深海列車
深海列車
教室から見えるのは、雨に濡れたコンクリート。
聞こえるのは、ついまどろんでしまう古典の授業。
ノートの隅に、ちょっとした落書きと短い詩のような短文。
後20分でチャイムが鳴って、昼休みに5分したら忘れてしまうような話をして
また時計や窓の外を見ながら授業を受けて、
部活に行って
帰って
また繰り返して。
「屋上行きたいねー」
という言葉に意味は無い。
誰かしらが呟いた言葉に「そうだねー」と答える。
漫画の世界みたいに、鍵をこじ開けて授業をボイコットすれば良いのに
また席について、外を見る。
「籠の中の鳥はなぜ外に出ないのでしょうか。」
それは、籠の中がそれなりに心地良いからじゃないでしょうか。
「籠の中の鳥は何を考えているのでしょうか。」
なにを考えているのでしょうか。
帰りのバスの中、窓枠に紙切れが差し込まれていた。
藤色をしたその紙切れは、列車のチケットだった。
『閏日/海中/午前2時』
書かれていたのはそれだけだった。
志望していた大学になんとか合格して、
受験から開放された2月。
ぐちゃぐちゃになった部屋を整えていると、藤色の紙切れを見つけた。
日付は明日。
午前2時まではあと8時間ほど。
午前1時半、近くの防波堤へ行くと列車が停まっていた。
車掌らしき人にチケットを渡すと席に案内される。
小さな列車の中には私を含めて5人の客が乗っていた。
鳥の鳴き声のような音を発して、午前2時 列車は海へ潜った。
海中は列車のライトと月の光で仄明るく、魚の影がチラリと見えたりもする。
どんどん深く深く潜ってゆく深海列車。
白髪の老夫婦、露出の多い服を着た派手な女性、学生服の男の人、私。
おばあさんが乗客に飴玉を配る。
女性は鞄にしまい、男は少しだけ頭を下げ、私はお礼を言って舐めた。
琥珀色の飴玉は醤油と炬燵の香りがした。
しばらくして、老夫婦は列車を降りた。
深海何メートルかわからない暗闇を、
壊れてしまいそうな儚い気泡に入って泳ぐ。
しわしわになったその手をしっかりと握り合っている姿が見えて
また微かに醤油の香りがした。
あまり時間が経たないうちに女性が立ち上がった。
彼女はいつの間にかメイクを落とし、清楚な紺のワンピースに着替えている。
まるで少女のようなその人は、すみれのような笑みを浮かべて泡の中へ入った。
スカートの裾が揺らめいて、イルカの尾ひれのようだと思った。
列車は走り続ける。
あの男の子はどこで降りるのだろう。
私はどこで降りるのだろう。
どこで降りるの。
男の子が真っ直ぐに私を見ている。
どこで降りるの。
わからないので聞き返すと、
家、と返された。
家が海の中にあるの。
家に降りるんじゃない。家から降りるんだ。
いつの間にか向かいに座った彼が言う。
親や、決まりから降りるんだ。自分の将来のために。
家業を継ぐように言われる彼は、作家になりたいらしい。
この列車は、何かから卒業したい人だけが乗る深海列車。
チケットを偶然拾った私は、何処で、いや何処から降りるべきなのかわからない。
深海列車に終点は無いという。
あの老夫婦も、女性も、目的地を決めて乗っていたらしい。
決まっていない私は、何処へ行くのだろう。
しばらくして、ブレーキ音が響いた。
彼は立ち上がり、無言で泡に入った。
彼の手には小さなメモ帳とペンが握られている。この出来事を小説にするのだろうか。
深海列車は泳ぎ続ける。
私はどこまで行くのだろう。
時計を見ると、針が消えている。
ここでは時間はないというのか。
明日は高校の卒業式。このまま戻らなければ欠席扱いになるのだろうか。
高校を卒業したいので降ろしてください、とはなんとなく恥ずかしくて言えない。
魚の影も、月明かりも見えなくなった。ここは深海何メートル?
卒業したら全部なくなってしまう。
でも不思議なことに何が無くなるのかわからない。
友達の顔も、先生の声も、思い出も。
何もかもが当たり前すぎて思い出せない。思い出せない。
籠の中の鳥は、外に出たいだなんて考えていなかった。
籠の中が全てだから、日常だから、外の世界があるだなんて考えてはいなかった。
その世界はあまりにも小さいのに、何ひとつわからない。
籠の中の鳥は、何も考えてはいなかったのか。
隙間から覗く空を飛ぶだなんて、この籠が小さすぎるだなんて、考えてはいなかったのか。
車掌が傍に来て背中をさすってくれていた。
泣いていたのか。自分の中身を目の当たりにして。
私は車掌に目的地を告げた。
彼は帽子を取って、静かに頭を下げた。
深海何メートルの世界を泳いで目的地へと急ぐ。
光が見えたとき、私は校庭の水溜りの上に立っていた。
左胸につけた花も、偉い人のお話も、隣の子の涙も全部過ぎて終わって、
私はひたすら階段を上っていく。
屋上行きたいねーとは言われなかったけれど、
私は今、屋上に立っている。
何から降りるのか。
目的地はどこか。
今まで来られなかった場所に来れば分かると思ったけれど、やっぱりわからなかった。
いつの間にか集まった友達や怒る先生の声で
小さな世界がどんどん埋まっていく。
黒い筒を持って花をつけて屋上で見た空に、気泡が上がっていく。
微かに醤油の匂いがした、ような気がする。
小さな世界から見る世界は、大きすぎて、よくわからなかった。
書店の隅っこに海が舞台のファンタジーが置かれ、
優しい笑みを浮かべた母親が子どもを連れる夕暮れに
私は藤色の、ではなく普通の切符を使って列車に乗っていた。
窓から見える夕焼け空を、そっと切り取っていく。
初めて自分の力で買った安物のカメラで納めた写真は
残念ながら、人には認めてもらえないけれど
鞄の中の封筒には、確かに世界が入っている。
隣にいた子供に、琥珀色の飴玉をあげると思いのほか喜ばれた。
少年はありがとう、と夕日に照らされながら笑う。
左胸に花はついてないし
黒い筒も持ってはいない。
ここは地上何メートルの列車で
私はしっかり息をしているけれど、
私は卒業したんだな、と思う。
少なくとも、明日になってもこの景色は覚えていると思う。
世界の一部として、私の中に沈んでいく。
個人的な卒業制作のつもりで書きました。
なので面白みは無いと思います。すみません。
なんとなく共感してもらえたり、理解してもらえたら嬉しいです。
読んでいただいて本当にありがとうございました。