6)アリスガワリンドウ
男の官僚は、あまりの光景に嘔吐し、地面に這いつくばっている。 一方、女の官僚は、死の恐怖に全身を震わせながらも、手にしたタブレット端末を盾にするように胸に抱え、碧い瞳の怪物――少年を凝視していた。
「……おじさん、おばさん。なんでそんなに震えてるの? 警備、お疲れ様」
少年の声は、どこまでも無垢で、透き通っていた。 女は、喉の奥から絞り出すように声を上げた。
「……あなた……あなたは、一体、何なの……!」
少年は少しだけ困ったように首を傾げた。 自分は何者か。そういえば、冬眠(の体裁)の間に、脳の奥底にあるアーカイブから「自分を指す言葉」を一つだけ見つけていたのを思い出した。
「俺? ……俺はね、えーっと」
少年は、ぶかぶかの袖を背中で組み、少しだけ得意げに胸を張った。 創造主が名付けた「器」の名前。それを自分なりに噛み砕き、この星の言語に翻訳した結果。
「俺は、ヨシツネ。……そう、源義経だ」
かつてこの星のどこかにいた、戦の天才にして、悲劇の英雄。 少年の脳内アーカイブは、圧倒的な武力と異質さを象徴するラベルとして、その名前を選び取った。
「義経……? 鎌倉時代の……?」
女が呆然と呟くと、少年は嬉しそうに何度も頷いた。
「そう! 詳しいね! やっぱり警備員さんは頭がいいな。だからね、ヨシツネがこれから冬眠明けの散歩に行くから、おじさんたちは案内してよ。あ、その前に『おまるさん』に挨拶していく?」
足元に広がる惨劇を「散歩の前の準備」程度にしか思っていない少年の言葉に、二人は言葉を失う。 警察署長の標本を見せれば、この二人の精神は完全に壊れるかもしれない。だが、少年——自称・義経にとって、それは最上の「おもてなし」のつもりだった。
少年の指先が、湿った岩肌に触れる。 その瞬間、世界から一切の振動が消失した。
「3つ目の時間」の起動。 それは、あちらの惑星で過去に3人の天才が到達し、そして絶命した禁忌の領域。 彼らは呼吸を忘れたわけではない。肺を膨らませようにも、周囲の空気が絶対的な静止によってダイヤモンドよりも硬く凝固し、酸素を取り込むことさえ物理的に不可能になったのだ。 瞬きをしようとした瞼も、流れようとした血液も、その次元の「絶対停止」に囚われ、一ミリも動かすことができない。 彼らは、時間が再び動き出すための「生贄」のように、その静寂の中で確実に死が確定する瞬間まで、彫像として固定された。そして、彼らが生命活動を完全に停止した瞬間にだけ、時間は再び残酷に動き出した。
だが、この「オニ」の少年だけは違った。 凝固した空気の中でも、彼の細胞は次元の隙間をすり抜け、活動を続けている。
(……ああ。やっぱり、川だ)
少年は、止まった時間の中で、岩の記憶に触れていた。 アリの巣のように入り組んだ水路を、かつて猛烈な勢いで突き進んでいた奔流の残響。今は細い岩清水に成り果てていても、この場所の本質は「川」なのだ。
カチリ、と音がしたかのように、世界が再び色と音を取り戻す。 黒川は、自分が今、酸素すら存在しない死の静寂の中に数秒間閉じ込められていたことなど、微塵も気づいていない。
「……そっか。あんた、昔はもっとすごかったんだね。今はこんなに細いのに」
少年は、指を岩から離すと、何事もなかったかのように黒川を見上げた。 彼女が名乗った「クロカワ」という名は、この硬直した時間の層を貫いて少年に届いた、この土地の真実の響きだった。
「……アリのスガワ……」
少年は、先ほど触れた岩肌の記憶——アリの巣のように入り組んだ川の記憶を口にしようとした。しかし、3つ目の次元から戻ったばかりの肺はうまく空気を取り込めず、その言葉は「有栖川」という高貴な響きとなって、黒川と、ようやく立ち上がった男の耳に届いた。
「有栖川、というのか?」
四つん這いから復帰した男——アイ・マサヒコが問い直す。
「下の名前は?」
下の名前? 少年は困惑した。概念がわからない。だが、ここで黙り込むのは「カッコ悪い」という本能が働いた。少年は窮余の一策として、問いに問いで返すという悪手を打つ。
「……おじさんには、名前はないのか?」
「私はアイ・マサヒコという。ラブ(愛)じゃない、藍色の藍だ。マサヒコは……」
続く説明を、少年は「何の参考にもならない」と切り捨て、一切聞き流した。それよりも、隣の「カワ」のことが気になった。
「そっちは?」 「ひまりです。ひまわりから取って名付けたと聞いています」
ヒマワリ。それは少年も知っていた。植物だ。 少年は確信した。この星では「下の名前」には植物を採用するのがルールなのだと。
「なあ、アイちゃん。あの木は何だ?」 「松ではないでしょうか」 「主任、あれは杉です」
黒川の冷静なツッコミを、少年は「杉だってよ」と雑に処理し、次に足元の花を指差した。
「じゃあ、あれは?」 「私は植物には興味がなくてね、知らないんだ」 「あれは竜胆です。この時期に咲くのは変ですが、間違いありません」
黒川の答えを聞いた瞬間、少年は間髪入れずに宣言した。
「……そうだ」
アイが怪訝そうに尋ねる。
「何がそうだね?」
「この子の下の名前ではないでしょうか」
黒川の推測に、少年は自信満々に被せた。「そうだ!」 金髪碧眼の美少年が、泥だらけのボロボロの子熊の皮を着て、凛として名乗る。
「有栖川竜胆……。黒川、すぐに宮内庁へ連絡を入れろ。この出自、ただ事ではないぞ」
アイが色めき立ち、黒川が無線を飛ばす。その待ち時間、少年はふとした疑問を口にした。
「……海から日が昇るなら、あっちが『西』だよね?」 「いや、君が言う海は太平洋だろう。だとしたら正しく『東』だ」
少年は絶句した。自転どころか、方角の定義まで逆だなんて。あまりのショックに、その場から逃げ出そうとした少年の動きを、黒川がするりと回り込んで遮った。
「返事が来ました。宮内庁の把握分には、該当する白人の少年はいません。公家や皇族の縁者にも心当たりはないとのことです」 「よし、ならば北海道から東北、西に海がある自治体へ片っ端から当たれ! どこかの名家から攫われた可能性もある」
アイの号令とともに、上空には応援のヘリの爆音が響き始めた。 自衛隊の増援部隊が周囲を完全に固める中、有栖川竜胆と名付けられた「オニ」は、ボロボロの子熊の姿のまま、筑波の研究所――人類が彼を「解体」しようと待ち構える檻へと運ばれることになった。
「有栖川さん。……あ、いえ、竜胆くん。あなたの名前、書類にはどう記載しましょうか? この星には『漢字』というものがあって、同じ響きでも意味がいくつもあるのです」
少年の並列思考回路が、提示された膨大な文字の羅列を見て火花を散らした。 線が多い。あまりに複雑だ。しかも、一つ一つの文字に重苦しい意味が込められている。
(なんだこれ、アリの巣どころか、神経細胞の断面図よりややこしいじゃないか!)
パニックになりかけた少年の瞳を、黒川が静かに、しかし力強く覗き込んだ。
「『竜胆』。……あなたのその、凛として、一本の道を進むような佇まいから。……凛とした道、『凛道』とするのはいかがでしょうか?」
その言葉の響きは、少年の耳に心地よく届いた。 「凛道」。この星で、自分がどう振る舞うべきかを示す「設計図」のように聞こえたのだ。
「……それだ! それがいい。凛道。俺は凛道だ!」
少年が身を乗り出して「凛道」の文字に飛びついたその瞬間、横で黙って資料を読んでいた藍が、眼鏡を指で押し上げながら低く呟いた。
「……今、思いっきり飛びついただろ」
「え?」
「今しがた『下の名前は何だ』と悩んで、適当に花を指差して決まった名前に、今、この瞬間に自分で納得して飛びついただろ。君、やっぱり今作ったばかりの名前じゃないか」
少年の肩がビクリと跳ねた。 「カッコ悪い」ことを最も嫌う彼にとって、この藍という男の、隙を突くような鋭い観察眼は極めて厄介だった。
「……ち、違うよ! 漢字ってのが、その、あまりに凛々しかったから、つい……」
「主任、あまりいじめないでください。彼なりに馴染もうとしているのですから」
黒川の助け舟に、少年は「その通りだぞカワさん!」とばかりに大きく頷いた。 だが、藍は冷ややかな目で少年を見つめたまま、手元の端末にメモを走らせる。
「有栖川、凛道。……ふん、まあいい。その仰々しい名前が、筑波の解剖台の上でどれだけ維持できるか見ものだ」
「解剖」という不穏な単語が、少年の耳に届く。 少年は、窓の外を流れる「逆向きの景色」を眺めながら、自分の名に決まった『凛道』という文字を、脳内の壊れた辞書に大切に書き加えた。




