序
王であったその母に誰より愛された心優しい王女が隣国へ嫁ぎ、侍女としての任を辞して早十年。マリーヌが現王リュズハルト二世に与えられた片田舎の小さな領地に籠ってから実に五年の月日が流れていた。
リュズハルト二世の戴冠五周年を祝う祝賀会に出席するよう命じられたマリーヌは久方ぶりに王城を訪れた。
キュアリスタ王国の豊かな自然を象徴するブナと前王スワンリミネスタ一世が愛したシロツメクサの文様がその隅々にまで描かれた壮麗な城。ただ美しいだけにない、この城にはこれまでにもう幾つもの陰謀が渦巻き、争いが起こり、少なくはない血が流れていた。それをマリーヌももうひとつふたつと言わず見届けてきた。
懐かしいといえる顔はほとんどなく、白髪の混ざり始めた女のことなど視界の隅にも見咎める者はいない。マリーヌは熟知している城の廊下の先、ただひとつの目的地へとゆっくりと歩みを進めた。
飾り気の少ない木の扉を僅かに開けると湿った匂いがした。
歴代の王の肖像画が一挙に並べられた通称王の間で、マリーヌは一枚の肖像画の前で足を止める。最も新しいこの肖像画は、この中で唯一の女性が描かれたものである。
マリーヌは懐かしさに叫びだしそうになるのを堪え、まるで修道女が祈るかのように跪き、深く腰を折った。胸の内に溢れる深い懐古の念は、マリーヌに自らの老いを目の前に突き付け、忍び寄る死を予感させた。
顔だけを上げ、絵画にさえも残る優しい微笑を長々と見つめていると、マリーヌの背後で重い音を軋ませて扉が開いた。
「あなたは必ずまずここへ来ると思っていました」
腰を上げたマリーヌがゆっくりと振り返ると、まるで難しい問題を解いてみせた子どものように得意げに笑う顔がそこにあった。思わずといった風に笑みを見せたマリーヌに、王もまた微笑む。
「ご無沙汰しております、陛下」
「うん。もっと頻繁にこちらへ足を運んでくれるつもりでいたよ」
軽口のような王の言葉の中に込められた嫌みがかった非難を、マリーヌはただ笑みを浮かべて聞いていた。誰にどれほど懇願されようと、元は所詮名もない一般市民でしかないその身の上を、誰より一番マリーヌが弁えている。
民が穏やかに健やかに過ごすことのできる世を創ることができるのならば、その為に必要なことであるのならば、王を辞めることさえも厭わぬと笑んだ前王の志はその息子へと引き継がれた。
マリーヌとて、かつては小さな赤子にすぎなかったこの王が作る平和な世をすぐ傍で見たいという思いは確かにある。しかしまた自らの存在がその偉大なものとなるべき治世の妨げになることも理解していた。
「私のような年寄りには、この都は遠すぎるんですよ」
幾らか予想していたマリーヌの返答に、王はその瞳に僅かな哀しみを乗せて微笑んだ。
自分たち三人の兄弟の傍にいてくれた従者たちの中で、マリーヌが最も優しく最も勇敢であった。王には時折その強さが眩しく、そして今は手本として手元に置きたいと望んでいた。しかしそれが叶わぬことも、マリーヌの思いも理解している。だからそれ以上咎めることもしない。
「お変わりございませんか」
マリーヌの問いに、王は厳かに頷いた。それは社交辞令の類などではなく、まるで母のように心底案ずる声であり、それを知る王は僅かに苦笑を頬に乗せた。王もまた子を持つ立場となってはいても、そういう優しさは有難くも今だ気恥ずかしく、またそれを素直に口にすることはできなかった。
青年を卒業しても尚、素直に愛情を受け取れぬ偏屈さを誤魔化すように、王もまた偉大であった母の肖像画を仰いだ。そのブロンドの髪こそ受け継ぐことはなかったが、赤みのさす瞳は母譲りと誰もが王を褒めた。それが幼い頃の王には唯一の母との繋がりであった。
彼女は王にとって母というよりいつでも王であり、すぐ傍にいながらにして最も遠い人物であった。それがただ辛く悲しく、幾度となくその不義理を嘆いた幼少期も今とはなっては懐かしい。それが今、父となった王はその子どもたちにとって正しく父であるのか。同じ立場にたった現在の自分にこそ理解できるその思いももう、伝えるべき人はいない。
「この人の生は、幸あるものだったでしょうか」
語り合うことのできない母の肖像と、今は都さえ去った古い侍女。懐かしさに負けたとでもいうのか、口をついて出ていた言葉を王が理解した頃には、それはもう声となっていた。どれ程に大人の男を演じてみても、今尚マリーヌの前では幼子に過ぎぬのかと王は僅かに眉尻を下げた。
マリーヌはその優しさから王の様子を素知らぬふりで、今は亡き前王を自らもまた見上げた。問われて答えられるほどに、マリーヌもまたこのスワンリミネスタ一世をよく理解していたわけではない。ただ、その傍に幼少の頃より仕えていたという養母のことならば僅かにも理解しているつもりである。
女でありながら女として生きることを捨て、しかし男になれるでもなく、軍人として生き抜いたスタルツィア・ファリスト大将。その名は早、貴族たちからは意図して忘れ去られようとしている。
「義母スタルツィアがよく申しておりました。陛下は王として多くのものを手放さねばならぬから、自分だけは何をおいても傍にいるのだと」
政に関する全ての批判と憎悪、不平不満を一手にその身に引き受けた気高き人。王の影であり、悪を担ったスタルツィアの死の間際、マリーヌは彼女に尋ねた。
これでよかったのでしょうか、と。
その優しさも強さも、一番身近に感じていたのはマリーヌである。スワンリミネスタ一世即位の際の戦乱の中、頼るものを亡くしたただの少女であったマリーヌを養女として迎えてくれた養母に対する世間の評価は厳しく、そして偏ったものであった。名誉さえ守られることもなく死んでいこうとするその人に涙するマリーヌの目元を拭って、それでもスタルツィアは微笑んだのだ。
私は望むように生きたわ。マリスルヴィンが立派な王になればそれでいい。後はお前も幸せになりなさい。
その言葉は今も尚マリーヌの心の内に声として残っている。
「スタルツィアに拾われた時から、私はずっと幸せでした」
マリーヌとて、スタルツィアの娘というだけで傷つけられることもあった。命を狙われたことも一度や二度のことではない。そしてまた、恩人である彼女のことを何ひとつ守ることなど出来やしなかった。
後悔が残らぬわけではない、それでもマリーヌはその日々をただ幸せだったと胸を張って言うことができる。
今はこの都と領地とに離れているが、マリーヌもまた、自らの子どもたちが幸せならば己もまた幸せだ。だからスタルツィアもまた同じであったであろうし、スタルツィアが何よりその幸を望んだのはかの王だ。
「だからあの方もきっと、お幸せだったと思います」
王は静かに嘲笑を浮かべた。確かに信頼できるただひとりが傍にいたのだから、彼女は幸せであっただろう。
己の孤独を思い浮かべながら、閉じた瞼の裏に優しく微笑む母を思い出す。過酷な宿命を背負わされ、その父の過ちを正すため、自らが王として立ち上がった姫。その戦いを知る者たちも、こうして少しずつ減っていっている。
再び開いたドアの向こうに、マリーヌは随分と成長した若者の姿を見た。
「こちらでしたか、陛下」
深いエメラルド色の瞳と、チョコレート色の髪。近衛の青い軍服がよく映える。そこにまるで母の隣に立っていた麗人を見ているようで、マリーヌは懐かしさに頬をほころばせた。
「時間か。行こう。マリーヌ、できるならば後で、ゆっくりと田舎の話でも聞かせてくれ」
すっかり王の顔に戻ったリュズハルト二世は、ジュストコールの裾を翻し、大理石を鳴らして離れていく。腰を折って見送るマリーヌを、女王の肖像画が優しく見下ろしていた。