初太刀
江戸時代初期。人が集まり物が集まり金が集まるこの江戸は、明るい一面の裏に暗い一面を併せ持っていた。夕暮れには酔っ払った男衆が博打を打ちに集まり、更に夜が深まれば人通りは減り物陰から夜鷹(売春婦)が客を探す。数え切れぬほどに人が集まる江戸では、こんな時間でも外を出歩く人影がままあった。
明かりを手に持ちふらふら歩く町人と、明かりも持たずに静かに歩を進める浪人の姿がそれだ。浪人は一度だけ振り返り他に人がいないのを確認すると、対面から向かってくる町人の方へ僅かに向きを変えて進み始めた。
「ひっく、呑み過ぎちまっただなぁ」
町人は陽気に独り言を呟きながら歩いていたが、気付いたときには左前方からくる人影とぶつかりそうになっていた。慌ててもたつく足で右に避けると文句を放つ。
「やいてめえ、前見て歩きやがれってんだ全く」
振り返ろうともしない男に、続く悪態を投げかけようとしたところでようやく、自分の声がでていないことに気が付いた。
あ……?
町人の首から鮮血が噴き出し、江戸の大通りを紅く濡らした。
浪人が、ぽつりと呟く。
「九百九十九。あと……一人」
この男、名を「下呂 以下」という無法人である。元は薩摩藩士であり藩の命を受けて邪魔者を消していたが、ある頃から体調が悪化。心の臓に重篤な病を抱えていることが判明すると、千人斬りを達すればどんな難病でも治るとの伝説を信じ込み、夜な夜な辻斬りを繰り返した。
一月も経つ頃にはもはや手に負えぬと藩から追われる身となったが、ことごとくを返り討ち。これ以上の被害を見過ごせなくなった藩の上役は頼むから余所でやってくれと泣きついたという。一応これまでの恩もあったからと手切れ金を片手に藩を出て、それからはひとところに留まることなく斬っては場所を移す日々を送った。
下呂が江戸に来てから早半年が経つ。この江戸では辻斬りが恐ろしく容易に行えた。人が多く明かりが少なく、遠方の地から身寄りもない者たちが集まっていたからだ。毎日何人もの旅人、放浪者やらの斬死体・水死体が発見されるこの江戸こそ、下呂の求めていた地であった。
定職に付かずとも蓄えは幾らかある。人目を誤魔化すためにたまの日雇い仕事をするくらいで、あくまで目的は千人斬りにあった。それがようやく実を結ぶ。
脇道に入り、寂れた通りに出たところで夜鷹に声を掛けられた。
「お兄さん遊んで行かないかい?」
強引に袖を引っ張る女に、手が刀へ伸びそうになったがグッと堪えた。
「今宵は特別な夜なのだ。お前さんが相手では似つかわしくない」
「ふんっ、気取っちゃってなにさ。勝手にしなよ」
女は失礼な物言いに頭に来たようで、プイッときびすを返して闇に溶けていった。
夜は長い。
下呂は、互いに相応しい獲物がきっと来るさと呟いた。
先ほどと別の通りを歩き始めると、嗅ぎ慣れた匂いが鼻をつく。
「……血」
百歩も歩かぬ内に、血だまりとその中心に倒れる男の姿があった。左肩から斜めに一太刀、ヘソまで一息に裂かれてこと切れていた。江戸に来てから何度も見たやり口だ。
「人斬り新右衛門、おめえが俺の獲物だ」
そのまま血の匂いを追って通りを進むうち、大柄な武士の後姿が目に入った。江戸で最も嫌われ者の武士である。御家が旗本だかなんだで、辻斬りをしているとバレているのに捕まらないというふてぇ野郎だ。
相手もこちらの気配に気付いたようで振り返ったが、別段驚いた様子はない。辻斬り同士が出会うことは月に一度くらいはあることだ。それでも大抵のやつはそそくさと逃げ出すが、こいつは腕に自信があるって訳だ。
互いに距離を詰める。新右衛門が刀を抜いた。得意は大上段からの斬り下ろし、下呂の得意は居合いである。
十歩、八歩、五歩、距離が縮まりもう一歩踏み出せば互いに必殺の間合いとなる。先に動くは新右衛門であった。大上段の構え特有の威圧とともに刀を一気に斬り下げる。
対する下呂は右足を一歩先へ出しつつ膝を深く曲げ、左膝は地面と接するほどの低姿勢。
そこから目にも留まらぬ速さで刀を抜くや、新右衛門の両肘を下から一閃斬り上げ、返す刀で喉元を斬り裂いた。
目を丸くして肘から先の無い腕でノドを押さえようとした新右衛門だが、肘もノドも血が溢れ、もはや止まることはない。
「そなたの心の臓を貰い受けよう」
下呂は苦しむ新右衛門の心臓に刀を一突き。
これで千人斬りが成ったと思うや否や、地面に輝く円が現れ、次第に下呂の身体まで光り始める。
「こ、これが伝説の?! 俺の病は消え去るのか!!」
数年来見せることの無かった笑顔が見えた。人の世の理を無視した輝きに、伝説は真であったと確信したのである。
「んんっ、胸の違和感がまるで消えておる。それはよいのだが、ここは一体……?」
カッと最後に輝いて思わずつぶった目を開けてみれば、そこは明らかに先ほどまで居た江戸の町並みではなかったのである。