退院
文は退院日を迎えます。
夜中の一時に目が覚めた。しばらくベッドの中で目を閉じていたが、頭が冴えていて眠れそうに無かった。看護師詰め所に睡眠薬を貰いに行き、その場で飲んでから部屋に戻ってベッドに横になったが眠れなかった。起きて冷蔵庫を開けて中から母が作ってくれた甘酒の瓶を出してお湯で割って飲んだ。眠れなくてもただ横になっていると違うのよ、と母が以前言っていた言葉を思い出して私はベッドに横になり、三ヶ月に及んだ入院生活を振り返っていた。
「文さん」と呼ばれて目を覚ました。私は寝ていたようだった。昨夜の看護師さんだった。「朝ごはんの時間ですよ」と言われて、私は退院する日に寝過ごすなんて!と内心で恥ずかしく思いながら、「起きました」と言って身体を起こし、洗面所で口だけゆすいだ。寝癖が酷かった。彼は私を待ってくれていた。二人で食堂に歩いて行きながら、「昨夜、珍しく眠剤を貰いに来られましたよね」と彼に言われて、「飲みましたが、寝付けなくってベッドの中で考え事をしていたら、いつの間にか寝ていたみたいです」と私は言った。「眠れない夜もあります。そんな時はベッドの中でじっとしていて下さいね」とアドバイスをされた。「眠れなくなったら、すぐに病院に連絡して下さい」とも言われて、そんなに睡眠が大切なのだろうかと思ったが、言われた事は守ろうと思った。
食堂のテーブルには、食事を終えたほっそりとした女性が座っておられた。「すいません、寝てました」と私は謝った。「文ちゃん、すごい頭ー!」と寝癖を笑われてしまった。「笑って下さい。いただきます」と手を合わせて食べ始めた。
「文ちゃん退院しちゃうからますます寂しくなるわ」と言われた。「早く年金の手続きが出来るといいですね」と私は言った。「連絡先の交換したい」と言われて、私は携帯を部屋に置いていたから、「食べ終わったら、私の部屋に寄って下さい。携帯を部屋に置いてるんです」と彼女に言って、私は食べる事に専念した。
二人で食堂を出て私の部屋に入った。携帯番号とメールアドレスを教え合った。「連絡するねー」と彼女から言われた。「退院何時ー?」と聞かれて、「十一時です」と答えた。「娘が面会に来るから、見送れないかも知れないなー。ごめんね」と言われて、「気になさらないで下さい」と私は言った。彼女は娘さんが面会に来るのが嬉しいのか、機嫌が良かった。「またねー」と言って部屋を出て行かれた。
朝薬を飲み歯を磨いた。洗面所で顔を洗い肌のお手入れをした。
部屋をノックする音がして返事をしたら、担当の看護師さんと男性の看護助手さんだった。検診が終わり、問診の時に担当の看護師さんから「昨夜、眠剤を貰いに来られたと報告がありました。眠れませんでしたか?」と聞かれて、「早寝して夜中に目が覚めてから、眠れなくなりました。それでお薬を貰いに行きましたが、眠気が来なくてベッドの中にいました。いつの間にか寝ていました」と彼に話した。「中途覚醒ですね。先生に僕から中途覚醒時の薬が必要かどうか聞いておきます」と言われた。「お願いします」と訳が分からないまま言った。
彼らが部屋を出てから、私はシャワーだけでも浴びようと部屋の鍵を掛けてバッグからタオル二枚と下着を出した。石鹸で身体を洗ってタオルで身体を拭いた。蒸しタオルを作って、寝癖がついた髪を蒸しタオルで抑えた。何とか寝癖は直った。身体にボディクリームを塗り込んだ。それから浴槽を洗ってシャワーで流して、壁の水滴をタオルで拭き取った。
浴室を出て下着を身に付けて、白いセーターにベロア素材の黒いスカートを履いた。黒のタイツも履いた。
部屋を出て看護師詰め所に行き、預けているコンタクト類と化粧道具が入ったポーチを出して貰った。部屋に戻りコンタクトをはめて、顔色が良く見えるようにしようと心掛けてメイクをした。
コンタクト類と化粧道具が入ったポーチを返しに行ったら、儚げな雰囲気で色っぽいと私が勝手に思っている看護師さんが窓口に来られて「文さん、おキレイです」と言ってくれた。嬉しくなった。
部屋に戻りマフラーを巻いてジャンパーを羽織り、ニット帽を被って煙草を吸いに外に出て喫煙所まで歩いて行ったが、足元が寒かった。スカートにしたのは失敗だったな、と思った。木の下で煙草をゆっくりと吸った。空を見上げて雲の流れをぼんやりと眺めた。
病棟に戻ったら、看護助手さんから「ご両親がお見えになっています。食堂におられます」と言われて、私は食堂に歩いて行った。
「早かったね」と私は二人に言った。「部屋に行こう」と二人に言って私は部屋に戻った。両親も付いてきて、「荷物は整理したのか」と父が聞いて来たから、「うん。掃除もした」と私は答えた。
二人は机の上に私が積んだ荷物を見て、「これだけか」と父は言った。私は「私は多いと思ったよ」と二人に珈琲をそれぞれの好みに合わせて作ってあげた。
二人が飲んでしまってからマグカップを洗い、布巾に包んで紙袋に入れた。甘酒は結局飲み残してしまったから、これも紙袋に入れて冷蔵庫を空にした。
部屋をノックする音がして返事をしたら、カートを押しながら看護助手さんが部屋に入って来られた。「荷物をこれで運びます。詰め所でお預かりしていた物も持って来ました。チェックして下さい」と言われた。私は預けていた物を覚えていなかった。入院当初は荷物は母と妹が準備してくれていたので、自分が何を預けているのか分からなかった。曖昧に「あります」と彼に答えた。父は車を病棟の入り口まで移動させると言って部屋を出て行った。私は母に手伝って貰いながら、カートに入院荷物を入れて行った。彼と一緒にカートを押してエレベーターに乗り、下に降りて父の車のトランクに荷物を全て乗せた。
父が車を駐車場に移動させて、病棟に歩いて来るのを二人で待っていた。「退院、おめでとうございます」と言われて、「ありがとうございます。お世話になりました」といった。三人で三階までエレベーターに乗って、降りた所で別れた。「ありがとうございました」と彼に言った。
父と部屋に戻ってみたら、母はベッドで寝ていた。父と目配せして、煙草を手に取り二人で喫煙所に煙草を吸いに出た。
「お母さん、疲れてるんだね」と私が言うと、「昨日眠れなかったみたいだ」と父は言った。お母さんも眠れなかったのか、と思った。
病棟の部屋に戻って、先生との約束の時間が来るのを待った。母は寝かせたままにしていた。
部屋をノックする音がして、先生がいらっしゃった。私は母を起こした。先生は申し訳ないような表情をなされていた。
「昨夜、中途覚醒したそうですね。貴女の担当の看護師から聞きました。夜中に目が覚めた時に飲む薬が欲しいですか」と尋ねられて「いりません」と私は答えた。「僕も必要ないと思います。次の外来は約二週間後ですね。眠れないのが続くようであれば考えましょう」と仰り、私は「はい」と言った。「また、外来で」と先生は席を立たれた。私たちは三人で先生に頭を下げた。拍子抜けした気分だった。
担当の看護師さんが約二週間分のお薬を持って来て下さった。私は彼にお礼を言った。色んな気持ちを込めて。彼の存在無くして快適な入院生活は送れなかった。
彼は退院する私を車まで見送りに出てくれた。「お世話になりました」と私は頭を下げて車に乗った。窓を開けて手を振り続けた。
こうして安全な守られた空間から、私は出て行く事になった。
おわり
私の第一回目の入院話を完結出来て、ホッとしています。
三年の間に五回入院しました。。。
さまざまな出会いがありました。そして別れも。
次作は何を書くかまだ決めていません。
連載中のままにしている「迷い子」なのか、はたまた新作なのか。。。心が迷子ですね。
お付き合いくださり、本当にありがとうございました!




