↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/60

第11話:最初の関門、財界の女帝

午後一時三十分。

先ほどまでの役員会での熱狂が嘘のように、タカツカサ・キャピタルの戦略会議室は、再び静まり返っていた。

ライン・ロジスティクスの買収防衛劇を鮮やかに解決した余韻に浸る時間など、このスピード感を至上命題とするメガファンドには存在しない。一つの獲物を仕留めた瞬間、すでに次の獲物の喉元へと照準を合わせる――それが鷹司誠一郎という男の流儀であり、タカツカサが世界市場で恐れられる最大の理由だった。


円卓のプロジェクターから照射された光が、壁面いっぱいに構築された複雑なスキーム図を青白く照らし出している。

スクリーンの中央に刻まれた文字は――『タカツカサ・ネクストジェネレーション・グリーンインフラ投資事業有限責任組合』。

目標調達総額、三千億円。

脱炭素社会への移行を見据え、国内の洋上風力発電、次世代蓄電サプライチェーン、ならびに港湾ロジスティクスのゼロエミッション化を包括的に支援する、国家規模の超巨大プロジェクトだった。


「規模が規模だ。国内の生保や信託銀行、地方銀行の有志連合を束ねるには、何よりもまず『一番槍』となるアンカー・インベスター(主幹投資家)の存在が不可欠になる」

腕まくりをしたシャツの袖口を整えながら、COOの梶原康平が眉根を寄せてモニターを指し示した。

「目標総額三千億のうち、三分の一にあたる一千億円。この莫大なリスクマネーを最初にポンと張ってくれるメガバンクが存在して初めて、腰の引けた他の機関投資家たちが『あの銀行が乗るなら安心だ』と雪崩を打って追随してくる。……そして、その一千億の引き出しを実質的に一人で差配できる怪物が、この国にたった一人だけいる」


画面が切り替わる。

投影されたのは、濃紺の着物を隙なく着こなし、冷徹な眼差しで正面を見据える初老の女性の写真だった。

首筋に刻まれた年齢相応の皺すらも、積み重ねてきた権力の年輪であるかのように誇り高く、その佇まいからは並大抵の財界人では気圧されてしまうほどの威厳が漂っている。


――大東京フィナンシャルグループ 取締役副頭取、九条雅恵。


「言わずと知れた、兜町の女帝だ」

梶原が深く息を吐き出し、革張りの背もたれに体重を預けた。

「大東京フィナンシャルの頭取は実質的なお飾りで、融資審査と大型投資の最終決裁権を握っているのはこの九条副頭取だ。政界の重鎮にも顔が利き、官民ファンドの設立にも深く関わっている。彼女が首を縦に振れば、一千億のディールは瞬時に成立する。……だが、問題はその壁の厚さだ」


梶原はテーブルの上に肘をつき、苦虫を噛み潰したような顔で誠一郎と佳乃を見つめた。

「九条副頭取は、亡くなった鳴神剛造の古い戦友だ。三十年前、彼女がまだ都市銀行の課長クラスだった時代から、剛造とは幾度となく政財界の修羅場を共に潜り抜けてきた間柄だと聞く。先代が亡くなった今、彼女の心情としては、創業家三代目の鳴神物産を救済し、融資枠を維持してやろうという方向に傾くのが自然だ。ウチのような独立系ファンドの会食要請を受けてくれただけでも奇跡だが……生半可な提案書を差し出した瞬間に、鼻で笑われて席を立たれるのがオチだぞ」


「……」

誠一郎は腕を組み、静かにモニターを見つめていた。

氷の彫像のように動かないその横顔。梶原の懸念を、誠一郎は誰よりも正確に理解していた。

資本主義のルールにおいて、感情など不要の長物だ。しかし、巨額の資金を動かす最終局面において、決定権を持つ個人の「人間的な信頼」や「長年の貸し借り」が、時に完璧な財務諸表を軽々と覆すことがある。

三年前のシンガポール案件がそうであったように。


「数字の美しさだけで、九条雅恵は動かない」

誠一郎の低く乾いた声が、静かな会議室に落ちた。

「大東京フィナンシャルが喉から手が出るほど欲している地方創生案件の優先交渉権、ならびに環境インフラ債の引受手数料――用意した経済的インセンティブは完璧だ。だが、それを受け取らせるための『器』が整っていなければ、彼女は口をつけない」


誠一郎はゆっくりと顔を巡らせ、自らの左隣に座る佳乃へと視線を注いだ。

チャコールグレーの洗練されたスーツを纏い、眼鏡を外した切れ長の瞳を真っ直ぐにスクリーンへ向けている佳乃。

その佇まいには、先ほどメインボードルームで怪物たちを屈服させた知性の光が、静かに、だが揺るぎなく宿っていた。


「佳乃」

「はい、代表」

「今夜の会食のプロトコル、会場選定、手土産、ならびに席上の全アテンドの差配を、君に一任する」


その言葉に、梶原が目を見張った。

「おい、誠一郎! 一任って……今夜の会食は、タカツカサの命運を分ける一千億のディールだぞ!? 会場の予約だって、帝国ホテルかパレスのプライベートダイニングを押さえるのが筋ってもんじゃないのか? 大使館クラスが使う最高級フレンチの個室なら、ウチのコネクションで今すぐ――」


「梶原」

誠一郎が静かに手を開いて制した。

「君は優秀なCOOだが、九条雅恵という人間の『呼吸』を知らない。……彼女の急所を最も熟知しているのは、ここにいる佳乃だ」


二人の視線が、佳乃へと集中する。

試すような色は、もう梶原の瞳にはなかった。ただ、一人の万能の参謀がどのような手を打つのかを見届けようとする、真剣な期待が込められていた。


佳乃は深く一礼すると、手元のタブレットを静かに伏せ、淀みのない声で口を開いた。


「梶原COO。ホテルダイニングやグランメゾンのフレンチは、九条副頭取をお迎えする席としては最も悪手です」

「なっ……悪手だと? 天下のメガバンクの副頭取だぞ? 格式としては申し分ないはずだろ」


「九条副頭取は、格式張った洋装のディナーや、ウェイターが頻繁に出入りして会話を遮るホテルダイニングを蛇蝎のごとく嫌われます」

佳乃の頭脳に構築された『九条雅恵のパーソナル・カルテ』が、滑らかに引き出されていく。

「副頭取は長年、男社会の金融界で舐められないよう、常に着物を召して公の場に立たれてきました。帯で締め付けられた状態で三時間近く椅子に座り続けることは、どれほど強靭な精神をお持ちであっても、肉体的に多大な疲労を伴います。ましてや、ナイフとフォークを使い、周囲の視線に晒されるオープンスペースに近い個室では、真に心を開いたディスカッションなど望むべくもありません」


「あ……」

梶原が息を呑んだ。

男の論理だけで「最高級のフレンチを押さえれば相手は喜ぶ」と思い込んでいた自らの死角を、あっさりと突かれたからだ。


「では、どこにする気だ? 銀座の老舗の料亭か?」

「いいえ。銀座は各界の要人やマスコミの目が多すぎます。大東京フィナンシャルがタカツカサのファンドに巨額出資を検討しているという情報が事前に漏れれば、競合他行の横槍が入るリスクがございます」

佳乃は迷うことなく、ある一つの場所を口にした。


「赤坂の裏路地に佇む、完全紹介制の老舗料亭『千代乃』の離れを押さえます」


「千代乃……?」

梶原が記憶の糸を手繰り寄せるように目を細めた。

「政財界のフィクサーが使う、あの看板すら出ていない隠れ家か? だが、あそこは代々の常連の紹介がなければ、総理大臣だろうが一見客の予約は絶対に取らないことで有名だぞ。今から連絡して、今夜の離れを押さえることなんて可能なのか?」


「ご心配には及びません」

佳乃は静かに微笑んだ。

「千代乃の当代の女将は、先代・剛造会長が三十年前に創業資金の工面をお手伝いしたご恩を、今なお深く心に留めてくださっております。そして……先代の存命中、月に二度の予約調整と女将のご家族の慶弔の配慮を一手に引き受けていたのは、私です。私の名義でお願いすれば、必ず今夜の離れを開けてくださいます」


人脈とは、会社の看板にぶら下がっているだけでは決して手に入らない。

日々の泥臭い気配り、相手の痛みに寄り添う誠実なやり取りの積み重ねだけが、いざという時に岩盤をも穿つ絶対の信頼となる。

佳乃が鳴神物産で七年間、誰にも手柄を誇らずに築き上げてきた「見えない資産」の真価が、ここにあった。


「素晴らしい」

誠一郎の口元が、満足げに綻んだ。

「会場は『千代乃』で決定だ。……佳乃、席上のプロトコルについて、君の見立てを聞かせてくれ」


「はい」

佳乃は背筋を正し、二人のエグゼクティブに向けて淡々と指示を共有し始めた。


「九条副頭取を攻略する上で、絶対に踏んではならない地雷、ならびに必ず満たすべき三つの要件がございます。第一に、室内の環境です。千代乃の離れ『萩の間』を指定いたします。あそこは中庭を望む掘りごたつ式の座敷であり、着物をお召しの副頭取が最も足を楽にできる構造になっております。また、副頭取は極度の冷え性を患っておられる一方で、更年期特有の火照りを極端に嫌われます。室温は、正確に『二十二・五度』を維持するよう女将に厳命いたします」


「に、二十二・五度……?」

梶原が唖然として呟いた。

「コンマ五度単位で指定するのか……?」


「はい。二十三度ではわずかに蒸し暑さを感じて集中力を削ぎ、二十二度では足元から冷えが上がって会話を切り上げたくなられます。二十二・五度こそが、副頭取が最も長居をしたくなる黄金の温度です。また、座布団の下には、目立たぬよう電磁波カットの薄型ホットマットを弱設定で敷き込ませます」


佳乃の口から次々と飛び出す、狂気じみたまでの精密なデータ。

だが、それは単なるデータの暗記ではなかった。相手の生身の身体の痛みを想像し、少しでも心地よく過ごしてもらいたいという、究極のホスピタリティに裏打ちされた知恵だった。


「第二に、室礼(しつらい)です。萩の間の床の間には、通常であれば格式の高い大輪の牡丹や季節の掛け軸が飾られます。しかし、今夜はそれらをすべて下げさせ、静けさを湛えた『白椿の一輪挿し』のみを飾らせます」

「白椿……? なぜだ? 質素すぎやしないか?」

「今週は、九条副頭取が三年前に亡くされた愛犬の命日にあたります」


佳乃の静かな言葉に、会議室の空気が止まった。


「副頭取は生涯独身を通され、家族同然に愛しておられたのが、真っ白な秋田犬の『ハク』でした。その死から三年が経過しますが、副頭取はこの季節になると、毎年決まって白い花を手元に置かれます。大仰にお悔やみを述べるのは逆効果です。『偶然、静かな白椿が生けられていた』という演出こそが、副頭取の強張った警戒心を無意識下で最も深く解きほぐします」


「……参ったな」

梶原は両手を上げて降参のポーズを取った。

「身辺調査の興信所でも、そこまで調べ上げられねえぞ。あんた、本当に何者なんだ……」


「そして第三に――これが最も重要かつ、命に関わる絶対の禁忌です」

佳乃の瞳が、氷のように研ぎ澄まされた。

「九条副頭取は、重度の甲殻類アレルギーをお持ちです。エビ、カニそのものは当然のことながら、微量のエキスが混入した出汁、さらには削り節や昆布の製造ラインにおいて甲殻類が混入した可能性のある食材すら、喉の粘膜を腫れ上がらせ、アナフィラキシーショックを引き起こす危険性があります」


「命に関わるリスクか……」

誠一郎の表情が引き締まる。


「はい。一般的な料亭では『エビとカニを料理から外す』程度で済ませがちですが、それでは不十分です。千代乃の料理長には、利尻昆布の特定等級品と、専用の保管庫で管理された本枯節のみを用いて、九条副頭取専用の一番出汁を一から引かせます。醤油やみりんの醸造元に至るまで、アレルゲンフリーが証明されたロットのみを使用させます」


佳乃はタブレットを取り出し、すでに自らの手で書き上げていた『千代乃向け 厳格食材調達・調理指示書』のPDFを、誠一郎と梶原の端末へ送信した。

三ページに及ぶその指示書には、使用可能な食材リスト、調理器具の熱湯消毒プロトコル、さらには盛り付ける漆器の指定に至るまで、一切の隙なく記載されていた。


「準備は以上です。……これより、千代乃の女将へ連絡を入れ、現地の下準備に入ります。代表、梶原COO、プレゼンテーションの数字の詰めをお願いできますでしょうか」

「……ああ、分かった。任せてくれ」

梶原はすっかり佳乃のペースに巻き込まれ、頼もしそうに頷いた。


誠一郎は立ち上がり、佳乃の正面へと歩み寄った。

その切れ長の瞳には、言葉以上の深い信頼が湛えられている。


「頼んだぞ、佳乃。我が社の未来は、今夜の君の差配にかかっている」

「はい、誠一郎様。必ずや、最高の舞台を整えてみせます」


◇


午後五時三十分。

夕闇が静かに街を包み込み、赤坂のオフィス街にビル風が吹き抜ける頃。

表通りの喧騒から一本奥へ入った、黒塀と石畳が続く閑静な路地裏に、佳乃の姿があった。


南青山で手に入れたチャコールグレーのスーツの上に、薄手のトレンチコートを羽織った佳乃は、打ち水が撒かれたばかりの石畳を凛とした足音を立てて進む。

突き当たりに現れたのは、暖簾も看板も掲げられていない、重厚な数寄屋造りの門構え。

知る人ぞ知る、政財界の奥座敷――老舗料亭『千代乃』だった。


格子戸を開けると、着物姿の女将が三つ指をついて佳乃を迎えた。


「お待ち申し上げておりました、佳乃さん。……お電話をいただいた時は驚きましたけれど、お元気そうなお顔を拝見できて安心いたしました」

「女将さん、急な無理をお願いして申し訳ありませんでした。先代が亡くなり、ご挨拶もままならず……」

「滅相もございません。剛造会長には、店が傾きかけた折にどれほどのお力添えをいただいたか……。そして、いつも細やかなお心遣いをくださった佳乃さんの頼みとあれば、千代乃の看板にかけて、お断りする理由などございませんわ」


女将は佳乃を促し、手入れの行き届いた中庭を望む渡り廊下へと案内した。

廊下の先、離れにある『萩の間』の障子が開け放たれている。


佳乃は部屋に足を踏み入れ、まず深く息を吸い込んだ。

鼻を利かせる。お香の匂いは強すぎないか。

わずかに漂う白檀の香りは、微かで、料理の香りを決して邪魔しない絶妙な按配に焚き染められていた。


続いて、コートのポケットから取り出した小型のデジタル温湿度計を、掘りごたつの天板の上に置く。

液晶画面に表示された数字は――『温度:二十二・四度 湿度:四十八%』。

「……完璧です。女将さん、素晴らしい空調管理をありがとうございます」

「佳乃さんのご指示通り、一時間前からエアコンの風向きを格子天井に向けて拡散させ、直接風が肌に当たらないよう調整いたしました」


佳乃は床の間へと視線を向けた。

黒漆の床板の上に、備前焼の小ぶりな花入れ。そこに、静かに花弁を閉じた、純白の椿が一輪だけ、凛として生けられていた。

華美な装飾を排し、ただそこに静寂と追悼の祈りを宿した佇まい。


「……料理長はいかがでしょうか」

「ええ。指示書通り、九条様専用の調理器具をすべて煮沸消毒し、別室の小厨房で出汁を引いております。利尻の昆布も、佳乃さんが指定された昨年の秋獲れの特級品を開けさせました」

「ありがとうございます。……これで、お迎えする準備は整いました」


佳乃は床の間の白椿に向かって、静かに一礼した。

七年間、先代の影として培ってきたすべての知恵と人脈。

それを今夜、自分を正当に評価し、愛し、隣に立たせてくれた鷹司誠一郎のために、余すところなく注ぎ込む。


格子戸の外から、重厚なハイヤーのエンジン音がかすかに響いてきた。

時刻は午後六時十五分。

財界の女帝・九条雅恵が、この完璧な迎撃態勢の敷かれた罠へと、足を踏み入れようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。