1 朝の森
冷え込んだ空気が肺に刺さるように入ってきた。
朝露にしっとりと濡れた森は静まりかえり、土の上を踏む馬の足音と微かな鳥の鳴き声だけが周囲に響いている。
森とはいっても、ここはセレスティード王宮の一部だ。
リアナのような平民、つまりは下賤の民が普通なら足を踏み入れることはない。
王族専用の庭園のようなものだ。
爽やかな朝の緑の景色の中で、リアナ、もとい王太子フリードリヒは白馬にまたがっていた。
毎朝のご散策という王室のルーティンだ。
王太子の健康上の留意点に配慮して、ということで宰相が1日のスケジュールに組み込んだ。
裏にどんな思惑があるのか定かではないが、どちらにせよリアナに拒否権はない。
「なんて無駄な……」
と、呟いたリアナは、手綱を握る指先に力を込めた。
「何かおっしゃいましたか?」
先導する家臣が振り向きながら言った。
「いや、何でもない」
慌てて口を閉じる。
森にはそこかしこに薬草が生えているし、食べられる木の実や果実もなっている。この限られた者だけの箱庭でただ朽ちていくのは、酷くもったいないように思えた。
だけど、ここでリアナが採集に励んでしまえば、『偽物』であるのが露見してしまうだろう。そうすれば、即刻死罪だ。
その前に秘密の発覚を危惧したバルド宰相に殺されるかもしれない。十分にありうる話だ。
ぶるっと背筋に寒気がはしってリアナは体を震わせた。
「殿下、少しご休憩を」
馬上から声をかけてきたのは、バルド宰相の息のかかっているというラムダという家臣だ。
宰相と同じ灰色の瞳で、神経質なたちなのか、いつも眉間に皺が寄っている。
「まだお体が本調子ではないと聞き及んでおります」
と、ラムダは言った。
慣れない乗馬で、落馬でもされたらコトだという意味だろうか。
リアナが口を開く前に、後ろから陽気な野太い声が飛ぶ。
「ええ、そうでしょうとも! ご無理をなさらずッ! お外に出られたのも何年かぶりと聞いてます」
彼は、フリードリヒ王太子の乳兄弟のアルバートという大柄の青年だ。燃えるような赤毛で、オレンジ色の目をしている。アルバートは熊かとみまごうような大きい馬に乗っているが、馬の方もパカラッパカラッと豪快に歩いているようだ。やたらと声が大きく、吠えているように喋る。
「いやあ、それにしても久しぶりだ。フリードリヒ様をお見かけしたのは十年も前のことになるんですねえ」
デカブツのアルバートは感慨深げに言う。
リアナは馬をゆっくりと歩かせた。
よく分からないところは黙っているに限る。
「十年前はまるで花のようで、折れてしまいそうな美少年様だったですけれども! こうしてお元気になられて……本当に良かったです! 大きくなりなさっているけど、昔の面影が残っておられますなあ」
「ええ、本当に」
ラムダが眼鏡を手首でクイッと押し上げた。
この男、本人曰くあのバルド宰相の実の息子らしい。
まず、バルドに妻がいるということにも驚きだ。
何のことはない、リアナが馬を操れるようになったのも、このラムダという家臣の熱烈かつ陰険で、いっそ嗜虐的ですらある厳しい指導のたまものだ。
ラムダがリアナの正体を父親に聞いているのかは定かではない。
向こうが口に出さないので、リアナの方も黙ったままでいる。全く父子そろって油断ならない奴らだ。
「……私が不在の間、皆には世話をかけたね」
フリードリヒ王太子になりきって微笑む。
(演じ切ってみせる)
これまで演じてきた天使、貴族、青年、少年……
全ての経験を活かして、理想の『王太子』を演じ切る。
それが唯一の生き残る道だった。
(目は動かさず、口角をあげる。あくまでも優雅に……病弱だった過去を僅かに悔やむように、儚く見えるように少しうつむいて……フリードリヒならきっと、こうする)
すると、リアナを見ていたアルバートの目から滝のような涙が流れ出した。
「本当に、よくぞお元気になられて……! 薄幸の天使なんて呼ばれたフリードリヒ様は、小さい頃から砂糖細工みたいに儚げでッ……! 何度も暗殺の危機が迫って、どんどんと痩せていかれて……俺は心配で心配で、それがこんなにお元気に……ウッウッ……ウオオォン!」
アルバートが森中の狼を敵に回しそうなほどの遠吠えじみた号泣をしだした。
ラムダが冷静にアルバートの背を叩く。
「アルバート。王太子殿下の御前だぞ。少しは落ち着け」
「ウッ……すみません、つい、嬉しくて」
リアナはほっと息を吐いた。
王太子フリードリヒは昔から病弱な男だったらしい。
死にかけるほどの病に陥りながらも命を繋いでいたが、元々の気質もあって部屋にこもりがちになった。
暗殺の危険に晒されながら、王太子として陰謀渦巻く王宮で生きていくのは、繊細で年若い王子にとっては酷なことだったのだろう。
現在、本物のフリードリヒは王宮東、王太子の部屋にこもって、最低限の従者をまわりに置き、密やかに生活しているらしい。
しかし、本物の王位継承者がそれでは示しがつかない。
隣国との情勢がきな臭くなったあげく、自国でも派閥に分かれた小競り合いが増えてきた。あわてた王権派の最後の切り札。それが、王子の幼少期に顔かたちや雰囲気が似ているというリアナだった。
バルド宰相は路上劇のリアナの評判を聞きつけて、この計画を思いついたらしい。
(いくら人気が出ても、調子にのって王子の男装なんてしなけりゃよかった)
男装の麗人やら美青年やらと誉めそやされていろんな役に挑戦して劇団を盛り上げたが、それが仇となってしまった。
しかし、今さら過去を嘆いても始まらない。
リアナたち三人は小さな泉に着き、馬の鞍から降りた。
ラムダが世間話のように話しかけてくる。
「何とか生き延びましたね、殿下」
いちいち癪に障る男だ。
「そういう言い方はやめてくれないかな」
「誉めておりますよ? 十年ぶりの乗馬にもよくお慣れになったと」
剣を構えながら、ラムダは軽く肩をすくめた。
油断をすれば、彼に討たれるのではないかと錯覚する。
得体のしれない男だ。
敵はどこにだっているのだ。
警戒を隠しながらリアナは大きな切り株に腰かけた。
アルバートが水を渡してくる。
馬にも水をやりますね、とアルバートは馬たちを泉に誘導している。
ふと、ラムダが灰色の瞳をこちらに向けた。
「ときに殿下、王太子として最も大切なことはなんだと思われます?」
「……外交能力、だろうか?」
「生き残ることです。死んでは意味がない」
リアナは小さく息を呑んだ。
ラムダは冷静に続けた。
「数年前、王妃様は死線をさまようほどのご病気になられました。回復はされましたが、もう子は望めません」
「……それは」
「事実です」
とラムダは言い切った。
「もはや周知の事実。現在、この国に『王太子』は一人しかおりません。あなたに万が一のことがあれば、この国には正式な後継がいなくなる」
リアナの中で、何かがじわりと冷えていった。
ラムダの目は鋭く、それでいてどこか痛切だった。
国教のレナトゥス教では、一夫一妻が旨とされる。
離婚でもしない限り、王であっても妻は一人だ。
側妃がいない代わりに、『公妾』という愛人は許される。
平民のリアナにしてみれば、
(同じじゃないか)
と思うのだが、貴族にはいろいろあるらしい。
公妾にかかる費用は王室から出るというのだから、実質側室のようなものなのだが、神様の教義には逆らえない。
しかし、王太子ともなれば、跡継ぎだ。
継承権のない王子とは違う。
「どれだけ子が生まれようとも、公妾の子は継承権はない。単なる貴族です。政権が変わらない限り、後継者はフリードリヒ様唯一なのです」
ラムダは声を潜めて、しかしはっきりとリアナの耳に囁いた。
「ゆめゆめ、お忘れなきよう。あなたはこの国の切り札なのです。どうか一日でも長く生き延びてください」
(今すぐにでもあなたの父上に殺されそうですが~?)
と言ってやりたいのをぐっとこらえる。
「善処するよ」
と王太子の顔を取り繕ってあくまでも微笑んだリアナに、ラムダは忠誠の礼をした。
やたらと丁寧な所作が腹が立つ。
五日後の春祭りでは、王太子の快癒を祝うらしい。
本格的に、命を狙われる日々が始まってしまう。
リアナはそれがあまりにも憂鬱だったので、この後ラムダが声を潜めて話していた忠告を聞いてはいなかった。
「いいですか。余計なことはしゃべらないように気を付けてください。王太子としてのぼろが出ますからね。特に騎士団には近づかないように。上級貴族が多くいますから……」