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【オニ】を内包した不思議な老人の魂  作者: 桃井ルルール
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5)撃てぇ♪

 数日後。  命からがら逃げ帰った男たちの証言は、ふもとの警察署に持ち込まれた。 「弾が効かねえんだ!」「笑いながら歩いてきやがった!」  錯乱状態で繰り返される報告を、警察署長は苦々しい顔で聞き流していた。


「熊一頭に何を怯えている。猟師がだらしねえから、次は我々の出番だということだ」


 そして。  秋の冷たい風が吹く頃、山に「二次襲撃」の号令がかかった。警察の精鋭たちが、署長の指揮の下で山へと分け入る。


 少年は、それを洞窟の入り口で待っていた。  すでに『解体新書』の知識は、人体の構造を組み上げる準備を整えている。


 ついに、少年と署長が対峙した。  署長は、ボロボロの綿を吹き出した奇怪な子熊を前にして、極限の緊張から叫び声を上げた。


「総員、構えろ! 撃てぇ――っ!」


 その瞬間だった。  少年の脳裏に、かつての惑星の記憶が鮮烈にフラッシュバックする。  腕を高く掲げ、指をピンと伸ばし、口を大きく開いて「撃てぇ!」と叫ぶ署長の姿。  それが、少年には何よりも美しい。


「……見つけた。それが、一番いい」


 少年が指を弾いた。  警察官たちが引き金を引くよりも早く、少年の白い指先が署長の胸元を、まるで水面に触れるような軽やかさで貫いた。  心臓を、一瞬で。


 他の警官たちがパニックで退却し始める中、少年は倒れようとする署長の体を念動力で支え、その「叫びのポーズ」を固定したまま、静かに洞窟へと引きずっていった。


 数時間後。  洞窟の最奥、シカやキリン(野うさぎ)が並ぶ特等席に、新しい標本が加わった。  内臓はすべて抜かれ、骨と皮を完璧に繋ぎ合わされた男。  彼は死してなお、右手を高く掲げ、美しい姿で、少年の蒐集室を飾ることになった。


洞窟の奥、最深部の特等席。  少年は、出来上がったばかりの「人間」の標本を、丁寧に、まるでお気に入りの人形を扱うように壁際に立たせた。


 一度は全てを取り払い、中身を空にして、超科学の知識で骨格を組み直した署長の体。だが、少年はそこで作業を終えなかった。  彼は足元に脱ぎ捨てられていた、泥ひとつついていない紺色の警察制服を拾い上げると、もう一度その「標本」に着せ直し始めたのだ。


「……うん、やっぱりこれがないとな。こっちの方が、なんだか誇らしげでいい」


 ボタンを一つずつ、上までキッチリと留める。  シワを伸ばし、階級章の歪みを直し、最後にあの帽子を、少しだけ角度をつけて被らせる。


 完成した標本は、右手を高く天に掲げ、指先までピンと伸ばした、あの瞬間の姿。  大きく開かれた口。  少年には、それが「撃てぇ!」という殺意の号令ではなく、この世界の美しさを賛美するようにしか見えなかった。


「よし。これで完璧だ」


少年は満足げに、ボロボロになった自分の子熊ウマの腹を叩いた。  穴だらけの毛皮が、もう気にならない。  隣には「シカ(馬)」が、その横には「キリン(野うさぎ)」とブタ(イノシシ)が、そして中心には、制服を着た「署長」が並んでいる。


 洞窟の外では、いよいよ雪の匂いが濃くなってきた。  ふもとの方では、警察からバトンを受け継いだ**「自衛隊」**が、物々しく山を囲み、バリケードを築き始めている。


「……へぇ、すごいな。俺が冬眠するからって、あんなにたくさん見張りを立ててくれるのか。親切なんだな、この星の人間は」


 少年は、彼らが「立ち入り禁止」の看板を立て、誰も山に入れないようにしているのを、自分への「おもてなし」だと完全に誤解していた。  彼は標本になった署長の肩をポンと叩くと、奥の横穴へと潜り込む。


「じゃあ、俺、寝るから。春まで誰も通さないでね、制服さん」


 静かな洞窟。  自衛隊という名の「警備員」に見守られ、少年は冬眠という名の体裁を整え始めた。  来たるべき春、雪が解けた時に行われる「自衛隊全滅」という凄惨な鬼ごっこのことなど、今はまだ、誰も知らない。


少年は、制服のシワを最後にもう一度だけ丁寧に伸ばし、満足げに標本を見上げた。  右手を掲げ、口を大きく開け、永遠に最高の「撃てぇ」を続ける、制服の男。


「よし。……えーっと、こういう服の人のことは、なんて呼ぶんだっけ。確か、もっと身近な呼び方があったはずだ」


 少年は、子熊ウマの頭を指でトントンと叩き、脳内の「記録」を検索する。  おま……おま……。


「……あ、そうだ。おまるさんだ。そうだよ、おまるさんだ」


 少年にとって、その言葉が何を指すのか、本来の正しい意味なんてどうでもよかった。その響きが、今この場所にぴったりだという確信。ただそれだけで、この偉大な「撃てぇ」の名前は決まった。


「よろしく頼むよ、おまるさん。俺が寝てる間、誰も中に入れないでくれよな」


 少年は、標本となった「おまるさん」の足元に、まるで守り神に祈るような気軽さで語りかけた。    外では、自衛隊が「立ち入り禁止」のテープを張り巡らせ、冬の嵐に備えて陣地を固めている。少年は、その様子を洞窟の隙間から眺め、自分を守るために集まった大勢の「警備員」たちの熱意に感心していた。


「みんな、俺の冬眠のためにあんなに頑張って……。本当に、いい人たちだな、この星の人間は」


 少年は、洞窟の奥に自分だけの寝床を作ると、ぶかぶかの毛皮に身を包んで横になった。  隣には、歌う「おまるさん」。  その向こうには、シカやキリン(野うさぎ)の骨。    雪が降り積もり、山の音をすべて飲み込んでいく。  「自衛隊を全滅させる」という春の予定も、その後に続く「内閣官房室の男女」との出会いも、今はまだ、真っ白な雪の下に隠れている。


「おやすみ、おまるさん」


 少年は、呼吸もせずに、静かな眠り――冬眠という名の「体裁」へと入っていった。


空から降ってくる、冷たくて、白くて、静かな欠片。  少年は、子熊ウマの穴だらけになった袖を差し出し、そこに結晶が溜まっていくのを小一時間も眺めていた。


「……なんだ、これ。雨ならわかる。濡れるし、冷たいし。でもこれは……なんて呼んだんだったっけなぁ」


 並列思考回路が、ノイズ混じりの記憶を必死に繋ぎ合わせる。  この冷たさ。この儚さ。そのイメージに合致する「言葉の断片」が、脳の奥底から唐突に浮上した。


「……あ。アメユジュトテチテケンジャだ」


 かつての文豪が詩に綴った、死にゆく妹が求めた雪の音。そのあまりに詩的で、あまりに長すぎるフレーズが、少年の「壊れた辞書」の中では「雪」という現象を指す唯一の単語として固定されてしまった。


「うん? なんか長すぎるような気がするな……。まあいいか。これはアメユジュトテチテケンジャだ。間違いない」


 少年は満足げに頷くと、洞窟の奥で『おまるさん』に向かって声をかけた。


「おい、おまるさん。外はアメユジュトテチテケンジャだぞ。あんたも濡れないように気をつけなよ」


 その言葉を境に、山は本格的な冬の静寂に閉ざされた。  洞窟を囲む自衛隊員たちは、寒さに震えながら、防雪服の隙間から「立ち入り禁止」の向こう側を監視している。  彼らが必死に耐えているその白い悪魔を、少年は「アメユジュトテチテケンジャ」と呼び、春が来るまでの長い、長い眠りのための子守唄に決めたのだ。


 穴だらけの子熊の皮、  おまるさん、  そして、降り積もるアメユジュトテチテケンジャ。    少年の「冬眠」の舞台は、これ以上ないほど奇妙に、そして完璧に整った。


山は、深い深い雪の色に染まった。  自衛隊員たちは、交代で洞窟の入り口を監視しているが、彼らが知る由もない。洞窟の奥では、少年の「冬眠」が、人間の想像とは全く違う形で行われていることを。


 少年は、眠ってはいなかった。  呼吸も必要なく、代謝も最低限で済む彼の「器」にとって、睡眠は必須ではない。彼はただ、ボロボロになった子熊ウマの皮にくるまり、暗闇の中で碧い瞳を開き続けていた。


「ねえ、おまるさん。退屈じゃない?」


 時折、少年は「歌う標本」に話しかける。  おまるさんは、真っ暗闇の中でも右手を天に掲げ、叫びのポーズを崩さない。その制服の隙間に、時折少年の超科学的な「調整」が入り、標本は腐敗することもなく、ただの物体として完成度を高めていく。


 少年は、洞窟の隙間から漏れ聞こえる自衛隊の無線機のノイズを、子守唄代わりに聞いていた。  警察が去り、自衛隊がこの場所を「管理」し始めたことなど、少年にはどうでもいいことだ。彼にとって、外にいるのは「冬眠の邪魔をしないように、自分を守ってくれている親切な人々」でしかない。


 そんな「誤認」に満ちた平和な冬が、ゆっくりと過ぎていく。  少年は、自分の体の中で「鬼」が静かに力を蓄えているのを感じていた。  春が来て、アメユジュトテチテケンジャが水に変わる頃。  彼は、この親切な警備員たちにお礼を言うために、外へ出るつもりだった。


「春になったら、みんなで鬼ごっこしようね、おまるさん」


 少年の無邪気な約束が、凍てついた洞窟に反響する。  その春の「挨拶」が、自衛隊にとっての終焉になることを、少年だけが楽しみに待っていた。


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