外出と外泊
担当の看護師さんの勧めに従い、外出したり、外泊したりします。
その夜私は眠れなかった。ベッドに入り、懐中電灯で手元を照らして、私は入院してからつけていた日記を読み返す作業に取り掛かった。臨床心理士の先生、主治医の先生や先ほど担当の看護師さんとの面談中に書いたノートも読み返した。夜中に見回りに来られる看護師さんに気付かれ無いように消灯して布団に潜った姿勢でそれらを読んだ。
すると毎日気分の変動がかなりある事に気付かされた。字の雑さ、内容が短く終わった日もあれば、やたらと長い日記を記していた日もあった。我ながら呆気に取られてしまった。。。
担当の看護師さんのアドバイスに従い、まずは外出してみようかな、と私は思った。遠方に外出するのには、必ず私の場合は保護者が必要だった。母に連絡して、「眼鏡を買いに行きたい」と頼んだ。
私は最初に隔離室に入った時にかなり暴れたようで、私の眼鏡のレンズには横に縞状の薄い傷が付いていた。想像するに、うつ伏せになって、顔を床に擦り付けていたのだと思う。フレームにも傷が付いていた。
外出届けに「眼鏡を作る為」と目的を書く欄に書いて、母が指定した日時を記入して看護師さんに提出した。
母も毎日仕事が忙しいのに、しかもその日は雨が酷かった。だけれど母は危うい運転なのに私を病院まで迎えに来てくれた。
病院から眼鏡屋さんが入ったショッピングモールまでは車で約二十分だった。私は久し振りに眼鏡を作り替える事や、ショッピングモールの賑やかな雰囲気にも飲まれて、三個も眼鏡を買ってしまった。私は極度に目が悪くレンズの料金がかなり高くなり、総額で二十万円カードで購入した。母もあるブランドの上品な眼鏡を作って買っていた。仕上がるのに一時間ほど掛かります、と言われて私たちはお昼ご飯を食べて時間を潰す事にした。
ショッピングモール内の珈琲専門店でパンケーキを食べた。ふんわりとしていて美味しかった。母が「最近は食べ吐きしていないの?」と、私の顔色を伺いながら、慎重に聞いて来た。「うん。入院してからしなくなった。不思議だね」とわたしが答えると、母はホッとした様子だった。「眼鏡、三個とも可愛かったね。お母さんのも素敵だったよ」と眼鏡の話をした。「この前ね、私の担当の看護師さんから、外出の回数を増やしていって、外泊もして退院後の生活にうまく馴染めるように訓練しましょうと言われたの」、と母に話した。「そうなの。。。文は一人暮らしの家に帰るつもりなの?」と母から問われて私は当然のように「うん」と答えたのだった。
眼鏡屋さんに戻り、耳に当たる部分のカーブを調整して貰ってから店を出て、外出届に書いた時間よりは早かったけれど私は病院に戻った。母にゆっくりと運転して明るい内に我が家に辿り着いて欲しかったのだった。
外出届には、保護者のコメントを書く欄があった。母は「落ち着いた様子でした。一緒にお昼ご飯を食べて楽しかったです」と車内で記入してくれた。
母の車を見送って、私は病棟に戻り、エレベーターで三階に着いて、インターフォンにある暗証番号を押してから、堅牢な印象を受ける硝子の扉を開けて病棟に戻った。
看護師詰め所におられる看護師さんに「ただいま戻りました」と声をかけて、外出届をお渡しした。「疲れませんでしたか?」と、声を掛けてくださり、嬉しかった。小さな達成感があった。
また日常に戻り、週に三、四回活動に出る以外は私は部屋にこもって、日記をつけたり、カウンセリングノートの整理や読み返しをして過ごしていた。
煙草を吸いたくなって外に出たら、上着を着て来て正解だったな、という風の冷たさだった。空が高く感じた。
金曜日の臨床心理士の先生のカウンセリングの時に、担当の看護師さんと面談をしてから、退院後の生活に自信が無くなった、と相談をした。「文さんは実家に帰るのですか?一人暮らしを続けますか?」と先生から聞かれた。「私は一人暮らし歴が長いですから、今さら実家には帰れません」と答えたのだった。私は気が重くなる思いをしていた。言葉数も減り、私はいつもは笑いながらカウンセリングを受けていたが、その日は笑う気力が無かった。
夕食を摂って、私は決まりを破って浴室の換気扇の下で煙草を吸った。それから証拠隠滅とばかりに入浴したのだった。
夜八時半過ぎに就眠薬を看護師さん達が、患者さんのお薬が入れられたカートを押しながら、部屋を訪ねて来られた。就寝時間の十時まで私はぼーっとしていた。いつの間にやら寝ていた。付けたままにしていた電気は、夜の見回りをされた看護師さんが消してくださったのか、朝には消えていた。
朝は自然と六時に目覚めていた。歯磨きや顔を洗って日焼け止めを顔に塗った。パジャマも着替えて歩く格好に変えて、準備万端とばかりにエレベーターの前に出来ている行列に並んだ。
私は朝に加えて、昼食後と夕方にも歩くようになっていた。歩きながら、色んな考えを整理したりしていた。
巨人ファンの女性の患者さんが全身を小刻みに震わせていた。特に指の震えが酷かった。時おり気持ちが高ぶるのか、話していると彼女は感情の起伏が激しくなる時があった。私は彼女の背中をさすって、ゆっくりとした口調で「大丈夫よ」と言っていた。「指が震えて字が書けなくなった」と彼女がポツリと言った。「代わりに書こうか」と私が言うと、「いい、頑張る」と言うのだった。切なくなった。私たちは互いに抱き合ってじっとしていた。
病院のお母さんが、「文ちゃん、私退院する事になったの。お世話になったから、これはやっぱり貰って頂戴」と、シルクのストールを差し出された。私は「ありがとうございます。寂しくなります」と悲しくなった。私の表情が曇るのを見て、お母さんは笑って「また会いに来るから。私は病院の裏に住んでいるのよ」と仰られて私は驚いた。「箱折りに週に三回は病院に来て働いているのよ」と言われて、私は意味が分からなかったので質問した。「病院の作業所B型があるのよ、それで働いているの」と簡略して説明されるので、作業所B型の意味は分からないままだった。
私は仕事帰りの父に、「今度外泊して家に戻って衣替えをしたいの」と言った。父は「お母さんに都合を聞いておくから」、と言ってくれた。
「いつも帰りにお見舞いに来てくれてありがとう」と二人で喫煙所で煙草を吸いながら私は父に言った。父はにこにこ笑って「気にするな」と言ってくれた。
私の外泊日は母と相談して決めた。外泊届を出して、荷造りしていた荷物を持って、久しぶりにきちんとした格好をした。病院ではいつもパジャマか部屋着しか着ていなかった。靴も病院ではスリッポンを履いていたけれど、久しぶりに靴を履いた。お化粧もした。母を待つ間、私はなんだか緊張して来てしまい、固まってベッドに座っていた。するとノックの音がして、看護師さんが部屋を訪ねて来られた。「大丈夫ですか。顔が白くなっていますよ」と言われてしまった。私は握りこぶしにしていた指をグーパーグーパーとしながら、「緊張してしまって。。。」と答えたのだった。
看護師さんの穏やかな話し口調に私の緊張も解けて来て、やっと看護師さんに「何のご用でしょうか」と言えた。「外泊中のお薬をお持ちしました。先ほどのような状態になった時に飲むお薬も追加で出して良いか、主治医の先生に尋ねて来ますから、すこし待ってもらえますか」と部屋を出て行かれた。
主治医の先生からは「あくまで用心の為ですから」とメッセージを頂いて、頓服薬も出して貰った。
母を待つ間、また荷物のチェックをし直していたら、母が部屋に入って来た。母にコーヒーを作ってあげて、「疲れてるなら少し寝てから帰ってもいいよ」と、母にベッドで寝るように言ったら、母はくたびれていたようで三十分ほどベッドで横になっていた。
私は母が寝ている間、母の顔を改めてよく眺めていた。
母が起きてから、看護師さん達や患者さん達にご挨拶をしてから、エレベーターで下に降りて病棟を出て、駐車場に停めてある母の車に荷物を乗せてから、私は母に「一服して来る」と言って、喫煙所へ行った。いつもたわいも無い話をする煙草仲間は私の顔や服装を見て、大げさな反応をするのだった。「シャバに戻ってきます」と私もふざけて言った。
母と私の住む町まで約一時間の道のりを私は懐かしく感じていた。「新しくお店が出来たんだね」とか母に話し掛けていた。町に近づくにつれて、私は胸が苦しくなるような、締め付けられるような気持ちになっていた。
ゆっくり展開でしたが、本人の私は必死でした。。。のー天気入院から、悩める入院に展開して行きます。
まだ続きます。お付き合いよろしくお願いいたします。