#26 最悪だ、俺
あれから、何事もなく俺は家に帰った。当初、期待していた“あれ”もすることなく。
自分の部屋に入ると、俺は今日使ったカメラのフォルダを覗いた。未来がエプロン姿でこっちを見ている写真、二人で肩を寄せ合って撮った写真、そして…
俺はその一番最初にとった写真の内容をノートに書き写すと、証拠を消すかのように、消去ボタンに手をかけた。
「未来…」
無性に悲しくなり、愛しの未来の名前を呼ぶ。俺は、彼女を裏切ったんだという、自覚がとてつもなく沸いてきたからだ。
「お坊ちゃま…」
どれぐらい自分の世界に入っていたのだろうか、いつの間にか俺の隣にはキヨ爺が立っていた。
「夜のお食事は?」
「…キヨ爺」
俺はキヨ爺の質問には答えず、キヨ爺の名前を呼んだ。
「何でございましょうか?」
「俺さ…キヨ爺に感謝しているよ」
「それは、ありがとうございます」
キヨ爺はいつもの笑顔を見せ、俺にそう言った。
「だからさ…」
だから、親父を説得してくれといいそうになった。そんなことをしてしまっては、キヨ爺の首が飛ぶのは目に見えている。
「なんでもない。ご飯は、今日はいらないや。ごめんね、キヨ爺」
俺は悪そうに手を顔の前であわせ、キヨ爺に謝った。その行動のおかげか、キヨ爺はいつものまぶしい笑顔で「かしこまりました」と言い、部屋から出て行った。
「最悪だ、俺」
ベッドにうずくまると、自然に涙がこぼれてきた。
「未来ぅ…」
今一番会いたい人の名前を俺は涙を堪えるかのように、布団にしがみついて呼んだ。
そのとき、携帯がピリリと鳴る。
―――明日、家
それだけが書かれたメールが届いた。もう分かると思うが、龍之介からだった。多分、このメールを見て思い当たる節は、一緒に勉強をしようと約束したことぐらいだ。ということは、明日龍之介の家で、勉強をしようというメール内容と取れる。
「ありがと」
俺は口に出しながらメールを打ち終えると、送信ボタンを軽く押した。
そうだ、割り切ろう。
俺はベッドの上で仰向けになり、そう心に呟いた。
仕方なかったことじゃないか。未来が好きだからしたことじゃないか。今更後悔しても、どうなるってわけでもないじゃないか。
そうだ…そうだ…。
俺はそのまま目を瞑ると、頬を流れる涙を無視してそのまま眠りに付いた。
「よっ、大将!」
学校も終わって、龍之介の家に着き、部屋へ案内してもらうとそこには私服の恭平さんが座っていた。
「どうしたんですか?」
「いや、お前等が勉強するっちゅうから、俺が教えたろう思ってな」
ニヤニヤしながら、そう言う恭平さんは言いにくいが、頼りにならなさそうだった。しかし、やっぱり執事という肩書きは嘘ではなくて…。
「まぁ、大将は基礎がちゃんと出来てるから教えることねぇけど、言うなら気をつける場所が少し違う気がするな」
みっちり恭平さんに教えてもらって、早3時間がたった。大学とかは行ってないらしいけど、俺よりもはるかに頭がいい。あの龍之介だって、もしかしたら恭平さんに教えてもらったのかもしれない。
そう思って、龍之介のほうを見ると、いつもどおり英語の本を読んでいた。
「大将は、この問題一番気をつけるところはどこやと思う?」
科学の問題集を開けながら、恭平さんは俺に聞いてきた。
「やっぱり、この原子記号?」
俺が指差した先には、英語ばかりの原子記号があった。
「だと思うだろ? だけど、ここで一番気をつけることは、ここなんだ」
そう言って、恭平さんが指差した場所は教科書でもなく、ノートでもなく、俺の心に向かっていた。
「へ?」
意味が分からない俺は、どこから出たのか分からない声を発していた。
「だから、心やっちゅうの! どの教科でも一緒やけどな、間違えへん! っちゅう心が大事なんや」
ニシシと笑いながら、恭平さんは俺の頭を撫でた。
「未来ちゃんに罪悪感が沸いてるんやろ?」
俺の顔を覗き込むように、少し恭平さんは顔を下げた。俺はその恭平さんの顔を見ることは出来なくて、目をそらしてしまう。
「そ、そんなこと…」
無いわけが無い。
こんなに好きになった人を、騙しているんだ。罪悪感が沸かないわけが無い。
「…大将」
恭平さんは、俺の頭に乗せていた手を肩に乗せ、じっくり俺を見てきた。
「その嘘、いつかは…」
いつかは、言わなくちゃいけない。
その後の言葉は、俺の頭の中でずっとリフレインしていた言葉だった。
「考えたくないのは分かる。やけど、お前が決めた道なんやから、迷ったらあかんで。俺は正直、大将の今の気持ちがいまいち把握できやへん。今までそんな事した経験もあらへんしな」
俺は目の前にあるノートをくしゃくしゃにしたい衝動に駆られてしまった。恭平さんに言われたことがムカついたわけではない。ただ、自分の不甲斐なさに、泣きたくなったからだ。
「今日はここらへんにしよか! また、来るやろ?」
にこやかに笑う恭平さんの顔を見て、俺は一回縦にうなずいた。そして、龍之介の家を後にした。
家に帰ると、いつものようにベッドへと直行した。そして、考えることはいつものように未来の事。
「言うか…そのまま去るか…」
確実に、後者のほうがいいのだろう。だけど、俺は! 俺は…
「未来と離れ離れになるなんて、考えられねぇよ…」
そう言った俺の声はもはや、誰も聞き取れないぐらいの涙声だった。今キヨ爺が入ってきたら、何も言い訳が出来ない。あの笑顔で「どうされました?」なんて聞かれたら、今の俺の心はキヨ爺に頼ってしまう。
…キヨ爺には、迷惑はかけたくない。
「未来…未来っ」
俺の意識は、昨日同様そのまま意識が無くなった。
「お坊ちゃま、携帯が鳴っております」
ベッドの上で寝ていた俺の体を揺するのは、いつものようにキヨ爺だった。
「あ、ごめ…」
俺は寝ぼけたまま携帯に手を伸ばし、通話ボタンを押した。
「ん?」
俺は目を擦りながら電話を耳に当てると、だんだんと意識がはっきりとしてきた。
『悠ぅ?』
電話の向こうからは、未来の声が。
「え、あ…やっほ」
そう答えるしか出来ない。だって、俺の隣にはキヨ爺が居るのだから。
『どうしたの?』
「いあ、その…」
俺はそういいながらキヨ爺をチラッと見た。多分、もうバレていると思う。電話の相手が俺の彼女であるということを。
俺が思うに、キヨ爺はもう親父から俺に彼女がいること、それが学校の先生であるということを聞いているのだと思う。キヨ爺は俺の世話係だからな。
「下でお待ちしております」
そういうと、キヨ爺は俺に背を向け部屋から出て行った。
「ちょっと知り合いが来ていてさ」
『そうなの。今、大丈夫?』
電話越しでも分かる、彼女の心配している声は、余計に俺の心を罪悪感で満たして言った。
「大丈夫だよ。何かあった?」
俺がそういうと、未来はなんとなく声が聞きたくてと、可愛い声で言ってきた。あまり聞きなれないその声は、俺の心を震わせるのには十分だった。
「仕事、大変だろ? あんまり無理するなよ?」
未来の生徒である俺が言うのもなんだが。
「うん。いい子ばかりで、私が助けられているぐらいなんだよ? そういえばこの前ね…」
「ん?」
「“大将君”って言う子がいるんだけどね」
未来のその言葉で、俺の背中には冷や汗が流れた。今まで大将の俺に“悠”の話はしていたが、悠の俺に“大将”の話をしたことがなかった。
「う、うん」
俺はつまりながら、相槌を打つ。
「悠みたいな子なんだよ? どっか素っ気無いんだけど、本当はとっても優しい子なのよ! この前なんて、私が持てなさそうなダンボールも、教室に運ぶのを手伝ってくれたの」
いい子でしょぉ〜! という未来に、俺は焦りを感じていた。出来るだけ目立たないように学校生活を過ごそうと決めていた俺に、いい方向で先生に目立っているようだ。
「お、俺に似てるって? そ、そんなイケメンいるのかよぉ!」
俺は笑ってそういうと、未来は容姿については完全否定をしてくれた。
「その子、好きになるなよ?」
「ならないわよ! 間違っても教師と生徒はそういう感情を持ちません!」
「そ…っか」
未来にそう言われた俺は、悲しくなった。俺は生徒だけど、未来が大好きだというのに。
「俺は…」
「何ぃ?」
「未来が俺の先生だったら、好きになっているよ」
「ちょ、ちょっと! 変なこと言わないでよ!」
その後、どうしても俺には聞きたいことがあった。この衝動を抑えられない俺は、未来の言葉に間を空けず言葉を発する。
「俺が、生徒だったら…好きになっている?」
俺達の間に、沈黙が少し流れた。