#35 なぁ、キヨ爺
「キヨ爺、お願いがあるんだけど…」
俺が唯一頼ることが出来る、キヨ爺に俺はしぶしぶ言葉を放った。俺の真剣な面持ちに気がついたのか、キヨ爺は優しく接してくれる。
「どうしました?」
ニッコリと笑うキヨ爺を見ると、本当に俺の居場所だ、と実感してしまう。
「部屋…」
俺はボソッと呟くと、その次の言葉を放った。
「部屋をひとつ、借りてくれないか?」
「へ、部屋って…マンションの部屋ですか?」
キヨ爺の問いに、俺は頷く。少し悩む様子を見せるキヨ爺は、ふぅと息を吐き分かりました、と答えてくれた。
「ありがとう!」
俺はその言葉がとても嬉しくて、キヨ爺に抱きついた。
俺が部屋を借りたいと思ったのは、未来が放ったあの一言のせいなのだ。
「悠、今度悠の家に行きたいなぁ」
あの楽しかったキャンプが終わった数日後、未来の家で俺がゆったりしながら、ソファーに腰掛けているときだった。
「…は?」
思ってもいなかったその言葉に、俺は思わず言葉を漏らす。
「だって、悠のことあまり私知らないよね? 悠は私の家に来てゆっくりしているけど、私だって悠の家で笑ったりしたいなぁ…なんて」
あはは、と笑いながら未来は話しているが、俺は正直笑える状況ではなかった。
「で、でも! 無理ならいいんだよ? その…私に言えないこともあるもんね」
笑っていた声が、どんどんと小さくなっていく。そんな未来を見て、俺の家に来ることを拒むことが出来るわけない。このときは、何も案が浮かんでいないのに、肯定の意を示してしまった。
「え、本当!? やった!」
「あ、ああ…」
そして、その日はここで帰宅という形になった。
まぁ、今となって考えてみれば、完全に俺の失態だった。もちろん、今俺が住んでいる家を見せるわけにはいかない。そんなことをしたら、全てがバレるから。
かといって、今更未来に断りの電話を入れる勇気も俺には無い。
結局、何も出来ない俺が頼ったのは、キヨ爺だった。
「ところで、お坊ちゃま」
抱きついていた俺に、キヨ爺は話しかける。そっと離れて、キヨ爺の顔を覗くと俺は何? と答えた。
「お部屋の大きさはどうしましょうか?」
「ん〜、2LDKより小さいのがいいな」
未来の部屋が2LDK。それよりも小さく言ったのは、未来より部屋が大きかったら、俺の親について色々聞かれると思ったからだ。
「かしこまりました」
そう言ってニッコリ笑うと、キヨ爺は何処かへ行こうとする。そんなキヨ爺を俺は呼び止めた。
「どうなされました?」
「親父には…」
そこまで言うと、キヨ爺はニッコリ笑い、かしこまりましたと答えてくれた。
「あ、あと!」
何度もキヨ爺を呼び止める俺。
「北区内にしてくれないか?」
俺のその言葉にニッコリ微笑んで、キヨ爺は何処かへと行ってしまった。
北区を選んだのもちゃんと理由がある。初めて未来に会ったとき、未来は西区と言い、俺は北区と言った。そこに矛盾をしてしまえば、何かと聞かれるかも知れない。とりあえず、俺の家柄について質問をされることは極力避けたいのだ。なんと答えるか、何を答えればいいのか俺にはさっぱり検討がつかないから。
次の日、キヨ爺の思い切った行動は俺を驚かせた。
「お坊ちゃま、起きてください」
夏休み、キヨ爺に起こされることは、あまり無いのだが、今日はどうやら違うようだ。
「ん…どうした?」
「出かけますので、準備をよろしくおねがいします」
キヨ爺のその言葉に、何かいつもと違う物を感じた。すっと体を起き上がらせると、俺は服を着替える。
「よし、どうした?」
俺がキヨ爺に質問をすると、辺りを一度見てからキヨ爺は俺の耳元で「引越しの準備が出来ました」と言ったのだ。
まさか、昨日の今日でそれを行動に移すと思っていなかった俺は、驚いてしまった。恭平さんも、キヨ爺も、どうして執事というものは、全てにおいて行動が早いのだろうか。
「行きましょう」
俺が黙ってキヨ爺を見ていると、キヨ爺はニッコリ笑ってそう言った。俺は軽く頷く。キヨ爺が運転する車に乗ると、目的地へと向かった。
「で、どんな所?」
聞くところによると、2DKらしい。まぁ、それぐらいが妥当かな。さすがはキヨ爺。俺の思い通りに全てを運んでくれる。
キヨ爺と他愛もない話をしていると、目的地に着いた。
「いい所じゃん」
マンション7階建ての6階にある俺の部屋は、周りに高い建物が無いため眺めがとてもよかった。
「ありがとう、キヨ爺」
そして、驚くことにその部屋には冷蔵庫からテレビまで、一人が普通に生活できるほどの生活用品が並べられていた。
冷蔵庫を開けてみた。まぁ、うん。ここまで想像はしていなかった。そこには、いかにもここに住んでいますよ、と言わんばかりの食材が置いてあった。
「すげぇ、キヨ爺」
思わずキヨ爺の名前を呼んだ。キヨ爺は謙虚にいえいえと返事をしたが、並大抵の人間にはここまで再現できない。長年生きてきたキヨ爺だからこそ出来る業だ。
「本当に、ありがとう!」
「いえ、お坊ちゃまのためならなんなりと」
これなら、未来を呼んでも大丈夫だ。キヨ爺のことだから、もっと細かい部分まで偽装してくれているのだろう。
ここまでは、俺の心は喜びに満ちていた。この後、あんな出来事が起こるとは思わなかったから。
俺はキヨ爺にお礼を何度も言いながら、マンションを出た。
車の中、ふと思い出す。確か、ノートがもう無かったと。俺はキヨ爺にお願いをして、駅前のデパートへと向かった。キヨ爺は、私が買ってきますと言ったが、全てをキヨ爺に任せるわけにはいかない、と俺は言い放った。
そして、俺は後悔する。
自分のこの行動の過ちを。
何故、気付けなかった。
今日は土曜日。
夏休みのせいで曜日感覚が狂っていたせいか、俺は気付けなかった。
土曜日の駅前のデパートには、ほぼ毎週未来が来るってことを忘れていたのだ。
「キヨ爺、これ…」
そして俺がノートを選び、振り返ったときだった。
キヨ爺の「はい」という声。その後ろには、俺が今は見てはいけない人物の姿。
俺の愛しい未来の姿があった。
「悠?」
驚きの表情を隠しきれない未来の表情を俺の瞳は捉えた。
「未来…じゃん」
俺はニッコリと固くなりながらも笑うことが出来た。
「なんで、ここに…?」
未来のその問いに、俺はすぐ答えることは出来なかった。
少しの沈黙の後俺はゆっくりと口を開く。
「えっと…ノートが欲しくて」
嘘を言える場合じゃなかった。別に、ノートを書くことについて嘘をつく必要はない。
「この人は…?」
やばい。
この質問は、今の俺に強烈な焦りをもたらした。キヨ爺は多分、未来のことを書類上でしか知らない。なんと言い訳すればいいのだ。
俺の回転はフル回転しながらも、今の状況に追いついてはいなかった。そんな時、キヨ爺は口を開く。
「私は…」
キヨ爺、早とちりしないでくれ!
「悠の祖父です。貴方が、未来さんですか。よく悠からお話を聞かしてもらっているんですよ。とってもいい方だって、私に自慢してくるほどに」
あはは、と笑いながらキヨ爺は俺のほうを向き、なぁ悠? と言ってきた。
「あぁ」
何かを考えるよりも先に、キヨ爺の言葉に合わせるかのように口が動いた。
「そうなんですか! お恥ずかしい限りです。私、諸戸未来と申します。悠のお爺さんでしたか。いつも悠さんにお世話になっております」
未来は丁寧に頭を下げた。
しかし、俺の頭は今の状況にさっきよりも追いついていない。何がなんだか分からなくなっていた。
なぁ、キヨ爺。
何で悠の名前を知っている? 何で誤魔化した。
俺と未来の関係…俺が嘘をついていることを親父は…知っているのか?
もはや、頭の中はパンク寸前だった。