ねこやまさんはちゅーをしない
【1.抗不安剤】
つまり一番の問題は、この薬があまりにも小さくて、あまりにも軽いということなのです。なにしろ、子供のてんとう虫ほどの大きさしかないのです。そんなちっぽけな薬が私を生かしてるだなんて、考えただけでゾッとしてしまいます。
「せめてこの薬があとふたまわりほど大きければいいのに」
なんてことを、薬を飲むたびに思います。
薬を飲もうとくしゃみをしたら、手のひらにのせた薬が飛んでいってしまったこともあります。
つまり、このてんとう虫の薬こそが、今の私の命の大きさであり、重さであるということもできます。私の命はとても小さくて、とても軽いのです。
【2.ねこやまさんは遅れて現れる】
今日は朝からねこやまさんとデートです。ねこやまさんは猫目で猫背なキュートな女の子です。ねこやまさんとのデートは10回目になりますが、まだキスすらしたことがありません。私がそういうことをしようとすると、ねこやまさんは、ひらり、ひらり、ニャー、といった具合にかわしてくるのです。でも今日こそは、夏の終わりの思い出に、必ずちゅーしたいなあと思います。
電車で待ち合わせ場所に向かっていると、携帯電話にねこやまさんからメッセージが届きます。
『おはよう。家を出るのが遅れたので、待ち合わせ場所に着くのも遅れるっす。あんたが最寄り駅まで来てくれたらすぐ会えるけど、どうしたいっすか?』
ねこやまさんはデートにはだいたい遅れてきます。だからこれはまあ、想定通りであるともいえました。遅れてごめんなさい……の一言もないところが、ねこやまさんらしくてきゅんとします。
『了解。ねこやまさんの最寄り駅まで移動します』
『改札出たら、さびれてる方の出口から出て。ロータリーのへんに車つけて待ってるっす』
ねこやまさんの最寄り駅に着くと、改札を通り抜け、左右の出口を見くらべます。左側の方の町並みの方が、少しだけさびれているように思えました。
左側の出口を抜けたところで、白い軽自動車にクラクションを鳴らされます。自動車の中には、眠そうな顔をしたねこやまさん。今日も茶髪の猫っ毛が、まるで日本猫みたいです。
「おはようございます。今日も遅刻ですね」
車にのりこみ、シートベルトをつけます。車の中は、かすかにたばこの香りがします。ねこやまさんは猫背をのばしながら、あくびをします。
「あーそうっすねー」
「遅刻しないって約束したのに。うそつきですね」
「そうっす。あたしはうそつきっす。それより朝ごはん何食べるっすか?」
「なんでもいいです。そんなことより、きちんと埋め合わせはしてもらいますからね」
「はあ。埋め合わせ」
「今日こそは、ちゅーしてもらいますからね。それも魔法のように熱烈なやつを」
「あっははは。それはどうっすかね」
「どうっすかね、じゃなくて、するんです」
「それは、あんた次第っすね。そうなるように、うまーくもっていくんすよ。うまーく。今日はあたしにかわされないようにがんばるっす。さ、じゃあ朝マックでも行くっすかね。それからTSUTAYAにいって車の中でかける音楽借りるっす」
「はい。楽しみです」
「今日は朝から晩まで一緒にいれるっすね。さ、楽しむっすよ!」
ねこやまさんがアクセルを踏み込むと、ようやく朝がはじまります。
ねこやまさんとドライブするのは初めてでした。フロントガラスから一緒に眺める風景がなんだか照れくさくて、そのたびに意味もなく「ねえ、ねこやまさん」と声をかけました。
【3.朝マック】
朝マックを食べ終えると、ねこやまさんは「トイレいってくるっすー!れっつぱーりーたいむ!」と席を立ちました。
ねこやまさんの帰りを待っていると、私の席の横に、黒いスーツを着た男がどっかりと座り込みます。私は彼のことを良く知っていました。
「よ。楽しそうだね」
40代半ばの、中肉中背の男。
不愉快な種類の笑いジワが、深く顔に刻み込まれています。いかにも数々の修羅場を潜り抜けてきたサラリーマン、といった雰囲気を醸し出しています。
「ええ。楽しんでいます。ねこやまさんと過ごす時間は、いつも、とても楽しいのです」
「へえ。そいつは良かった」
「だから、今日のところは消えてくれませんかね。あなたがいると、気が滅入る」
「まあ、そうして欲しいならしてやるけど。一言、どうしても伝えておきたいことがあってな」
「なんですか」
「そうして誰かと楽しい時間を過ごしたところで―――」
そこで男はため息をつき、わざとらしく首を横にふり、言葉を続けます。
「お前には何も積み重ならない。何も積み重ならないし、何も残らない」
「へえ。どういう意味か分かりませんが、とても不愉快です」
「お前が何をどうあがこうと、結局のところ行く場所はひとつってことさ。先延ばしにしているだけでね」
「意味が分かりませんが、そろそろねこやまさんが帰ってくるので、どこかに行ってください」
「はいはい。本当にお前は本当に自分勝手だよなあ。まあそうやって、他人の好意を都合よく、痛み止めのように消費してればいいさ」
痛み止め、と言う言葉に、胸がチクリと痛みます。
確かに私は、自分の苦しみを紛らわせるために、彼女を利用しているのかもしれないと思ったからです。
「出た出た。そーやって暗い顔してりゃ、なんでも許されると思ってんのかね。ほんとお前はね。いつか必ず地獄に落ちるよ」
男はそう言い残すと席を立ち、背中を向けてマックから出ていきました。
しばらくして、ねこやまさんが席に戻ってきました。にゃーっとした笑顔を携えて。
「おまたせっす。じゃあ、TSUTAYAにいくっすよ!」
私は反射的に笑顔でそれに応えます。
でもそれと同時に「いつか必ず地獄に落ちるよ」という言葉が、耳の奥で繰り返されます。地獄に落ちる。男のことは気に入りませんが、そう遠くないうちに、きっとそうなることになるのだろうと自分でも思います。
【4.アイスクリーム】
「おいしいです」
「でしょ?このお店にあんたを連れてきたかったの。涼しくなる前につれてこれてよかったっす」
山の上にある、小さなアイスクリーム屋さん。アイスクリームはすべて手作りで、お店の裏側には自家製のブルーベリー農園までありました。
「ここはあたしが高校生のころによく来てたっす。で、あそこの椅子にすわってたっす」
ねこやまさんは、木でできた長い椅子を指さします。私はそこに、高校生のねこやまさんが座っているところを想像しようとします。
「ねこやまさんは、どんな高校生だったのですか?」
高校生のねこやまさんがうまく想像できなかったので、ねこやまさんに聞いてみます。
「うーん…なんだろう。ギャルだったっすよ」
「ギャル。私とは縁遠い存在です」
「といっても、まわりがやってるから、自分もやってただけだったっすけど。別にそんなにギャルの格好が好きだったわけでもなかったっす」
「なるほど。消極的ギャル。そういうギャルって、たくさんいたんですか?」
「あー。たぶん、たくさんいたっすよ」
「そうでしたか。ギャルって自由の象徴みたいなイメージでしたけど、いろいろと面倒なんですね」
「そ。女の世界は面倒なんすよ。ちょっと目立つと、ちょっと違うことすると、それだけでチョーシノッテルって言われちゃう」
「村社会なんですね」
「そう。小さくて壮大な村社会。誰かの作ったヒエラルキーを乱させないための、徹底した監視社会。あの頃、あたしの瞳から光が消えたっす。すーっと。はっはっは」
【5.水をたくわえておく】
「さて、どっかあたしと行きたいところあるっすか?」
ねこやまさんにそう聞かれ、私は返答に窮してしまいました。なにしろ、ちゅーしたいということ以外に、特に何も考えていなかったです。
「しょうがないっすね。じゃあ、近場にダムがあるっすから、そこに行くっすかね」
「ダム?」
「ダムっす。知らないっすか?水をたくわえておく場所っすよ。たぶん。あーっと、車停める場所あったっすかね?まあいいか。とりあえず行くっす。行ってから考えるっす」
自動車は坂道をのぼり、ダムへと向かいます。
急な坂道を上るときは、パワーが足りなくなるのでクーラーを落として走りました。
「この車もね。もうギリギリなんっすよ」
ねこやまさんはまっすぐの道を走るときには、たびたびハンドルから手を離して、アクセルだけ踏んで運転します。なんて危険な運転の仕方をするんだろう。そう思って顔をのぞきこむと、視線に気づいたねこやまさんは、にゃーっとした笑顔を返します。
まもなくすると自動車はダムにつき、近場の神社の参拝者用の駐車場にとまります。私とねこやまさんは神社に参拝し、その足でダムへと向かいました。
ダムはうっそうとした草むらの中にありました。ダムはあまり人工的に作られた感じはなく、ただの大きな湖のように見えました。
ダムに近づくために草むらの道を進むと、隠れている何十匹ものバッタたちが四方八方に飛びました。ねこやまさんはバッタをこわがるので、私が先に道を進みます。
そうした道の先にベンチがあり、私とねこやまさんはそこに座りました。ベンチからはダムの全景が一望できました。
「さ、まわりは誰もいないっすよー?」
「ええ、こんなに素敵なところなのに、誰もいませんね。もったいない」
「あー。いや、そうじゃなくってさ」
「はい?」
「あんた、ちゅーしたいんじゃないんすか?しないんだったら、タバコ吸っちゃうっすよ?」
「ああ、なるほど。ありがとうございます」
「……していいっすよ」
そういうとねこやまさんは、まつげを落として、その視線をダムの方に向けます。じりじりと照りつける残暑の日差し。セミの鳴く声が、私の肌を微かにふるわせます。
「……いいんでしょうか。私はとても悩んでいます」
「悩む?」
「私は本来、ねこやまさんのちゅーで救われるべきだと思うのです。それはもう、天使がらっぱを吹きながら、天国に魂をひっぱるように。でも今、私の命をつなぎとめているのは、ねこやまさんのちゅーではなくて、てんとう虫のように小さな薬のほうなのです。そのことがとても悲しくて、とても悔しいんです」
「はあ。それで?」
「あなたがくれる好意を、ただ痛み止めのように消費してしまって良いのかどうか、悩んでいます。ねこやまさんとのちゅーは、もっと純粋に喜びにあふれたものであるべきだと思います。ちゅーは苦しいからするものではなくて、好きだからするべきだと思います」
「はー。言ってることが全く分かんないっすけど、とにかくあんたが想像以上に面倒くさいやつだということは分かったっす」
「ええ。私自身、もっと自分の身の回りのことを、自分自身でちゃんとできるようになったら。薬の力に頼らずに。そのときには、改めてちゅーして下さい。そのときには土下座してでもちゅーして頂きます」
するとねこやまさんは目を細め、奥歯を軽く噛み締めるような仕草をします。少しだけ、私に苛ついているようでした。
「まあ、分かったっす。あんたがそれでいいなら、そうするっす。また今度気が向いたら、ちゅーしてやるっす」
ねこやまさんはため息をつきました。
―――ごめんなさい。ありがとう。
私はそう言おうとして、口を開こうとします。
「……!?」
その開きかけた口を、ねこやまさんのやわらかい唇でふさがれてしまいます。びっくりしていると、ねこやまさんの舌が口の中にはいってきます。ねこやまさんの舌は私の舌をみつけだすと、それをやさしくなぜます。それはまるで手のひらで子猫をなぜるときのような、そんなあたたかくてやさしい感触でした。
―――大丈夫。安心していいっすよ。
私はねこやまさん抱きしめて、それからぎゅうっと抱きしめます。心の奥から沸きだす愛しい感情が、名前をつけるよりも早く、身体中をびりびりとしびれさせます。このびりびりが、ねこやまさんにも感電してしまえばいいのにって思います。そうすれば、足し算も掛け算も因数分解も全部無意味になって、あたまのなかをねこやまさんだけで埋め尽くして、今だけでも自分の世界は白くて、真っ白な空間で二人で抱き合っていて、それでおしまい、みたいな。今この瞬間が、昨日とも明日とも切り離されてしまえばいいのに。重力なんか、青空なんか、この世からなくなってしまえばいいのに。この世界に存在するねこやまさん以外のあらゆるものが、今の自分にとっては、たんなる不純物のように感じられました。
「ねこやまさんのうそつき」
「そうっす。あたしはうそつきっす」
身体を離すとき、それが名残惜しくて何度も舌の先をくっつけあいました。
「あたしはあんたのためなら、なんだってしてあげたいっすよ」
そういうとねこやまさんはにゃーっと私にとびかかり、二人はベンチから転げおちました。抱き合いながら草むらを転がると、バッタがばたばたと飛び去りました。ねこやまさんは私にうまのりになって、ダムを背にしてにんまりと笑います。
「大好きっすよ」
「私だって、大好きです」
ねこやまさんともう一度ちゅーをします。
唇を重ねながら、ねこやまさんの笑顔の向こうでバッタたちが自由に飛び交うのを、ぼんやりと眺めています。風がふきぬけると、やわらかな草の香りがします。
【6.役割】
家に帰るとやはり、黒いスーツの男が待っていました。
「お前が何をしようと、何をすまいと、行き着くところは、一つなんだぜ?お前のわがままで、あのかわいこちゃんを巻き込んでいいのかい?」
彼は物事のマイナスの側面とマイナス側面とを上手に繋ぎ合わせ、まるでそれが世界の全体像であるかのように説明してくるのでした。
そんな彼の手口は分かっていましたが、それでもやはり彼の話には説得力があり、心は暗く沈んでしまうのでした。彼の言葉に説得力を感じてしまうのは、ここから動きたくない私の気持ちを肯定する材料になっているからだと思います。
不安に苛まれた私は、泣きながらてんとう虫の薬を薬箱からかき分けて取り出します。
【7.抗不安剤】
まもなく私は、薬の力で偽りの安心感を得て、ぐっすりとした眠りに陥り、夜は眠りの谷に蹴り落とされ、その後に朝が訪れます。朝日はきっと無邪気に、たくさんの問題とたくさんの不安を指差します。私は朝日が指差す問題や不安たちと、ひたすら殴りあいをしなければならないのでしょう。そうしているうちに力尽きて、また夜が来て、私は薬を飲んで眠るのです。私はきっとこの先も、目的を失ったハムスターのように、ただただひたすら朝と夜を回していくのです。
薬が効いて眠くなるまでの間、私は布団の中から天井を見上げます。憂鬱な気持ちで、白くて丸いガス漏れ探知機を眺めています。
しかしそんな時間を切り裂くように、不意に携帯電話がブーっと鳴ります。ねこやまさんからメッセージが届いたのでした。
『夜更かししないで寝るっすよー。大丈夫。あたしがついているっす』
私は手を合わせ、目を閉じて、その言葉をありがたく飲み干します。まるで、痛み止めを飲み干すように。
確かに私は、ねこやまさんの好意を、日々痛み止めのように消費しています。それはとても間違っていて、不誠実なことだと知っています。
でもいつか。貴女の差し出してくれた好意を、純粋な喜びに変えられるようになりたいと思います。それでやっかいな朝や夜をくるくると回して、曲芸のようにくるくると回して、貴女に見せたいと思います。貴女がちゅーしてくれたから、こんなことできちゃったよって言いたいんです。
てんとう虫が私を、次の朝日へと誘います。その朝日の向こうのその向こうに、ねこやまさんが笑顔で待っていてくるといいな、と思います。
「さ、何して遊ぶっすかねー」
ねこやまさんのにゃーっとした声を思い出すと、口元が自然とゆるみます。今日も朝に飛び込む勇気をくれてありがとう。
『おやすみなさい。いってくるね』
また明日に、また明後日に。春に、夏に、秋に、冬に。また会いましょう。また必ず、会いましょう。