った。
「だけど、あの子もきみも、ウェンロウ国の公女に処刑されないといいね? だってそうだろう、惚れた男が実は女で、結婚もできない、だまされた、婚約破棄だとなったら……そりゃあ、貴族でも平民でも、怒り狂うに違いないのだからね」
不吉な空気に拍車をかけるように、窓の外ではゴロゴロと遠雷が鳴り、静かに鈍色の雲から雨が降り始めていた。




