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第38話:安西専務の寝返り

午後七時三十分。

秋の深まりとともに冷え込む虎ノ門の高台、都会の喧騒から隔離された静寂の中に佇む『The Okura Tokyo(ホテルオークラ東京)』。

その本館ロビーを抜けた奥深く、数寄屋造りの伝統美と現代的な洗練が融合した日本料理の名店『山里』の最奥に位置する離れの完全個室には、外界のざわめきの一切が遮断された重厚な静謐が満ちていた。

床の間に掛けられた水墨画の軸には、静かに風雪に耐える大樹が描かれ、青磁の花入に生けられた竜胆とススキが、秋の夜の気配を静かに告げている。

障子の外には、計算され尽くした坪庭の飛び石が夜露に濡れ、竹の筧から落ちる水滴が、規則正しい清らかな音を刻んでいた。


白木の一枚板のテーブルの上座には、タカツカサ・キャピタル代表取締役CEO・鷹司誠一郎が腰を下ろしていた。

仕立ての良い漆黒のスリーピースに身を包み、腕を組んで目を閉じる姿は、まるで出陣を目前に控えた名将のような絶対の静けさを湛えている。

その隣には、ミッドナイトネイビーのスーツを隙なく着こなした槇野佳乃が、背筋を寸分の乱れもなく伸ばして座っていた。

二人の前には、湯気を立ち上らせるほうじ茶の湯呑みが二つ。

リチャード・神崎とのあの息詰まる頭脳戦を終え、百五十億円のメザニンローン合意解約と担保権放棄を勝ち取ってから、わずか数時間後のことだった。


トントン。


障子越しに、控えめだが切迫したノックの音が響いた。

「……お連れ様がお見えになりました」

仲居の静かな声とともに、障子が音もなく横へと開かれた。


現れた男の姿を認めた瞬間、佳乃は胸の奥を小さく締め付けられるような痛みを覚えた。


「…………っ」


そこに立っていたのは、鳴神物産専務取締役・安西源三郎だった。

だが、かつて現場の営業フロアで「鬼の安西」と恐れられ、現場叩き上げの気骨と堂々たる威厳を誇っていたその姿は、見る影もなく変貌していた。

仕立ての良いはずの濃紺のスーツは、急激な体重減少のせいで肩回りがぶかぶかに余り、背中は老人のように丸まっている。

無精髭の浮いた頬はげっそりと削げ落ち、目の下には黒褐色の隈が濃く焼き付いていた。

周囲の目を極度に警戒するように廊下を振り返り、何度も瞬きを繰り返しながら、まるで夜盗のように身を縮こまらせて個室へと滑り込んできたのだ。


「安西専務」

佳乃は静かに立ち上がり、深々と、礼節を尽くした一礼を捧げた。

「お忙しい中、足をお運びいただき誠にありがとうございます」


「槇野、君……」

安西はかすれ切った声を漏らし、敷居を跨いだところで立ち尽くした。

その視線が、佳乃の洗練された佇まい、そしてその隣で静かに目を開いた鷹司誠一郎の鋭利な双眸を捉えた瞬間、安西の膝がガクリと折れかけた。


「どうぞ、お掛けください。お疲れのところを呼び立ててしまい、申し訳ありませんでした」

佳乃が自ら歩み寄り、安西の手を取って下座の座布団へと優しく導こうとした。

しかし――


ドサッ。


安西は座布団に腰を下ろすどころか、そのまま畳の上に両膝を折り、両の手のひらを青畳へと激しく擦り付けたのだ。


「せ、専務……!?」

佳乃が息を呑む。

五十八歳の東証プライム上場企業の専務取締役が。

三十年間、先代とともに会社を背負い続けてきた大幹部が、二十七歳の元秘書の前で、額を畳に激しく打ちつけるようにして土下座をした。


「……すまなかった、槇野君。……本当に、すまなかった……!!」


安西の喉から絞り出されたのは、血を吐くような慟哭だった。

肩が激しく震え、畳の網目に、大粒の涙がポタポタと黒い染みを作っていく。


「あの日……先代の密葬が終わった、あの雨の夜……! 貴之社長が君を理不尽に解雇し、傘すら持たせずに放り出した時……私は、すべてを見ていた。止めなければならないと、剛造さんの恩義に報いなければならないと、頭では分かっていたんだ……!」

安西は拳を握りしめ、自らの額を畳に打ち据えた。


「だが、私は保身に走った! 役員報酬を失うのが怖くて、社長に盾突いて専務の椅子を追われるのが怖くて……君が雨の中にダンボール一つで追い出されるのを、ただ下を向いて見過ごしてしまった! 先代の遺志を裏切り、最も誠実に会社を支えてくれていた君を足蹴にしたんだ! ……私は、万死に値する卑怯者だ……ッ!!」


溢れ出る後悔と自責。

佳乃が去った後、組織が音を立てて崩壊していく地獄を目の当たりにし、無能な二代目によって会社が処刑台へと送られていくのを止められなかった、叩き上げの重鎮の魂の叫びだった。


「顔をお上げください、安西専務」


静かな、だが温かく、水のように清冽な声が頭上から降ってきた。

佳乃は安西の前に膝をつくと、床に擦り付けられた安西の両腕を、自らの手のひらでそっと優しく包み込み、ゆっくりと引き起こした。

その瞳には、恨みも、怒りも、責める色は微塵もなかった。

ただ、かつて同じ城で泥水を啜り、同じ誇りを共有していた戦友を見つめる、深い敬意と慈愛だけが湛えられていた。


「安西専務。あなたが自分を責める必要など、何一つございません」

佳乃は穏やかに首を横に振った。

「私は知っております。先代が病床に伏せられてからの二年間、専務がどれほど矢面に立って現場の営業マンたちを守り、無理な社内政治から社員たちを庇い続けてこられたかを。専務が踏みとどまっていてくださったからこそ、鳴神の現場は今日まで呼吸を繋ぐことができたのです」


「槇野君……」

安西の涙に濡れた顔が、呆然と佳乃を見上げる。


「謝罪をしていただくために、お呼び立てしたのではございません」

佳乃は立ち上がり、テーブルの上に置かれていた、ネイビーの革表紙で装丁された一冊の分厚いバインダーを手に取った。

表紙には、金文字で厳格に刻まれていた。

『株式会社ナルカミ・グローバル 事業再生ならびに組織再編基本計画書』。


「専務。これをご覧いただきたいのです」

佳乃は安西の前の白木テーブルの上へと、そのファイルを両手で丁寧に差し出した。


安西は震える指先で、恐る恐るファイルを開いた。

そこに記されていたのは――

外資系ハゲタカファンドが好むような、不採算部門の切り売りや首切り、資産の証券化による短期的な現金化といった「略奪のシナリオ」では断じてなかった。


【第1原則:基幹サプライチェーンの完全防衛】:全国の港湾倉庫優先利用枠の即時再契約、ならびにナルカミ・ロジスティクスが保有する低温輸送ネットワークを統括持株会社の中核事業として位置づけ、一切の第三者譲渡を禁止する。


【第2原則:現場社員の雇用100%継続と処遇改善】:現・鳴神物産の一般職、総合職、ならびに子会社・関連会社の現場作業員、ドライバーに至るまで、希望者全員の雇用を完全保障する。あわせて、不透明なサービス残業の是正、ならびに初年度における一律5・5%の基本給ベースアップを実施する。


【第3原則:『見えない実務』の正当評価制度の導入】:事前のトラブル防止、社内調整、根回し、顧客カルテの保全等の定性的な貢献を人事評価項目に正式に組み込み、バックオフィスおよび現場アシスタントの待遇を大幅に引き上げる。


【第4原則:営業統括役員の留任】:安西源三郎氏を、新会社の取締役副社長兼最高執行責任者(COO)補佐に任命し、国内・海外営業本部の全指揮権を委ねる。


「こ……これは……ッ!?」

安西の目が、見開かれたまま釘付けになった。

ページをめくる指が、激しく震える。

そこには、鳴神物産が七十年かけて現場で積み上げてきた「泥臭い信用のネットワーク」を誰よりも深く理解し、その価値を何倍にも引き上げるための、完璧な未来図が描かれていた。

不採算な貴之の道楽事業や、愛人に垂れ流されていた幽霊コンサルティング会社だけが綺麗に切除され、現場で汗を流す人間たちの血肉は、何一つ傷つけられることなく守り抜かれるスキーム。


「……信じられない」

安西の喉が詰まった。

「敵対的TOBを仕掛けてきたタカツカサが……なぜ、ここまでの条件を提示してくれるんだ……? これでは、我が社の現場にとって……願ってもない、奇跡のような救済ではないか……!」


その問いに答えたのは、それまで静寂を守っていた鷹司誠一郎だった。


誠一郎は組んでいた腕を解くと、背筋を伸ばし、深く落ち着いた声音で語り始めた。


「安西専務。市場は我が社を『冷酷なハゲタカ』と呼ぶ。私自身、感情で金を動かすつもりは毛頭ない」

誠一郎の切れ長の瞳が、獲物を射抜く光ではなく、真の企業家としての揺るぎない覚悟を宿して安西を直視した。


「だが、真の投資とは何だ。数字の辻褄を合わせ、会社を解体して切り売りし、一握りのブローカーが手数料を掠め取って立ち去る……そんなものは投資ではない。ただのハイエナの死肉漁りだ」


誠一郎の言葉は、重く、低く、安西の胸の芯へと響いた。


「鳴神剛造氏が一代で築き上げ、そして佳乃が七年間の青春を賭して守り抜いてきた現場のネットワーク……あれは、日本の製造業とエネルギーの血管そのものだ。あの泥臭いサプライチェーンがあるからこそ、この国の産業は世界と戦うことができる。……あのような国宝級の現場を、リチャード・神崎のような外資のブローカーに食い荒らさせ、消滅させるなど、この国の経済に対する許されざる冒涜だ」


誠一郎はテーブルの上に両手を置いた。


「我々は鳴神物産を奪うのではない。剛造氏が遺し、佳乃が愛した現場の誇りを、あの無能な愚息の手から奪還し、正しいリーダーシップの下で世界へ羽ばたかせたいのだ。……そのために、現場のすべてを知り、社員たちから絶大な信頼を集めるあなたの力が、どうしても必要なのだ、安西専務」


「鷹司……代表……」


安西の視界が、再び熱い涙で歪んだ。

市場から最も恐れられていた男が、誰よりも現場の泥臭い汗と涙の価値を正当に見抜き、最高のリスペクトを払ってくれている。

そして、その傍らで静かに微笑む槇野佳乃。

彼女は自分を追い出した会社を恨むどころか、現場の仲間たちを救うために、この完璧な再生プランを自らの知性で練り上げ、誠一郎を動かしてくれたのだ。


カサリ、と佳乃が一枚の書面をテーブルに差し出した。

そこには、先ほど神崎に署名させたばかりの、あの『メザニンローン合意解約書』の写しが添えられていた。


「安西専務。リチャード・神崎による、本社ビルとナルカミ・ロジスティクス株式への担保権実行は、先ほど完全に無力化いたしました。外資の毒牙は、すでに排除されております」

「なっ……!?」

安西は息を呑んだ。

「神崎を……あのウォール街の悪魔を、退散させたのか!? 一体、どうやって……」


「先代が遺してくださったデータと、真鍋先生のリーガル力です」

佳乃は静かに微笑んだ。

「外堀はすべて埋まりました。……残るは、鳴神物産の内部の膿を、法と正義の手続きに従って摘出することだけです」


佳乃は身を乗り出し、安西の目を真っ直ぐに見つめた。

その瞳には、少女のような柔らかさと、千軍万馬の軍師としての峻厳さが同居していた。


「専務。明日の朝十時、鳴神物産本社において、貴之社長が招集した緊急取締役会が開かれますね」

「あ、ああ……。タカツカサのTOBに対抗するための防衛策(ポイズンピル)を導入すると、息巻いている」


「その取締役会の席上において――」

佳乃の声が、研ぎ澄まされた刃のように静まり返る部屋に響いた。


「安西専務。あなたから、代表取締役社長・鳴神貴之の【解任動議】を、緊急提出していただきたいのです」


「っ……!」

安西の背筋に、戦慄が走った。

解任動議。

創業家の直系であり、先代の唯一の息子である貴之を、自らの手で社長の座から引きずり下ろす。

かつての安西であれば、先代への義理と創業家への忠誠心に縛られ、躊躇したかもしれない。


だが、今の安西の心には、一片の迷いも残っていなかった。

目の前にある再生計画書。

守るべき社員たちの顔。

そして、先代が真に望んでいた「会社の未来」。

すべてが、一本の確固たる大義の道として繋がっていた。


「……分かった」


安西は両の手で涙を力強く拭い去ると、背筋をピンと伸ばした。

その顔から、先ほどまでの卑屈な怯えと老け込んだ影は、完全に消え去っていた。

かつて先代剛造とともに中東の砂漠を駆け巡り、幾多の修羅場を乗り越えてきた「叩き上げの猛将」の眼光が、そこに完全に蘇っていた。


「私はもう、あの愚息に義理立てするのは金輪際やめる」

安西の野太い声が、個室の空気を震わせた。


「明日の取締役会で、私が先頭に立って社長解任動議を叩きつける! 奴が息のかかった社外取締役を使って否決しようとも構わん! その場で議事録に反対の事実を刻み、臨時株主総会での全面対決へ持ち込んでやる!」


安西は拳を固く握り締め、誠一郎と佳乃に向かって深々と頭を下げた。


「現場の営業マンたち、全国の支社、そしてナルカミ・ロジスティクスのドライバーたちには、今夜から私が直接一人ひとりに電話を入れて説得する! 『タカツカサは会社を奪いに来たのではない、俺たちの現場を守るために来てくれたんだ』とな! 現場の離反など、絶対に起こさせん! 社員持株会と、先代を慕うOB株主たちの委任状も、私が這いつくばってでもすべて回収して見せる!!」


熱い、魂の誓い。

M&Aにおける最大の難所――「現場の反発による集団離職とサプライチェーンの自壊」という巨大なリスクが、安西の合流によって、完全に、完璧に封じ込められた瞬間だった。


「感謝いたします、安西専務」

誠一郎が立ち上がり、自らの大きな右手を差し出した。

安西もまた立ち上がり、その手を両手で力強く握り返した。

巨額の資本を動かす若き帝王と、現場の汗を知る歴戦の古参役員。

二人の男の手が、固く、熱く結ばれる。


その光景を、佳乃は静かな感動とともに見つめていた。

雨の夜に一人で放り出された時から始まった戦いが、今、かけがえのない仲間たちを巻き込みながら、巨大な正義の大河となって破滅の城へと押し寄せていた。


坪庭の水滴が、静かに竹を鳴らす。

鳴神物産の屋台骨である営業部門のトップは、完全にこちらの陣営へと寝返った。

翌朝の緊急取締役会、そしてその先に待ち受ける運命の臨時株主総会――

鳴神貴之という無能な暴君を完全に包囲し、断罪するための盤面は、今、一分の隙もなく整えられたのだった。

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