百九十段 妻といふもの
徒然草 百九十段 原文
妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心にくけれ、「誰がしが婿に成りぬ」とも、また、「如何なる女を取り据ゑて、相ひ住む」など聞きつれば、無下に心劣りせらるゝわざなり。殊なる事なき女をよしと思ひ定めてこそ添ひゐたらめと、苟しくも推し測られ、よき女ならば、らうたくしてぞ、あが仏と守りゐたらむ。たとへば、さばかりにこそと覚えぬべし。まして、家の内を行ひ治めたる女、いと口惜し。子など出で来て、かしづき愛したる、心憂うし。男なくなりて後、尼になりて年寄よりたるありさま、亡き跡まであさまし。
いかなる女なりとも、明暮け添ひ見んには、いと心づきなく、憎かりなん。女のためも、半空にこそならめ。よそながら時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊まり居ゐなどせんは、珍らしかりぬべし。
『徒然ww 百九十段 妻といふもの』
(徒然草 百九十段 現代訳文)
男は妻を持つべきではない。
そう吉田兼好は自身の代表作「徒然草」の百九十段に記している。
更に彼はこう続ける。
独身貴族だと恥ずかしげもなく言う姿こそあっぱれであり、どこかの家に婿入りしたとか、彼女と同棲するような男はむしろ軽蔑したくなる。
「世間体や性欲に負けて大した事のない女と一緒にいるような男」、なんて思われれば男としての格も下がるし、相手がいい女だとしても、「あいつは女性をステータスとしか見ていない」なんて陰口を叩かれるのだ。
家庭に入る女性はみっともなく、子供を産み育てる姿を想像するだけで女を捨てたのだと思ってしまう。男が死んだ後に尼さんにでもなればそれこそ生き恥を晒しているようなものだ。
どんな女性でもずっと一緒にいれば飽きる。だから男と女なんてのはたまに会うぐらいが丁度いい。女性からしても、不意にフラッとやって来て泊まったりするような男にときめくものではないだろうか。
以上、徒然草の百九十段である。
実に過激だ。今だったらフェミニストにこれでもかと言うぐらい叩かれるだろう。
言いたい事はわからないでもないが、吉田兼好は一体どんな青春を送ったのか心配になる。他にも百七段など、彼は本当に女性を毛嫌いしているのだ。絶対に女に騙された事があるのだと思う。じゃないと「嘘偽りに塗れていて素直じゃないのが女だ」なんて言葉は出てこないだろう。そのわりに百三十七段みたいに「体を重ねるだけが恋愛じゃない」なんてピュアな事も言っていたりするからよくわからない。
今の時代、独身も珍しい事ではない。どんどん結婚年齢は上がっているし、婚活なんてものが流行っているのも結婚が自然な物では無くなってきているという表れだろう。
独身を否定はしないが、俺はやっぱり結婚したい。何故なら愛しい人がいるからに他ならない。
「兼好くん、どうしたの? いきなり屋上で待ってるなんて」
抄子ちゃんが俺の待つ屋上にやってきた。メールで呼び出しておいたのだ。
教師だって屋上で青春したいのだ。一度くらいいいだろ?
「ん、転任する前にどうしても伝えたい事があってさ」
一緒にいるには努力が必要だ。相手を抱き締めるその手を緩めてしまえば、男女の仲なんてすぐに離れてしまう。
「伝えたいこと?」
彼女は全くピンと来ていない様子だ。確かにまだ付き合い始めて半年だし、時期尚早かもしれない。もっと時間をかけた方がいいのかもしれない。
でも、彼女以上の女性がいるなんて考えられないのだ。
「うん。違う学校になってもさ、ずっと一緒にいたいなって。だからさ」
見てるか吉田兼好。天国から唾を吐いてるかもな。でもな、きっと、仕事を終えて家に帰ったら妻が待ってるっていうのは最高だと思うぜ。
「結婚しようか」
飾らずに、ストレートに。
真っ直ぐに放ったプロポーズの言葉は彼女を慌てさせて、顔を真っ赤にさせて、そして、一生幸せにした。
おわり。




