第3話 エミール(2)
この時代には、僅かに魔法というものが息づいていた。
オスカーの常人を越えた記憶力も魔法の力だろうとエミールは考えているらしい。母もエミールも魔法の力を持っていると祖父から聞いたが、エミールが魔法を使っているところを見たことがない。子どもを揶揄うための方便をしない母からも、「魔法」という言葉が出ただけで、オスカーはすっかり信じ込んでしまったのだ。
たかだか少し物覚えがいいことは別に自慢にもならない。博物館の展示物、バス停の名前と時刻表、お菓子のメーカー一覧。身近にある余計なものばかり覚えてしまう癖がついていた。だって記憶力が良くて何の役に立つというのだろう。
強いて自分のこの力に何かしらの価値を見出すとしたら、エミールが授けた知識の山を暗記出来ていることぐらいだろう。歴史は好きだ。特に帝国支配以前の千年以上前の歴史が、特にオスカーの胸を躍らせた。
帝国の歴史書に対してグラン・シャル王国の歴史書はとても薄く、未だ解明されていない事実も多い。エミールはその王国記の歴史と文化を中心に調査する数少ない考古学者だった。一昨日の研究発表会で、「グラン・シャル王国の航海技術」を発表し、王国記の歴史解明に大きく貢献する第一人者となりつつある。
分からないものを分かろうとする、その探求を諦めないエミールをオスカーは尊敬していた。
「王国の時代には魔法使いの人口がそれは多かったのだと思います。これを御覧なさい」
エミールは東方で採掘された遺跡と、王国の神殿跡地に刻まれた古代文字の写真を見比べるようにオスカーに差し出した。エミールが伝えたい意味が分からず、オスカーは首を傾げた。
「こちらは帝国東部で採掘された遺跡。約五百年前のものとされています。そしてこちらの神殿は約二千年前のもの。大陸の反対側でしかも時代も異なるのに、使われている文字が全く同じなんです。私たちが使っている文化の文字の系列と異なる、つまり王国、帝国とは異なる文化が世界に根付いていたということになります。そして幻と言われたカナンの民の文字ととてもよく似ている。彼らは我々の知らない知識を持つとされた―――」
「分かった、分かったから!」
スイッチの入ったエミールを止めることはできない。これで何度夕食を食べ損ねたことか。
「おや、これからが良いところなのに」
「ここで学会を始めないでよ」
「学会ではなくて研究発表会です」
「そういうことを言っているんじゃない!」
「では、続きはまた今度」
「でも、魔法はもうないんでしょう? 王国の歴史とおんなじで忘れられちゃったんでしょ?」
王国の本当の歴史も、魔法も、今、この現代において誰も信じていない。
戦後の記念に建てられたというこの博物館も、閑古鳥が鳴いている。観光客ががっかりして帰ってしまう姿を、オスカーは何度も目にしてきた。
エミールは砂まみれの遺物を触った汚れた手でオスカーの頭を撫でた。
「やめて」
「ごめんごめん、レイラとセリアにまた怒られちゃいますね」
「本当にシャレにならないんだよ。最近はミルティも俺を連れ回すんだから」
我が姉と妹たちはお使いやら片付けやらをオスカーに押し付けてくる節がある。もはや習慣化しているその生活に、オスカーは慣れてはいけないと思いつつも順応している自分に腹が立っていた。
「我が一族はどうにも女性が強いからね。私も姉さんによく振り回されたものです」
「早くルーカスが成長してくれることを待つしかないか」
面倒な姉妹の面倒を幼い弟に押し付けようと目論んでいるオスカーは、深いため息をついた。
「エミールはさ、結婚しないの?」
「うん、どうでしょうか?」
他人事のようにエミールは流して、また遺物に目を戻した。生涯の伴侶を考えるよりも、カップに刻まれた古代文字を読み解く方が、彼にとっては重要なのだろうか。
―――大人の考えることは、いや、エミールのことは本当に分からないな。
「オスカー。私は待っているんです。魔法と王国の本当の歴史が、この世界に存在していたことを証明できるものを」