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003.火竜は夢の中を泳ぐ

 火竜――、フパイラーンは桃色の夢を見ながら眠りに就いている。


 瞼を閉じたまま、乳白色の川に身を浸し、まどろみながらシャボンの洟ちょうちんを膨らます。


 魚たちは水面ぎりぎりで求愛のダンスを踊った。


 陽の光を反射するたび、緑にも青にも見えるドラゴンの鱗へと水しぶきがかかった。


 フパイラーンは鼾をかきながら、巨大な尾の先を少しだけ動かす。


 それを見計らった鳥たちは愛の調べを、動物たちは永遠の愛をここで誓う。魚たちのダンスもクライマックスを迎えていた。


 この場所が竜哭谷と呼ばれて三百年が経過し――、山の生き物たちはここを「愛の神殿」と呼ぶようになった。


「愛をうしなった龍神さまは、愛を待つ間に、スペシャルなフェロモンを発散するようになったのよん」


 クワイナクワイナ鳥の雌――、適齢期になったカナカナが妹のコナコナに恋の魔法のかけ方をレクチャーしはじめた。


「でもお姉さま、私もう何度も彼にそっぽを向かれてるのよ」


「大丈夫よん。彼をここにおびき寄せただけで勝ちは決まってるの。いいから教えたようにやってみなさい」


 フパイラーンの尾が動くタイミングを見て、止まり木のコナコナが鳴いてみたら、向こうから素敵な鳴き声が返ってきた。


「ほらね。どんな釣れない雄でも魔法で落ちる。すぐに可愛い雛を産むわよ」


 カナカナは上空を舞う二羽を見上げる。


 妹とその夫――、翼と翼が交差し、まるでハート型のような影が太陽に重なった。


「ここ竜哭谷で成立しなかったカップルはいないわ。求愛すれば誰でも恋が叶うもの」


 カナカナは今度はいつ、行き遅れた末の妹をここへ連れてこようかと思った。



 フパイラーンの夢の中。


 忘れられない記憶。記憶のフィルムはもうじき結末を迎える。


 新婚だったフパイラーンは、ふわふわとした桃色の雲が浮かぶ空で、夫のコンロンと共に優雅に泳いでいた。


「地上が騒がしいな」


 コンロンは小さくて愚かで、魔法がなければ何もできない人間たちを哀れみ、慈しみ、いつも気にかけている。


「ちょっと、もう一度覗いてみよう」


 コンロンが身体を旋回させ、太陽の光を鱗に浴びながら引き返し、フパイラーンもそれに倣った。


「この数百年ずっとそうだったじゃない。私たちは私たちで幸せになりましょうよ」


 そこかしこの国境や緩衝地帯で爆発が生じ、山々が焼け川が赤く染まっていた。


「戦いが激化すれば、いずれここも火の海になるんだよ。大切な卵を産み育てることもできなくなる」


「ならどうするの」


「ボクたちが住んでるメクソリンダス王国は小さくて、弱い。他国を攻める気もない王が戦いを始めたということは、隣国が攻めてきたのだろう」


 コンロンは二本の角がたくましい火竜だった。しかしその瞳はどの湖よりも澄み切っている。


「加勢にいくの?」


「ボクは誰の味方でもない。でも、どちらかに争いの非があれば、それを止めるしかない。双方の王国でたくさんの死者がでる前にね」


 決心したような口調に、フパイラーンは何もいえなかった。


「早く終わらせて。人間たちは悪魔に誑かされた存在だけど、私たちは神の寵愛をうけているのよ。深入りはせずキリのいいところで引き上げて」


 コンロンは何も言葉を返さず、ただ柔らかい笑みを浮かべたまま地上へと向かった。


 髭が、尾鰭が――、去り際に左右に揺れ、いってくるよと合図をした。


 それから三百年が過ぎた。


 コンロンが傍にいてくれない日々に価値など感じない。


(幸せだった頃に戻りたいなぁ)


 今ふたたび、記憶のフィルムが巻き戻る。


 あれは、フパイラーンが南部にある竜山脈に遊びに行ったときのできごと――。


「君は北部の火竜かい」


 太陽の影になった一頭のドラゴンが話しかけてきた――。


 それは、とても大きくて、立派な髭と鱗をもっていて、カザンナ火山の緋色の宝石スファイヤよりも燃えるような瞳をもった火竜だった――。


 記憶のフィルムは次々とふたりの思い出を映し出す。


 フパイラーンはコンロンとの思い出を夢の中で反芻し、いつの日か彼がこの地に舞い戻ってくるのを待ち続けている。



「フパイラーン…フパイラーン」


 彼女を呼ぶ声がどこからか聞こえてきた。


(こんな真夜中に私を呼ぶのは、誰かしら)


 フパイラーンは永きに渡る眠りに就いているが、外でどれくらいの時間が経過しているのか――、朝なのか昼なのか、夜なのかは把握していた。


 これは命の危険や繁殖期を察知するためのドラゴンの習性――、膨大な数の鱗と髭が常に外界の情報を脳に伝えているからである。


(フパイラーン)


 気安く私の名前を呼ばないでよ、と思ったが、自分の名を呼ぶ独特のイントネーションに懐かしさを感じ、憤りの炎はどこかへ消えた。


 いつの間にか夢の中のコンロンは消え失せ、感覚は外界へと集中される。


(フパイラーン。コンロンの夢を見てるのかい)


 誰かがそう囁く。


 竜哭谷にやってくるものたちは、コンロンとフパイラーンの恋物語を知っているため、コンロンの名前を出されても不思議ではなかったが、ここまで親しげに話しかけてくるものは珍しかった。


(楽しい夢を見たならば、この俺に話しておくれよ)


 コンロンと同じ、南部火竜族の訛りが懐かしかった。


(ずっとひとりぼっちじゃ、思い出が色あせちゃうよ)


 これまでに何千、何万という生物に話しかけられてきたが、フパイラーンがそれに返答したことは一度たりともなかった。


 だが――。


(コンロンのどんなところが好きだったんだい)


「長い髭と、空の青さを映し出す、水面みたいな鱗」


 フパイラーンはついつい「声の主」へ返答してしまった。


(楽しかった日々の思い出をたくさん聞かせてくれよ)


 声の主のリクエストを無視するわけにはいかなかった。


「真夜中に月明かりに照らされながらメダイヤ(フォール)を一緒に滑り落ちたり、朝焼けに染まった燃えるようなカスタス山脈を見下ろしながら雲の中を駆け抜けたり、カバイラン海域に棲息する巨大クジラと海面越しに競走したり‥それから、それから…」


 フパイラーンは「声の主」に何時間も思い出話をした。


 幸せだった日々を誰かに伝えることで、思い出が今日のことのように蘇ってくる。


(また来るよ、明日も聞かせておくれ)


 フパイラーンはそれに返事はしなかった。「声の主」はいつの間にかいなくなっており、すこし寂しかった。


 翌日――。


(また来たよ。今日も聞かせてもらえるかな)


「あなた雄でしょ?この竜哭谷にいるってことは恋人はいないみたいだけど、本当に暇人ね。いいわ、話してあげる」


 フパイラーンはその翌日も、翌々日も「声の主」を待ちわびるようになった。



 一ヶ月と十日が過ぎた――。


 この日フパイラーンが「声の主」に話したのは、サバラサラバ砂漠で灼熱日光浴をしたときの話だった。


 カップルがここを訪れると別離するというジンクスをはねのけ、コンロンについていき一緒に日光浴をした。


 コンロンはこの日の夜、砂漠に滑り落ちる満月を眺めるフパイラーンに告白をし、ふたりは夫婦となった。


「別離の砂漠で告白するなんてクレイジーでしょ?でもそこがあのひとらしかったの」


 結果、ふたりは卵に恵まれなかったが、夫婦として沢山の時間を一緒に過ごした。


(とても、たくさんの思い出があるんだね。毎日、聞きにきても、どれひとつ同じ話がないや)


 思い出話の合間に「声の主」がぽつりという。


「そりゃそうよ、五百年を毎日いっしょに過ごしたんだもの」


(ドラゴンってすごいよね。命が数百年もあるからさ)


「あれ、あなたはドラゴンじゃなかったの?…」


 彼はいつもフパイラーンの言葉に耳を傾けるだけで、自分のことをまったく話そうともしないひとだった。


(ドラゴンじゃなかったんだ…)


 フパイラーンは微かなショックを受けている自分に気がついた。


(彼は何者なんだろう――)


 彼がドラゴンでないにしろ、ワイバーンやバジリスクである可能性もある――。そう思った。


 これはフパイラーンは自覚していないことではあるが――、ワイバーンもバジリスクもドラゴンの遠縁にあたり交配可能な種族である。


 フパイラーンは「声の主」に質問してみる。


「あなたはドラゴンじゃないの?南部火竜族の訛りがあるからドラゴンだとばかり思っていたけど、もしかしてワイバーンとか?」


(俺に興味があるのかい?)


 別に――。


 と言い掛けたが、他人に質問をするなど、コンロンと離れてから三百年ぶりのことなので、自分自身、この「声の主」に興味がないわけではないのだと、フパイラーンは思い直す。


「そりゃ、興味あるわよ」


 こんなにお喋りしてて心地よくて、時間が過ぎ去るのも早いような――、明日が待ち遠しくなる相手なんて、なかなかいないもの。


 という言葉をフパイラーンは飲み込んだ。


「私のことばかり話しさせて、ずるいわ」


(そんなに聞きたい?)


「聞きたいわよ」


(恥ずかしいけどさ、俺。コンロンとフパイラーンの関係にすごく憧れてるんだ)


「どうして」


(命というものを越えて、時間というものを越えて、愛がそこにあるから)


「どういう意味、それ…」


(コンロンは本当にまだ生きてると思うのかい)


「なにをいってるの」


 フパイラーンは背鰭が凍り付くのを感じた。


 それは現実に引き戻される瞬間だった。


(ごめん…俺はただ…)


「帰って。もう来ないで」


 フパイラーンは尾をゆっくり動かし「声の主」に別れの挨拶をした。


 何も言わず「声の主」は消えた。



 火竜の雌はパートナー選びに慎重であり、一生に一度しか卵を産めず、子供が産まれればそれまで数百年とあった寿命が嘘のように、あっというまに死んでしまう。


 この世界においてもっとも純粋で、尊いものとされている火竜の恋だが、それは同時に種の絶滅を意味した。


 配偶者の死や、子供の死という偶発的なマイナス要因に加え、出産経験のある雌が短命になるという運命も相まって、人間同士の争いが勃発する近年において鑑みると、種としての火竜の未来は絶望的といえるからだ。


 そこで追加された、神からの贈り物――。


 進化というべきか。


 フパイラーンの体内に新しく備わった機能があった。


 大陸のどこかでコンロンを亡くしたことを「火竜の本能」で感知したフパイラーンは、次の夫を得るために、本人の心とは無関係のところで特殊フェロモンを分泌するに至ったのだ。


 それは、あらゆる生物に影響を与え、フパイラーンのフェロモンにあてられた雄と雌はつがいとなる「竜哭谷」の現象からもみてとれる。


 しかしながら、行動生態学的な観点からいえば生物の種を残す進化を得たものの、フパイラーンは眠りに自らを閉じこめ一カ所に止まることで、次の夫となるはずの火竜との出会いを本能的に回避していた。


「私のほしい愛はひとつだけなのに。コンロンは死んでなんかない」


 心と身体の食い違い、精神と本能のねじれた葛藤がフパイラーンを無意識に蝕んでいたのも、また事実だった。


 亡き夫への貞操。


 幸福に満ちた過去。


 戻らない時間への惜別の念。


 すべてを誤魔化すように夢の中に逃げ込んでいたフパイラーンを、現実世界に引き戻したのが、あの「声の主」だった。


 最初は誰かに語ることでコンロンとの日々が戻ってきたような嬉しさがあった。


 そしていつしか彼との時間を楽しみ、その素性に興味をもってしまった。


 挙げ句には、彼がいない時間を寂しいとさえ思ってしまった。


 皮肉ではあるが「声の主」に心惹かれていく自分を意識した瞬間、コンロンとの日々をもう戻れない過去であると認識しはじめていた。


(どうしたらいいの、私――)


 自責の念からか、意識が現実世界へと戻ってしまったせいか、フパイラーンはその夜からコンロンの夢すら見なくなった。



 一日、二日、一週間が経過した。


 フパイラーンは心のどこかで「声の主」が話しかけてくるのを待ち続けた。


 最初は、彼が謝ってきたなら、少しもったいぶってから許そうと考えていた。しかし「声の主」が竜哭谷にやってくる気配はいっこうに感じられない。


 一日が、一週間が永遠のように感じられた。


 もしかしたら彼は怒っているのではないか、自分は嫌われてしまったのではないかと不安になった。


 三百年間、眠っていた時間の流れよりも長く重く、遅く感じられた。


 彼を待ち続ける時間が苦痛になる。


 フパイラーンは瞼を見開き、起きあがろうと決意した。


「彼に謝ろう。そして胸の内をさらけだそう」


 彼への気持ちが恋なのか、友情なのかははっきり分からなかった。


 だが、こんなにも他者を待ちこがれることなど本当に久し振りだった。


 亡き夫コンロンへの贖罪の意味も込めて、彼と再会しすべてを吐き出した後は氷の川へ身を投げて死のうと思った。



 久しぶりの外界。


 鈍い月明かりが雲に隠れ、油膜のように輝きを放っていた。


 身体が鉛のように重い。乳白色の川から這い出て、長い身体を引きずるようにして起きあがると、谷の岸壁と流麗な木々が自らの巨体によって、削られ、砕かれ、なぎ倒されるのが分かった。


 地響きのあとの静寂。


「三百年ぶりに、龍神さまが目を覚まされたわ」


 竜哭谷に引き寄せられた鳥や動物、昆虫たちが愛を語らうのをやめてフパイラーンに視線を集中させた。


「愛の流民たちよ、私を許して」


 それ以上は言葉を紡げない。


 フパイラーンがこの谷を去れば愛の魔法は消滅し、彼らの恋は行き先を失うからだ。


「愛する方がみつかったのですね」


 鳥たちが喜びの歌を奏でる。


「私の祖先もみな、この谷で結ばれました。今夜、龍神さまをお見送りするため夫ときました」


 動物たちの代表者か、雌の鹿が夫と口づけを交わし頬を染める。


「恋なんて、行方知らずが一番。私たちは龍神さまが誰かに恋してることに気づき、それを応援するためにここへ来たのです」


 木々に止まった蛍たちがチカチカと光を灯す。


「みんな…」


 フパイラーンは大粒の涙をこぼす。それは澄み切った湖の飛沫のように大地に染み渡り、そこかしこにひろがる植物の開花を促した。


「龍神さま、いってらっしゃい!そして結果がどうであれ、またここへ戻ってきて!」


 谷に集った生き物たちは種を越え、愛を分かち合った家族も同然だった。


 彼らに見送られフパイラーンは巨大な翼を広げた。柔らかく力強い風が大地を巻き上げる。


 月明かりに照らされた山頂に巨大な影が差した。


「待っててね」


 名も知らぬ「声の主」の香りを頼りに、宙を舞う火竜のフパイラーンは大きく羽ばたく。


「龍神さま美人だからいけるよ――!がんばれ――!」


 満月に吸い込まれるようにして影は、谷から遠ざかっていった。



 雲の隙間をすり抜け、フパイラーンは飛翔した。


 山脈をいくつも越えた。濃密な夜の香りが、夜空とともに眠りに就いた草原の上に長く大きな墨汁を落とす。


 火竜は翼を携えた巨大な蛇――、と称されるタイプのドラゴンである。


 フパイラーンが月明かりの下を泳ぐたび、鱗が光を反射しその頭部から尾にかけて流麗なあやがつくりだされる。


 いつしか彼女の周辺に、爬虫類型の身体をもったドラゴンの雄が数頭、群がった。


 体格の違うドラゴン同士でも交配が可能であり、愛を交わしあうのは不自然なことではない。


「ねぇ、きみどこからきたの?」


「よかったらボクとスイール湖の水面でダンスしない?」


「オレはそこいらのドラゴンよりも高く飛べるぜ」


「ふん」


 フパイラーンは炎を吐くようにして大きな深呼吸をひとつ、してみた。


 走行中のドラゴンたちは爆風に吹き飛ばされ、どこぞの草原へと落下してゆく。悲鳴とも嘆きともつかない叫び声をあげながら。


「私が会いたいのはただ、ひとりなの」


 火竜の雌としての嗅覚が告げる。


 愛しいひとはもうすぐ、そこにいる――、と。


 そのときだった。


「なにあれ」


 フパイラーンの大きな瞳のはじにゆらめく炎があった。


 草原を焼き尽くす、魔法攻撃由来の焔。


 遙か向こうには天を穿つような城が聳えている。おそらくはここ一帯の領主――、貴族の屋敷だろう。


 焔の向かう先はあの城にちがいない――。


 侵略か、暴徒か。


 戦のにおいがした。


 肉が焦げるにおいがした。


 断末魔の悲鳴――。


「まさか、魔族との戦いに巻き込まれているの?」


 嗅覚だけで、フパイラーンが会いたいと願う「声の主」は城を守るようにして佇んでいることが分かった。


「コンロンのときのように、戦争で彼を失いたくない――」


 フパイラーンは翼を大きく羽ばたかせ、急降下した。

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