不安
文は退院を前にして不安な気持ちに陥ります。
七時前に目を覚ました。ベッドの上で軽くストレッチをしてから、洗面所で顔を洗い肌のお手入れをしてから歯を磨いた。パジャマを部屋着に着替えて、外に出る格好をしてから煙草とライターと携帯をジャンパーのポケットに入れて、エレベーターで一階に降りて外に出たら晴れていた。
ほっそりとした女性が木の下で煙草を吸っておられた。私は彼女の横に立って煙草に火を付けてゆっくりと煙を吸い込んだ。彼女が「今日も病院にワーカーさんと行かなきゃならないの。面倒臭いー」と嫌そうな顔をされていた。「大変なんですね」と私が言うと、「そうなのー」と少し苛立った様子だった。私は彼女に掛ける言葉が出て来なくて黙って煙草を吸っていた。
私は先に病棟に戻った。部屋に入り、手を石鹸で洗いうがい薬でうがいをした。日記帳に睡眠時間と天気と気分を○と書いた。
朝食を知らせるチャイムが鳴り、部屋を出て食堂に歩いて行った。ほっそりとした女性はテーブルに私の分のお盆も置いてくれていた。彼女にお礼を言ってから、「いただきます」と手を合わせて、食事を開始した。彼女はばくばくと食べていた。私はゆっくりと少しずつ食べた。二人とも完食した。
「お昼ごはんは私いないから、文ちゃんごめんね」と謝られたが、「気にしないで下さい」と私は彼女に言った。
部屋に戻り朝薬を飲んで歯を磨いた。
外に出る格好をして、煙草を吸いに喫煙所まで歩いて行った。喫煙所の冷たいベンチに座って煙草を吸った。外の空気が気持ち良かった。
ぼんやりとしていたが、日勤の看護師さん達が検診に来られるな、と慌てて病棟の部屋に戻って、石鹸で手を洗い歯を磨いた。煙草の臭いが気になった。
部屋をノックする音がして返事をしたら、男性の看護師さんとベテランの看護助手さんだった。検診と問診の後にベテランの看護助手さんが私に小さな紙袋を渡された。「マドレーヌのお礼」と言われた。気になさらないで良かったのにと私は困惑しつつも「ありがとうございます」と言って受け取った。
二人が部屋を出て行かれて紙袋の中を見たら、手作りのパウンドケーキが二種類入っていた。娘さんが作られたのか、可愛いラッピングがなされていた。心が温まる贈り物だな、と思った。
なんだか気持ちが落ち着かず、外に出て煙草を吸いに出た。明日退院する事で、気持ちが乱れているのかな、と自己判断した。
煙草を吸いながら、入院中最後のカウンセリングの時間に先生に何を話そうか考えていた。
午前の活動はアートだったから参加する事にした。またストラップを作りたかった。並んでいるビーズの中から、クリスタルのようにカットがなされた大小のビーズを器に入れて、白い紐のストラップ用の金具付きのキットを二つ作業療法士さんに頼んで貰った。太めのテグスも切って貰った。
一つ目のはビーズの並びを揃えてテグスに通して作った。もう一つはテグスをビーズに二本通して八の字型にした。ストラップのキットの金具を付ける作業を作業療法士さんに習いながら、接着剤も用いて細やかな作業を集中して行った。二つとも満足出来る仕上がりで嬉しくなり、仲が良くなっていた若い作業療法士さんに見せに行ったら、「文さんのイメージに合います」と彼女は言ってくれた。
器に残ったビーズを元のケースに戻した。アートの活動が終わり、参加した患者さんと作業療法士さんたち、看護師さんで後片付けをした。テーブルも台拭きで拭いた。
部屋に戻って、手を石鹸で洗いうがい薬でうがいをした。作ったストラップを机の上に置いてから、外に出る格好をして煙草を吸いに喫煙所に向かった。
喫煙所にいる顔見知りに会釈をして、私は木の下で空を見ながらぼんやりと煙草を吸った。
病棟の部屋に戻って手を石鹸で洗いうがい薬でうがいをした。昼食を知らせるチャイムが聞こえて来て、部屋を出て食堂に歩いて行った。
一人で食べるご飯を寂しく感じたが、黙々とゆっくり噛んで食べて完食した。
部屋に戻り昼薬を飲んで歯を磨いた。
荷物をまとめようとクローゼットの一番上の戸を開けて、スポーツバッグに服や下着を入れた。バスタオルやタオル、ハンカチは紙袋に入れた。机の引き出しの中身を机の上に並べて、お菓子の空き箱に姪っ子からの手紙を入れて、またアートで作った物も空き箱に入れて紙袋に入れた。持って来ていた本やCDも紙袋に入れた。それらを机の上に置いて、意外に荷物があったな、と思った。
部屋の大掃除をしようと思い、看護師詰め所に行き、看護師さんに掃除機を貸して貰って、部屋に戻って掃除機をかけた。掃除機を返しに行ってから拭き掃除をした。浴室に入りトイレを掃除してから、浴槽や壁もスポンジで磨いた。シャワーで洗剤を洗い流して、壁はタオルで拭いた。サンスベリアの葉を濡れタオルで拭いて、お洒落な翡翠色の鉢も拭いた。
珈琲を淹れて飲んだ。片付けや掃除をして疲れたなー、と思った。煙草を吸ってから、カウンセリングに備えよう、と思いニット帽を被りタオルを首に巻き、ジャンパーを羽織ってポケットに煙草とライター、携帯を入れて、エレベーターで一階に降りて外に出て喫煙所まで歩いて行った。冷たいベンチに座って煙草を吸った。いよいよ明日退院するのかと思うと、外の世界に出るのが怖く感じられた。病院内は守られた世界で、困った時にはすぐに助けの手が差し伸べられていた。不安になった。
病棟の部屋に戻っても不安な気持ちは消えなかった。ベッドに横になって、一人暮らしの生活を想像した。引きこもり、自堕落な生活をするのだろうなと思った。規則正しい生活を送れないと思った。自分を責めるように食べ吐きもまたすると思った。暗い感情に侵されていた。
部屋をノックする音がして返事をしたら、カウンセリングの先生だった。いつもより早い時間だった。「最後のカウンセリングだから、今日は長くなるかな、と思ったの」と先生は仰った。私はカウンセリングノートとペンを持って、そして先生に渡したいと思ったお干菓子を持って、先生の後を付いて行き、看護師詰め所に入り先生はいつものスペースに案内された。先生に「父の京都土産です」とお干菓子を渡したら、「まぁ!」とリアクション付きで喜んで下さった。先生がお茶もなさる事を知っていたから、先生に渡したいと思っていたのだった。
「文さん、ありがとう。次のお茶席で使わせて貰いますね」と仰って、嬉しくなり私も微笑んで、「良かったです」と言った。
「入院中最後のカウンセリングですね。何か気になる事は無いですか」と問われて、「不安で一杯です」と答えた。「どんな不安?」と聞かれて、「入院中は困ったら、誰かが助けて下さいました。退院したら、そうは行きません。考えたら怖くなりました」と言った。「文さんにはご両親や妹さん、お友達もいらっしゃいます。助けてくれる人は沢山おられますよ」と言い聞かせるように話された。「まだうまく甘えられません。それに漠然とした不安感をうまく言葉にして伝えきれないな、と諦めてしまうのです」と言った。「文さんが思っている以上に文さんのご両親や妹さんお友達は、文さんの事を理解されていますよ。拒んでいるのは文さんの方です」と先生に言われて、ハッとした。顔色にも出ていたようで、先生から「今日は退院前日だし、ナーバスになっていたようね。文さん、自分の世界に閉じこもるのは病院にいてもしているじゃない。確かに病院は専門スタッフがいて、安心かも知れません。でも文さんの事を本当に思ってくれているのは誰ですか」と聞かれて、「両親です」と私は答えた。先生は微笑んで「そうです。ご両親です。文さん、分かってるじゃない」と言われた。「それから退院したら、文さんは一人暮らしをするのよね?睡眠と食事をきちんと取って下さいね」と言われて、たぶん食べ吐きすると思ったが、「はい」と返事をした。「退院して通院日まで約二週間ですね。どのように過ごしていたか、教えて下さいね」と先生は仰った。「今まで週に一度のカウンセリングが二週間に一度になりますね。先生にあまり会えなくなるのが寂しいです」と言った。私は先生に最初から心を開く事が出来て、この人好きだ!とインスピレーションで思ったのを思い出していた。「うふふ、今度は外来の診察室でゆっくりお話ししましょう」と先生は微笑まれた。
「言い残した事、聞き逃した事はありませんか」と先生に言われて、カウンセリングが終了なのだな、と思い「ありません。先生、お世話になりました」と言って頭を下げた。不安になっている時に先生と話せて良かったと心から思った。
詰め所を二人で出て、先生に頭を下げてから部屋に戻り、時計を見たらまだ煙草を吸う時間があったから、急いで外に出る格好になり喫煙所まで行き煙草を吸った。夕暮れが早くなったなーと思った。
病棟の部屋に戻り、手を石鹸で洗いうがい薬でうがいをして、ニット帽を脱ぎジャンパーのポケットから煙草とライター、携帯を取り出してジャンパーを机の椅子の背もたれに掛けた。
カウンセリングノートに先生が話された言葉で心に響いたり、重要に思ったのを七色ペンで囲った。
夕食を知らせるチャイムが聞こえて来て、部屋を出たらほっそりとした女性が歩いて来られていたから、一緒に食堂に行きカートからお盆を出して、テーブルに置いて椅子に腰掛けた。「いただきます」と言ってから食べ始めた。彼女が「さっき娘から電話があったのー。明日会いに来るってー」と嬉しそうだった。「たしか中学生でしたよね」と彼女の子どもさんは息子二人に一番末が娘さんだと闊達な女性と二人で会話をなさっているのを聞いていてうろ覚えだった。「うん。中二。私と同じで発達障害があってね、この病院の子ども外来にかかってるのー」と言われて、私は発達障害は言葉としては知っていたが、自閉症が何なのか、ADHDが何なのかは分からないままで、すすんで調べようともしていなかった。この病院に子ども外来がある事も知らなかった。入院当初親しくしていた若い女の子も子ども外来の患者さんだったんだろうか、と思い出しながら思った。妹さんも一緒に外来の患者さんとして来ておられた。
二人とも完食してから、それぞれの部屋に戻った。
お風呂に入るのも面倒で、顔を洗い歯を磨いて夕薬と就眠薬を一緒に飲んで、パジャマはもうバッグになおしてしまっていたから、部屋着のままベッドに入って寝た。
カウンセリングの先生に懐くように先生の事が好きでした。
続編の投稿に際し、花屋さん大変お世話になりました!!!




