食べること
少しずつ病状についても触れています。
私が職場で倒れた原因は、鎮痛薬をおよそ三ヶ月に渡り、過剰に摂取し続けていて、胃潰瘍と十二指腸潰瘍が出来ていて、体内からの出血により重度の貧血状態になっていたかららしかった。そして意識混濁状態になり、私は夢の中を彷徨ったのだった。
そんな入院の経緯を主治医の先生が冗談めかして話してくださった。
「あなたはスパイになれますよ」と仰るのだった。鎮静剤を打ち、あれこれと質問をしてみたけれど、私は一切答えなかったのだそう。
先生がユーモアに富んだ方なのだと分かって来た私だった。
病院では、朝食は八時、昼食は十二時、夕食は十八時と決められていた。解放病棟では、カッターなどの刃物や、アルコールとナマ物(お刺身。衛生上から)の持ち込みを禁じられているいる以外、買い物に近所に出掛けるのは制限されていなかった。解放病棟では、お金の管理は基本的に患者さんの自己責任だった。病院の周辺にはお店が集まっていて買い物に困らなかった。郵便局や、銀行、コンビニもあった。
看護師さんや看護助手さん、ワーカーさんは、当時は「日勤」「準夜」「深夜」と三交代制で働いておられた。
先生方は、当直も順番制であるようだった。私の主治医になってくださった先生が、私が状態を悪くした日曜日に緊急の受け入れを決断してくださり、そのまま受け持ってもくださったのだった。そんな先生に私は第一声で先生を否定していて恥ずかしく感じた。
臨床心理士の先生は夕方五時過ぎには帰られているようだった。
朝食まで深夜の看護師さんたちが世話をしてくださっていた。そして日勤の看護師さんたちと引き継ぎを看護師詰め所で行われていた。
日勤の看護師さんたちが、朝薬と検温、脈拍測定、そして問診。患者さんによっては血圧を測定をしに部屋に来られていた。私はとても血圧が低い状態で、毎朝測定されていた。鉄剤もお薬に含まれていた。
作業療法は、午前中は十時からあっていた。午後は二時からだった。
参加しない暇な時間、私は病院内だけでなく、その周辺も歩いて回っていた。
私は十代後半から摂食障害があり、病院で「常食」と呼ばれる約1800カロリーの普通食を食べ、おやつも食べていたから太るのが嫌でウォーキングではなく、「速歩」を一日にかなりのキロ歩いていた。強迫観念があった。
三階の解放病棟には、約三十名の方が入院されていた。
個室、二人部屋、四人部屋、六人部屋があった。
アルコール依存症の方は、圧倒的に男性が多かった。ほとんど、と言ってもよいくらいだった。男性は同じ部屋に入られていて、部屋も決められているようだった。女性の患者さんは、私と食事を摂られている方だった。さまざまな病気の方が入られる四人部屋に入っておられた。(私に悪感情を抱いておられる方)
アルコール依存症の患者さんたちは、「断酒会」に入っておられて、毎週に一度、私の主治医の先生が中心になって、アルコール依存症の担当の看護師さん数人と、入院中の方々とOB、OGも混じえての集まりが約三時間以上もの時間を掛けて行われていた。
入院中の患者さんたちは、毎朝決まった時間抗酒薬を飲まれて、アルコール依存症の患者さんたちばかりで集まって、「誓いの言葉」を唱えられいた。
私は金曜日の臨床心理士の先生とのカウンセリングを楽しみにしていた。
先生に私は重度の摂食障害があって、太るのが怖くてすごく歩いてしまっています、と話した。「今も食べ吐きしているの」と尋ねられて、全くしていません。一度だけバイキングの時にしました、と話した。
約十年前に、私は妹が見付けてくれた、摂食障害専門の女医さんがおられる、他県の精神科病院に約十ヶ月毎週通っていた話もした。私はその時、その先生と毎回一時間以上診察とカウンセリングの時間があったけれど、合わなかった、と正直に答えた。
また私の住む県内の精神科病院にも、一度だけ行ったけれど、カウンセリングの時に心を開いて話せずに、その後行かなかったことを話した。
「なんで今は食べ吐きしないで済んでいるんだろうね」と先生から問いかけられたが、自分の中でもまだ分からない状態である事を正直に答えた。
毎週水曜日はベットシーツの交換の日だった。
私の個室のベッドは立派なセミダブルで、部屋は病室とは思えない部屋だった。ユニットバスも付いていた。
私が自分で自覚している病気について書きました。どうぞよろしくお願いいたします。