議論に価値はあるのかというお話
議論に価値なんて物があるのだろうか……? なんて事をいい大人が書けば、お偉い先生方に叱られる事間違い無しのテーマである。
人類を個人的な経験則による視野狭窄から解き放ったのが議論であり、議論による知的生産は、淘汰圧力による人類の進化を、進歩という全く別の物へと変化させた。
結果、我々人間は文化を築き、自らを、他の動物とは一線を画す、知的生命体と称していたりするのだ。
要するに、議論という名の話し合いは、他の動物と人間を分ける分水嶺であり、その分水嶺に価値なんぞ無いと主張なんてした物なら、お前はなんて無知蒙昧な奴だ、それでも人間かと怒られる事間違いなしという事である。
さらに言えば、あらゆる議会制において、議論は中心的な役割を果たし続け、その価値は、決して色あせない定量的な物だと推測出来る。
しかして、日本国内において、議論に権威的な価値があるかと問われれば、それは否である、と答えざるを得ない。
例えば、現代日本の議会において重要なのは、支持率であり、間違っても、議論の内容ではない。
マスメディアが議論の内容を正確に報道しなくても、何の問題もない時代に、議会に権威を感じるか、それとも議論に権威を感じるかと問われれば、それは議会になるだろう。
今や議会における議論は、権威的な価値さえ持たなくなりつつあるのだ。
国会で今何をしているのか、国会そのものをバカにしている人の方が多いかもしれないのが、昨今の日本なのだ。
人類史において最も重要な発明と問われれば、言語は出るが、議論のルールなんて物は間違いなく出ない物だろう。
※もっとも哲学は出るかもしれない
言葉なんて物は、動物でも持つような物にも関わらずだ。
挙げ句、人類史において、議論と戦争の重要さを、比較するような輩さえ出て来る始末だ。
言うまでもなく、人類史において、より重要な役割を果たしたのは、戦争よりも議論である。
先に書いたように、そもそも論で言えば、議論なくして、我々は知的生命体たり得なく、仮に議論ができないとしたなら、我々は、戦争を戦争とさえ定義出来ないからだ。
戦争が重要だどころか、その戦争さえ定義出来ない動物が、戦争の重要性を問う根拠など、挙げられる訳がないだろう。
はっきり言えば、現代日本において、議論の重要性は地に落ちていると言える。
今回は、わたくしことふりがなが、時代によって揺れ動く議論の価値というものについて、紹介していきたいと思う。
議論の価値が変動を続ける大きな要因には、議論の価値に関わる人間が3種類に分かれることが挙げられる。
1つめは、議論そのもの、もしくは議題に、学術的な価値を求める人間である。
この手の人間は、純粋に議論単体に価値を感じる。
冒頭に書いたお偉い先生方とは、概ねこの種の人間である。
この種の人間を、以降学術派と呼ぶ事にする。
2つめは、議題に権威を求める人間である。
この手の人間は、議論単体には全く価値を感じない。
議論を通して得られる権威に、興味を持つ人間である。
この種の人間を、以降権威派と呼ぶ事にする。
3つめは、議論する資質を持たない人間だ。
この手の人間は、議論の結論は解っても、内容は細かく解らない。
この手の人間を取り込んだ陣営が、多数派を構成するという要素を持つ。
この種の人間を、以降世論派と呼ぶ事にする。
では、学術派、権威派、世論派が本当に存在するのか、実例を挙げよう。
例えば、それはTwitter上での匿名談義である。
議論それ単体に価値があれば、実名だろうが、匿名だろうが、議論の価値は残るハズだが、Twitter上では、匿名での議論に意味は無しとの主張で、一部の層が騒いでいた。
※もっとも匿名談義はそれまでにも数多くあった
言うまでもなく、この匿名では意味がないと主張する一部の層とは権威派である。
自身の権威に繫がらない議論に、何一つ価値を見出せない彼等は、自身に紐付いていない匿名での議論を、その立場故に、真っ向から否定したのである。
では、人類史から言って、匿名での議論に、価値は一切無かったのであろうか?
欧州では、近世まで異端審問が幅を利かせていた時代に、学者たちは偽名を使って議論してきた。
例えば神の領域である未来予知、数学の確率なんて危険な題材の時、学者たちは、異端審問を避けるため、偽名を使って、議論を重ねたのである。
偽名という匿名性は、危険から身を守る術でもあった訳だ。
これは、現代日本のインターネットでも、全く同じ事が言える。
インターネットの利用者が、ごく少数から、不特定多数が参加するよう変わった時代に、身を危険から守るため、それまで実名だった層の一部は、匿名になった。
実名として残ったのは、身の危険を顧みないような、Twitter等に権威を求める権威派だったのだ。
では、権威派がインターネット上で覇権を握る仮定において、インターネット上での議論単体の価値はいきなり180度変わり、失われたのだろうか?
我々にとって答えは少し考えてみれば解る事だが、いくら考えてもこの答えが、まるで解らないのが世論派であった。
匿名談義は、覇権派が世論派を巻き込んで、インターネット上での議論の価値そのものを、部分的に崩壊させた好例である。
議論上の決着は、とっくについている。
しかし、世論派には議論の内容は解らない。
故に彼等世論派は、ただ声のデカイ方が正しいと信じたのだ。
その代表格が、フォロワー数による議論の是非である。
世論派と権威派は、議論の内容の是非ではなく、フォロワー数で事の是非を競ったのだ。
私は、議論の価値が破綻する条件に、価値対立が、議論上に収束しない場合を挙げる。
そして、ここで言う学術派と権威派の価値対立とは、決して、議論上では収束しない、典型例の一つなのだ。
では、学術派と権威派両者の価値対立が、議論上に収束しない場合、価値対立は、どこへ向かうのだろうか?
言うまでもなく、それは議論外である。
そして、価値対立を議論外に持ち込んだ結果、学術派と権威派、どちらが勝者となるのか。
これは、学術派と権威派両者の性質を見た時に解りやすい。
権威派は、そもそも議論を、自身の権威向上の一手段としか見ていない。故に、議論そのものを放棄出来る。
というか、権威派の目的は議論に権威を求めるどころか、むしろ逆なのである。
権威派の目的とは、自身の向上した権威によって、議論の決に介入する事なのだ。
そのために、必然的に権威派にとっての価値対立とは、議論外に波及するものなのである。
対して学術派はどうか?
彼等にとって議論は、活動の中心そのものである。
議論を成立させるために、価値対立を議論外にも持ち込むが、彼等は、結局は権威派のようには議論そのものは否定出来ない。
そして議論の成立には、権威派の協力が必要不可欠なのである。
そもそも論で問おう。
議論は権威を得るのに、最適な手段であるのだろうか、否か?
結論から言って、人故に、正しかったり間違ったりと、議論は権威派にとって、権威の向上に最適なツールたり得ない。
故に、極論的には、権威派にとって議論とは、むしろぶち壊す対象そのものでもあるのだ。
この対立構造が、学術派と権威派の価値対立の概要である。
両者は、多数派を形成し、価値対立に勝利するために、世論派を巻き込まなければならない。
その決着とは、概ね議論外でつく物なのだ。
この例外が、世論派を必要とはしない『学問』なのである。
政治と学問は、ハンナアーレントの言うように、長年価値対立を続けてきた。
その価値対立の根本原因とは、先に書いた、議論上での学術派と権威派の価値対立なのだ。
人類は民主主義に至って、議論の学術的価値観を、いったんは議会に取り戻した。
そして、権威派の台頭により、再び議会は、議論の学術価値観を失いつつあるのだ。
ここで私は、議論に関係があり、かつ議論そのものよりも価値ある物を提唱しよう。
それは、権威派にとっての議論をぶち壊す数多の手段であり、学術派にとっての議論を成立させる数多の手段である。
それら2種の手段は、いつの時代にも、議論そのものより遙かに価値ある物なのだ。
議論を破壊する手段や、成立させる手段は、議論そのものより遙かに価値があると、読者は今までに聞いた事があるだろうか?
成立していない議論に価値などない。当たり前の話ではある。
だが、この事実に目を向ける層はあまりにも少ない。
基本的に政治の世界では、権威派が強力な故に、新たな議論のルールの制定はされ難く、時代が下がるにつれ、むしろ議論のルールそのものが破壊されていく傾向にある。
現代日本で議論の厳格なルールの教育や、議論の訓練を受けた事があるだろうか?
それらはとっくに決まっているルールがあり、受けなければ知的生産の傷害となりうる訓練なのだ。
にも関わらず、日本の政治は教育の場への議論の導入を忌避し続けている。
そして、逆に学問では議論のルールは厳格であり続け、時代が下がるにつれ、むしろルールは強化されていった。
論理学の登場、疑似科学との決別などがそれだ。
政治における議論のルールの再導入は、学問による議論のルールの保存があったからこそと言えよう。
というか、議論ルールの再導入は、破壊された議論では政治が成立しなかった故の、単なる淘汰圧力とも言える。
この権威派による議論そのものの破壊と、それに反する政治の淘汰圧力が、議会での議論の価値を時代によって激変させていくのだ。
人類史において、議論のルールが明確に発生したのは、欧州においては、ギリシャであった。
論理の発明である。
非労働階級による哲学は、議論を元に真理を探求する学問だ。故に、当時明確な議論のルールが必要とされた。
それら哲学のためのルールの整備は、ギリシャの政治文化を発展させ、アリストテレスのまとめた論理学へと結実する。
そして、議論のルールが発生している最中にも、それをぶち壊すための手段は生まれた。ソフィスト達の使う詭弁である。
ソフィストの登場は、当時から権威派にとって、議論の価値なぞ知った事では無かったのだという証左になる。そして、ソフィストの台頭により、議会は衆愚政治へと変わり社会的混乱と共に初期の民主主義は終わりを告げた。
誰が悪いと言う訳ではないが、議論ルールの強化は、当時でも値千金の価値を持ってはいただろう。
しかし、それが政治の世界故に、議論ルールの強化は、不可逆的に不可能だったのかもしれない。
当時の議論の解らない世論派から見れば、その理由は解らないが、議論そのものが権威を失っていき、必然的に、政治もまた同時に力を失っていく。
※それは学術派と権威派に言わせれば詭弁のせいなのだが
そして政治の混乱によって、社会も不安定になっていく。
しかして、その内実は権威派と同じように、学術派も、議論そのものに権威を求めたりはしなかった。
彼ら学術派が議論に求める価値は、あくまで議論や議題の学術的な価値であり、間違っても、権威ではなかったからである。
議論には価値があり、必要と認めるが、権威までは必要とはしない、これは学術派にとっての永遠のジレンマと言えよう。
議論に権威を必要としたのは、議論の内容の解らない世論派であった。
彼等は、己が付き従う理由を探す層だからである。権威はその理由になり得た。
逆説的に言えば、故に今も議論に権威は発生していない。
政治を動かす彼ら権威派にとって、議論の決や、世論派は、自分たちに付き従う物だからである。
いつの時代にも、真に議論に権威を必要とする層が、世論派である事からして、こちらは世論派のジレンマと言えよう。
まとめよう。議論の価値は、まず自身が、学術派であるか、権威派であるか、世論派であるかで180度変わる。
そして、自身の属する社会が、学問よりか、政治よりかで変わる。
議論のルールがどの程度整備されてるのか、破壊されているのか、自身の居る時代がどのサイクルにあるかで変わり続ける。
さらに、議論の価値には、議論を破壊する手段の価値、そして議論を成立させる手段の価値が、必ず付きまとうのだ。
それらをある程度でも把握しなければ、本質的な議論の価値の考察にはたどり着けない。
私の主張をここまで読んで理解したのなら、読者は対象とする議論の価値を、多少なりとも考察出来るようになっていると思う。
それは、議論の目利きという、議論の価値をある程度察する能力であり、絶えず変動する議論の価値に「価格」を与える能力でもあるのだ。
現代では、議論もまた市場に並ぶただの一商品として変化してきいている。
そして、商品の売買の成立には、その商人が有用である物であるほどに、目利きの出来る商人がより多く必要な物なのだ。
私個人は、多くの商人によって、議論の価値がきちんと整備されいる未来を願う。
そして、この記事のタイトルを見て、わざわざ読もうと思った読者の多くは、きっと議論に一定の価値を認めながらも、否定的な意見は排しきれないと思っている層であろう。
諸君には、議論の価値の整備について、一考してみて欲しい。
議論の価値の整備は、今までの政治の負の循環を、止められる手段の一つなのかもしれないのだから。
何でも、なろうの評価が変わったというそうで
議論の価値が解った! という価値は適当な星で
新能力開眼! という方は星4以上を
いやいや、議論の価値はそんなもんじゃねえぜ?!反論してやる! という方は星2以下を
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