#44 大将の馬鹿
金曜日、学校が終わり家に着くと、珍しく親父が庭でのんびりお茶を飲んでいた。
門を通った俺は、親父と会話をしないよう、一切そっちを見ずに歩いていたのだが、案の定親父に捕まってしまった。
「大将」
名前を呼ばれたら最後、俺はもう一歩も前に進むことは出来ない。
「なんです?」
意を決して親父のほうを向くと、いつものように余裕の笑みで俺を見ていた。
憎たらしい。
「どうだ、これ以上未来という女の近くに居るのは辛くないか?」
親父の放ったその言葉。
たった一言なのに、俺が挫けてしまうには十分だった。
「……」
「お前がここにいる以上、未来という女が苦しむとは思わないのか?」
決定的な一言だった。
「な、んで…そんなこと言うんだよ!」
一度くじけた心は、立て直すのが難しい。それは、昔に一度経験していたからよく分かっていたことだった。
「お前のためだ」
そう言って、親父はお茶へと口を運ぶ。
その行動が、どうしても許せなかった。俺がこんなに苦しんでいるのに、あの男はなんでそんなにも余裕でいられるのかと。
しかし、親父に言われたことは的確であった。
そのことが余計に俺の心の音を狂わせる。ここに居たいという気持ちが揺らぐ。
「アメリカに行けってことか」
ハッと笑ってそういうと、親父はそうだと呟いた。
考えていたことだ。このまま、ここに居たところで俺のアメリカ行きは防ぐことは出来ないだろう。
しかも、現状では未来を苦しませるだけだった。
「もう準備は済ませてある」
その親父の言葉に俺は反応する。
「え?」
「部屋に行っても、ベッドしかないぞ? 明日、出発するからな」
何をいきなり。
心でその言葉は言い飽きた。
親父のすることは、何でも唐突なのだ。家族に何も言わず引越しを始めたり、家庭教師を雇ったり、部屋の模様替えをしたり。
だけど、今回の唐突振りには俺の心は付いていけなかった。
「明日…?」
明日は果歩がくれたチャンスの日だったから。
「そうだ。キヨ爺も一緒だから安心しろ」
ここで反抗できれば、俺の人生が少しは変わっていたのかもしれない。
―――――縄。
俺の縛る縄は、どこまで行っても解けることはなかった。
「何時…?」
聞き返した言葉は、行くことを示すものだった。
「15時出発だ」
それは日本に居られる期限。
今の時間は17時。あと24時間さえ、日本に居ることを許されない。
「全て手続きをしているから安心しろ。俺は仕事だから送ってやることは出来ないけどな」
「…はい」
未来。
残り24時間もないと聞いて、俺の頭に浮かんできたのはその名前を顔だった。
「失礼します」
俺はそう言って、家の中へと入っていく。玄関で俺を待っていたのか、キヨ爺が立っていた。
「承諾、されたようですね」
「あぁ」
キヨ爺は全て分かっている。俺なんかより、俺のことをよく知っている。
「明日、14時には家を出ます、よろしいですか?」
「…あぁ」
俺はそういうと、キヨ爺の横を通り抜け部屋へと足を進ませた。
親友の龍之介には伝えたほうがいいだろう。
世話になった恭平さんにも。
…未来には、伝えられない。伝えることは許されない。
部屋に荷物を置くと、俺はキヨ爺に声をかけて車で龍之介宅へと乗せてもらった。
インターフォンを鳴らすと、俺の知っている声が聞こえてくる。
「あ、恭平さん? ちょっと今いいですか?」
「あ、大将様ですか。今、門を開けますのでお待ちください」
その言葉の通り、門が自動的に開く。
「どうぞ」
俺の知らない執事の人が、案内してくれるようだ。
玄関では恭平さんが俺を待っていてくれた。
「恭平さん、ちょっと龍之介と三人で話したいんですけど」
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。仕事中であろう恭平さんを連れ出すことになるのだから。
「分かりました。少々お待ちください」
そう言って、恭平さんは胸元にあるマイクで何か話している。多分、許可をとっているのだろう。
「では、こちらへどうぞ」
話し終えると、恭平さんは龍之介の部屋へと俺を案内する。ドアの前まで行くと、恭平さんは二回ノックをした。
「龍之介様、大将様がいらっしゃいました」
「入って」
俺達はドアを開け、部屋の中へと入っていく。そこに居たのは、いつもどおり無表情で本を読んでいる龍之介だった。
龍之介と居られるのも、もうこの時間だけだろう。
「で、どうしたんや?」
やっぱり恭平さんは、ドアが閉じると素に戻る。
「龍之介、恭平さん、えっと…その…」
ここまで、一つのものに定着したことの無かった俺は自分の気持ちに戸惑った。
親友になった龍之介との別れ。
お世話になった、お兄さん的存在の恭平さんとの別れ。
今までにあまり体験したことの無い現実。
それに戸惑っていた。
「だい…すけ?」
異変に気付いたのか、龍之介はパタンと本を閉める。
「ごめん、ごめん…俺、もうここに居れない。アメリカに行くことになった」
その言葉に驚きを隠せていなかったのは恭平さんだけではなかった。あの表情を変えない龍之介でさえ、驚いていた。
「い…つ?」
恭平さんの問いに俺は答える。
「明日、14時にはもうこの町に居ない」
「なんの、冗談やねん。大将は逃げるんか!?」
「にげ…るわけじゃないです」
逃げているのかもしれない。
「未来ちゃんは? このこと知っているんか?」
「知らないと思います」
親父が手を回していなかったら。
「って、ちょっと待て。明日は果歩から貰ったチャンスの日やろ? せっかくのチャンスを棒に振っていいんか?」
「……」
その問いだけには答えられなかった。
未来ともう顔を合わすことは無い。
親父が決めたあの言葉。そのとき既に俺は、心に決めていた。
「未来ちゃん、お前のこと待ってるかもしれへんで?」
それは無い。…無い。
「なぁ、大将。お前は逃げてるんや、この現状から逃げてるんや! 時間が全て解決してくれると思っとんなよ! 甘ったれてんなや! おい、大将きいとんのか!」
「恭平!!!」
恭平を遮ったその言葉は、龍之介のものだった。
「恭平、もういい」
「だけどな!」
「いいんだ」
龍之介の鋭い目が、恭平さんに突き刺さる。
「大将、それでいいの?」
「…あぁ。俺がここに居ても、未来を悲しませるだけだから」
「本当に決めたんだね?」
いつもと口調の違う龍之介。そういうとき、龍之介は怒っているのだ。
これは最近気付いたこと。
「もう、決めたことなんだ」
「大将の馬鹿」
龍之介のその言葉を聞いた直後、俺の左の頬には大きな衝撃が来た。
「それで許す」
龍之介の悲しそうな声、俺に手をあげたのは初めてだった。
「龍之介、ごめんな…」
分かっている。これぐらいのことはされて当たり前だった。
「何時の飛行機?」
「15時」
「見送る」
それだけ言うと、龍之介は本に目を通した。
「なぁ、大将…いや、なんでもない。俺も向かいに行くから待っとけや」
「ありがとう…」
夜になると、キヨ爺が俺を迎えにきてくれて家へと帰る。
日本、最後の夜をその日涙を流しながら過ごした。
次の日の土曜日。
俺はキヨ爺と一緒に空港へと向かう。
日本にありがとうと、心の中で呟いて。
未来にごめんねと、言葉に出して。
残り二話となりました。
最後までお付き合いのほどお願いします。