二百七段 たゞ、皆掘り捨つべし
徒然草 二百七段 原文
亀山殿建てられんとて地を引かれけるに、大きなる蛇、数も知らず凝り集りたる塚ありけり。「この所の神なり」と言ひて、事の由を申しければ、「いかゞあるべき」と勅問ありけるに、「古くよりこの地を占めたる物ならば、さうなく掘り捨てられ難し」と皆人申されけるに、この大臣、一人、「王土にをらん虫、皇居を建てられんに、何の祟りをかなすべき。鬼神はよこしまなし。咎むべからず。たゞ、皆掘り捨つべし」と申されたりければ、塚を崩して、蛇をば大井河に流してんげり。
さらに祟りなかりけり。
子供達の制服も冬服に変わってしばらく経ち、すっかり秋も深くなったある日の放課後。
理科室で学年主任の金沢先生に報告というか、相談をしていた。
というのも、三年四組の佐山佑介の母親が再婚するらしく、お母さんの名字が変わると連絡を受けた。お母さんは再婚相手の木下姓を名乗るらしいが、息子には実の父親の名字の佐山をそのまま使わせるようだ。
「お母さんとも話をしたのですが、保護者会やPTA等の集まりでは木下ではなく佐山と呼んでくださいと仰っていました。私もその方がいいと思います」
元々、離婚した時に佐山の母親は別姓になっていた。だから再婚したと言っても書類の上以外には何も変わらない。今まで通りお母さんも佐山さんと呼ぶだけだ。
でも、佐山本人は今まで通りとはいかないだろう。
「わかりました。しかし、この大変な時期に再婚とは……佐山に影響がなければいいんですが」
受験まであと半年もない。今じゃなければ駄目だったのかとも思うが、それぞれの家庭の事にはあまり口出しも出来ない。
「影響はあるでしょう。再婚相手とも住む事になるでしょうし、本人は複雑かもしれない。しばらくは注意して見守ろうと思います」
「了解です。教頭と校長には私から報告しておきます。この事は他の先生には?」
「いえ、今川先生にだけ伝えておけば十分かなと。プライベートな事ですから」
俺に何かあった場合、副担任の今川先生が前面に出なければいけないから彼女には話しておく必要はあると思うが、出来ればあまり人に言わない方がいいだろう。
「そうですね、それがいいでしょう。わかりました、何かあればいつでも、何でも相談してください」
「ありがとうございます。じゃあ、補習授業がありますので、私はこれで」
受験を控え、希望者を対象に下校時刻まで追加授業を行う事になった。第一回の今日は国語で俺の担当だ。
「今日からでしたね。よろしくお願いします」
「はい、失礼します」
理科室を後にして、職員室へと戻り授業の準備を急いだ。そう言えば補習授業には佐山の名前もあったな。それとなく声を掛けてみようか。……ん?
「どうした遠山? 補習授業の申し込みしてなかったか? もうすぐ始めるぞ」
職員室を出ると扉の前に二組の女子、遠山莉乃が立っていた。俺に気付くとたどたどしく言葉を紡いだ。
「あの、今日の補習授業、お休みさせて欲しいんです」
「いいけど、体調でも悪いのか? 一人で帰れるか? ……遠山?」
「ご、ごめんなさい……私……」
俺の質問には答えず、ぽろぽろと大粒の涙を溢し始める遠山。当然、俺は狼狽えた。
「どっか痛むか? とりあえず保健室に行こう」
背中を押して保健室に入るが、生憎と保健の先生は不在のようだ。仕方なく椅子に座らせ、向かい合うように俺も腰掛ける。
「遠山、俺で良ければ相談に乗るし、黙ってた方がいいならただここにいるけど」
遠山は大人しいというか、お淑やかな女の子だ。長い綺麗な髪が特徴的で、お人形の様な子だった。
「……佐山と、同じ、教室にいたくないんです」
詰まりながらもか細い声で答えてくれた。佐山といたくない? どういう事だ?
「佐山って四組の佐山か? あいつに酷い事でも言われたのか?」
佐山は見た目もクールであまり口数の多い生徒ではないが、人が困っていると見過ごせない、不器用だけど優しい男子だ。女の子に暴言を吐く様なタイプじゃない。
「もう私とは付き合えないって……別れよう、って」
「え? 遠山と佐山って付き合ってたの?」
全然気付かなかったな。普段からがさつで鈍感と言われているが、本当に俺は鈍いらしい。逆に今川先生なんかは気付いているだろう。
「はい。校則違反で停学ですか?」
南部中では男女交際禁止の校則があるが、今時ナンセンスだろう。不純な関係でなければ俺は問題視するつもりはない。大体、俺なんて婚約してるんだぞ。大人は良くて子供は駄目、なんて訳の分からない理屈で生徒を押さえつけたくはない。
「遠山は二組の生徒だからな、俺にお前を罰する権限はない」
「佐山は怒られるの?」
女の子を泣かす様な奴は怒ってやりたい所だけど、今の佐山を怒る気にはなれない。
「大っぴらには言えないけど、俺個人としては節度さえ守ってくれれば恋愛しても構わないと思ってる。だから何も言うつもりはないよ。付き合って長いのか?」
「六月からだから、四ヶ月ちょっとかな」
この年だと、相手その人よりも恋愛に対してドキドキしてしまって、不意に冷めてしまう事もある。だけどそれも大体三ヶ月までの事だ。四ヶ月を超えたなら最初の壁は乗り越えた様に見えるが、どうだろうか。
「結構長いな。振られる様な心当たりはあるのか?」
「わかんない。昨日私の家で一緒に勉強してた時はそんな事なかった。今日になって、突然別れようって。理由を聞いても教えてくれない」
遠山には母親の再婚の事を話してないのだろうか。逆に恋人には話しづらいか。
「そっか、理由を言ってくれないのか。二人はいつも遠山の家で遊ぶの? 佐山の家には行かないのか?」
「佐山の家はお母さん一人で、アパートも狭いからってあんまり入れてくれないの」
この言い方だと母親の再婚の話は知らないようだ。彼女には弱いところを見せたくないっていう男子の気持ちも、同じ男の俺にはよく分かる。
「遠山はさ、佐山のどんな所が好き?」
「顔」
恥ずかしげもなく即答する遠山に盛大にずっこける。
「顔かよ! 確かにあいつはかっこいいけどな」
涼しげで切れ長な目はミステリアスな印象で、同年代の男子と比べると随分と大人びた雰囲気がある。
「それに頑張り屋で、優しい」
「まあ、あいつはさりげない気遣いが出来るよな」
「あんまり喋らないから誤解されやすいけど、無口なのも凄い気を使ってるから。傷付くような事は絶対に言わないし、いつも私が喜ぶ言葉を言ってくれる」
そんな佐山が理由も言わずに別れようなんて一方的に告げるのは、佐山自身に何かあったのだろう。
「じゃあ今回の別れ話もお前を思っての事かもしれないぞ。遠山は別れたくないんだろ?」
「うん……別れたく、ないです」
「じゃあ一度ちゃんと話し合ってみろ。理由を聞いて、納得するまで問い詰めろ。好きなら容赦するな」
若いんだから、相手の為に別れた方がいいかも、なんて考えはするべきじゃない。遠山も、そして佐山も。
「迷惑じゃないかな?」
「迷惑なもんか。今は短し恋せよ乙女、女の子はワガママでいいんだよ。でも、佐山にも頭を冷やすというか、考える時間も必要だろう。二、三日は時間を置いた方がいいな」
きっと、心が追いついてないんだ。変わっていく環境の、目まぐるしいスピードに合わせて、自分も答えを出さなきゃいけないと思ってるんじゃないか。十五歳の子供にはあまりに酷だ。
「……うん、わかった。ちゃんと話し合ってみる。ありがとう先生」
「ああ。納得出来たら補習授業に顔を出せばいい。……ほら、このプリント渡しておくから家でやってこい。明日提出な」
パンと膝を叩いて立ち上がる。もう遠山の涙は乾いていて、一緒に保健室を出た。大きく手を振りながら帰っていく彼女を見送って、俺も補習授業へと向かう。
補習授業に充てられた三組の教室に、佐山はちゃんと来ていた。授業態度は至って真面目で、俺の質問にもハキハキと答えていた。いつもと変わらない様子で、遠山の話を聞いてなければ俺は何にも感じなかっただろう。母親の再婚も自分の中で消化出来ているのだと安心した事だろう。
でもきっと、そうじゃない。
「佐山」
「はい」
授業を終えて、帰り支度を始める佐山に声を掛ける。
「一緒に帰ろうか」
『徒然ww 二百七段 たゞ、皆掘り捨つべし』
南部中の学区には町の代名詞にもなるような大きな川が流れていて、河川敷は地域の憩いの場として長く親しまれている。
そんな川沿いの道を並んで歩く。落ちかけた太陽は二人の影を長く長く引っ張って、ついでに土手を黄色に染め上げていた。
車通勤の俺が歩いて一緒に帰ろうなんて明らかにおかしいのに、佐山はなんの指摘もせずに俺の誘いを受け入れてくれた。
とは言え、いきなりお母さんの再婚についてなんて言い出せず、授業の内容や受験勉強についての話をしばらくして、やがて核心に触れた。
「お母さん、再婚するんだって?」
「はい。そうみたいです。一人で俺を育てて苦労してきたんで、良かったです」
遠くを見つめて、夕日が眩しそうに目を細めて佐山は答えた。
「来週引っ越すんだよな? 環境変わるけど、ちゃんと勉強出来そうか?」
再婚に合わせてマンションに引っ越すそうだ。引っ越しと言っても同じ町内だから、学校が変わったりはしない。その辺りは佐山に配慮したんだと思う。
「今までの二間のアパートより広いし、自分の部屋もあるんで、前より捗ると思います」
「そっか。自分の部屋は羨ましいな。中学の頃は俺も二間の団地に住んでてさ、兄貴もいたから縄張りなんて主張しようがない程だったよ。再婚相手の人とはどうだ? 良くしてくれそうか?」
「まあ、ぼちぼち。お互い今は気を遣い合ってるっていうか、ぎこちないけど。悪い人じゃないです。なにより、母を幸せにしてくれる人ですから」
それでお前が我慢してたら意味がないじゃないか。親の幸せと子供の幸せは同じ様で、実際はイコールじゃない。
「お父さんとは、会ってるのか? ……いや、色々聞いてごめん。俺も小学校の頃に両親が離婚してさ。他人事とは思えなくて、お節介かも知れないけどほっとけないんだ」
「うちの親が離婚したのって、祖母の、父の母親の介護が原因なんです」
お父さんの実家は長野にあって、一人で暮らしていたお祖母さんが体を悪くして引き取るかどうかで揉めたらしい。結局お母さんは拒否して離婚になって、お父さんは単身長野に行ったそうだ。だから年に一回ぐらいしか会っていないと話してくれた。
「笑っちゃいますよね。どんな事も二人で力を合わせて乗り越えるって、誓って結婚した筈なのに。先生、聞いてもいいですか?」
立ち止まって射抜く様な目差しに思わずハッとするが、佐山の視線を真っ直ぐに受け止める。
「何だ?」
「婚約者ってさ、初めての彼女?」
「いや、三人目だ。でも、今の彼女とは一生を添い遂げると思ってる。その為の努力もする」
「まあ、そうだよね。複数の相手と関係を持つのが自然だよね」
人を好きになるのは自然な事だ。自然で、当然。
「でもさ先生、前の彼女を好きだった気持ちはどこに行っちゃうのかな」
人を好きになるのと同じぐらいに、忘れていくのも自然で、当然。だけど、それは経験しなければわからない。
「……わからない。俺の中に無いとも言い切れない。だけど探しても今は見つけられそうにない」
佐山は少しだけ唇を歪めて、そんな顔を見られたくないのか俺を置き去りにして歩き出す。意を汲んで顔を見ないように、ワンテンポずらして俺も歩き出した。
「俺はね先生、怖いんだ。いつか好きな人の事を忘れて他の人を好きになるのが怖い。でもきっと、多分そうなるんだろうな。だって母さんの子供だから」
「遠山と別れた理由はそれか?」
「――っ! さあね、どうだろう」
息を飲む音が聞こえてきたけど、どんな表情かはわからない。影はさっきよりも長く伸びていた。
「遠山が補習授業を休みたいって報告に来たんだけど、突然泣き出してな。俺が問い詰めて聞き出したんだ」
「泣いてたんだ。そうか、俺が泣かしたのか」
「そう、お前が泣かした。いーけないんだいけないんだ、先生に言ってやろー」
おどけた様に俺が言うと、佐山は少しだけ笑った。
「フフン、先生ってアンタじゃないのかよ」
「今川先生に言ってやる。きっと鬼みたいに角生やして、正座させられて説教だな」
「うわ、あの人だったら般若みたいに怒りそう。それは勘弁して!」
振り向いて、青ざめて言うもんだから俺は声を出して笑ってしまう。それにつられて、佐山も大きな声で笑った。
「ハハ……なあ佐山。遠山のさ、どんな所が好きなの?」
「は? いきなり何?」
「いいから、教えてよ」
「まあ、いいけど」
恥ずかしそうにまた前を向いて、夕日に目を細めて頬を掻いた。
「アイツはさ、出来る出来ないで人を評価しないんだ」
二年の時、佐山と遠山は同じクラスだったそう。
「毎年五月にさ、体力テストやるじゃん? 俺ヒョロヒョロで運動神経ないから、二年の時も散々だったんだよね。その結果を見てさ、女子達が口を揃えてガッカリだって言ってたんだよ」
見た目はスッとして顔もいいから、確かにギャップを感じるかもしれない。中学生女子ってのは残酷だからな。
「でも、遠山だけは『出来ないのはしょうがないじゃん』ってフォローしてくれてさ。でも、二年の時はそれだけだったんだ」
意識する様になったのは三年の体力テストからだと言う。
「俺も悔しくて、少しずつ筋トレだけはしてたんだ。で、今年の体力テストの懸垂で初めて一回出来たんだよ。今まで一度も出来なかったのに。それをさ、遠山がたまたま見てくれてたみたいで『スゴいじゃん! 頑張ったね!』って言ってくれたんだよ」
「そっか、それは嬉しいな」
「遠山はどれだけ頑張ったかで人を評価してくれる。そんな人間はあまりいない。素直に尊敬してる」
佐山も遠山も、相手の好きな所を聞かれて直ぐに答えられるなんて凄いと思う。恋に恋してるんじゃなくて、ちゃんと相手の事を見てるのだとわかる。
勿論、告白されたからとか脈がありそうだから付き合うって言うのも悪い事じゃない。だけど、この二人の様なカップルは眩しく見える。
「今も好きなんだろ?」
「好きだよ。でも、人と付き合うってのがよくわからなくなった」
「わからないなら、一人で答えを出すもんでもないだろう。一度でいいから遠山と話し合ってやるべきじゃないかな」
「……俺は、遠山に相応しくない。頑張れない事だっていっぱいある」
大人になるってのは汚い物も吸収していくって事だ。子供というのはいつの時代も潔癖で、平然と汚れている大人が理解出来ない。
いつも、俺は悩む。
ピュアなままじゃ生きていけないのは明白で、自分を守るためには色んな事から目を背けなきゃいけない。
けど、それは正しくない。
皆そうしてる、なんて理屈は破綻してて。
綺麗なままでいて欲しい。生徒達には俺達大人を汚いと思えるままでいて欲しい。
出来れば、こっち側には来て欲しくない。
泥水を啜りながら生き抜く強かさを身に付けなければならないが、本心は清流の中で生きて欲しい。
いつも、俺は葛藤している。
「相応しくないかを決めるのはお前じゃない、遠山だ。っと、待ってくれ佐山。河川敷に降りて座ろうか。ジュース奢るから」
あと二分も歩けば佐山のアパートに着いてしまう。まだ何も解決出来ていない。河川敷への階段を降りて、誰もいないフットサルコートのベンチに佐山が座るのを見届けてから、自販機へと向かった。
「何がいい?」
「コーヒー、ブラックで」
「その年でブラックってカッコいいな」
「……別に、ただの嗜好だよ」
照れる訳でもなく淡々と答える。やっぱり佐山はナチュラルにクールで、カッコいい。
「意識してない所がまたカッコいいのさ。冷たいのとあったかいの、どっちがいい?」
今日は風が冷たくて、耳たぶの先が少し痛い。自分用にあったかいココアを買って、佐山の返事を待った。
「……わかんない。子供としてどっちが正解なのか、俺はどうしたらいいのか……わからない」
佐山は川の方を見つめて、泣きそうだった。肩が震えていて、それがとても寒そうに見えて、あったかいコーヒーを買って隣に腰を下ろした。その手に缶コーヒーを握らせると、佐山はギュッと握りしめた。
佐山のしたいようにするのがいつだって正解だと思う。確かなのは子供に我慢させる環境が間違いなんだ。だけど、佐山にそう言っても意味が無さそうで、俺は何も言えなかった。
「母さんが幸せになるんだ、そりゃあ祝福してあげたい。あったかいのが正解なんだ。だけど、同じぐらい俺の事は一番じゃないのかって責めたい感情もある。冷たい俺がいる。父さんだって、ばあちゃんの事は仕方ないとはわかってるけど、それでも俺を優先してくれたっていいのにって想いがずっとある。だけど、それを口に出したら二人を悲しませる」
言ってやればいい。母親に、父親に、もっと自分を見てくれって怒鳴り散らせばいい。だけど、優しい佐山はそれが出来ない。クールに徹して、悲しくない振りをする。自分の中の黒い感情にショックを受けて、自己嫌悪に陥る。佐山はこれっぽっちも悪くないのに。
「いい子でいたいのに、いい子でいたくない……俺は醜くて、汚い」
「佐山は十分いい子だよ」
慰めにもならない様な事しか言えなかった。
教師なんて偉そうな肩書きがあっても、無力だ。
いつも、俺は葛藤している。
傷ついてる生徒を前に何も出来なくて、己の不甲斐なさを痛感する。
教師になんてならなければ良かった、そんな考えさえよぎる。
「こんな俺じゃ遠山に相応しくない。でも、いつか俺以外の男が遠山の彼氏になるのかと思うと狂いそうになる」
「……相応しくないなんてそんな事ない。佐山がいい子なのは俺が一番知ってるんだから」
性懲りもなく上っ面の言葉しかかけてやれなくて、俯いて震える佐山の肩をただ抱き締める事しか出来なかった。
いつの間にか日は沈んで、影は闇に飲み込まれて無くなっていた。
四日が過ぎ、放課後。
二回目の国語の補習授業を始めようと三組の教室で準備をしていた。この前とは逆に佐山はまだ来ておらず、遠山は既に席に着いていた。彼女は目の回りも赤くなっているなんて事はなくて、もう吹っ切れた様に見える。だけど無理をしてる可能性もある、心配になって声をかけた。
「遠山、大丈夫か?」
「はい。大丈夫です。あのね、今日もし佐山が来たら、捕まえて理由を聞こうと思って」
俺の言った通りに、少し時間を開けて佐山に考える時間を与えて、今度は容赦せずに向き合おうとしている。ちっとも特別なんかじゃない、俺のありきたりなアドバイスを信じて。
「そうか、頑張れ。上手くいくといいな」
「うん! ありがと……佐山?」
俺にキラキラと笑顔を向ける遠山の隣の席の椅子が引かれ、佐山が腰を下ろした。いつものクールな表情で真っ直ぐに遠山を見つめると口を開いた。
「遠山、今日一緒に帰ろう。ちゃんと話すから。二人で考えて、答えを出そうと思う」
「う、うん! 一緒に帰る!」
どういう答えを出すかはわからない。話し合った末に、別れを選ぶのかもしれない。
だけど、佐山はもう逃げない。
母親の再婚と向き合って、遠山と向き合って、自分自身と向き合う事を決めてくれた。
生徒達はこんなにもすぐに、あっという間に大人になる。
泣きそうになる。
嬉しくて、泣きそうになる。
「卜部先生? もう時間ですけど、始めないんですか?」
他の生徒からの指摘で我に返って、慌てて背を向けて、黒板にチョークを走らせる。
「悪い悪い、ぼーっとしてた。よし、じゃあ国語の補習授業を始めるぞー!」
零れた涙に晩秋の空気が触れるが、ちっとも冷たくはなくて、むしろ暖かかった。
徒然草 二百七段 現代訳文
後嵯峨上皇が嵯峨に亀山御所を建てようとしていた時の話。
基礎工事に着手するが、土を掘り起こそうとしたら数えきれないほどの蛇がとぐろを巻いて住み着いていた。
工事の責任者が「ここの主かもしれません」と上皇に報告すると、「どうしたものか」と悩んでおられたので、「昔からここに居たものを無闇に追い出すわけにはいかない。蛇は神の使いともいうし、祟られるかもしれない」と皆が口を揃えて進言した。しかし太政大臣の徳大寺実基は「天皇のおわす地に住む蛇が天皇の住居を建てようというのに祟るものか。蛇はじゃと読むが、決して邪ではない。構わずに全部掘り出して捨ててしまえ。工事を再開せよ」と言い放ったという。
大臣の言う通りに掘り起こし、蛇は大井川に流したそうだ。
勿論、祟りなんて無かった。