4)陽は昇る
洞窟の奥で、少年は自分の指先をじっと見つめていた。 脳内の「記録」が、時折チリチリと火花を散らす。それは地球の古い医学書などではなく、かつて遥か彼方の惑星で、一瞬で細胞を再構築していたような「超科学」の断片だった。
「……これをこう繋げば、もっと『効率』が良くなるのに」
昨日、少年は初めての「作品」を完成させた。 鬼ごっこの最中に、ほんの少し指先に力が入りすぎて首を折ってしまったシカ。それを『解体新書(超科学)』の知識をなぞって、内臓は全部タヌキ(キツネ)に振る舞い、骨だけを完璧なバランスで繋ぎ合わせた標本。 洞窟の奥に鎮座するその異様に美しい骨を見つめながら、「シカってこうだったかな?」と首を傾げたのが昨夜のことだ。
少年は、拾ってきたシカの死体から骨を手に取る。 彼はそれを**『シカ』**と正しく認識した。しかし、彼がその骨を繋ぎ合わせる手法は、自分の内側にある知識を「解体新書」と誤認していたが、実際にはもっと恐ろしく、高度な何かが、彼の指先を動かしている。地球の「解体新書」とは絶望的にズレていた。 関節の可動域を無視し、まるで精密機械の配線を組み替えるように、骨と骨を未知の論理で接合していく。
とある朝、少年は見てしまった。海から太陽がのぼるのを。水平線の彼方、深い青から燃えるような朱へと空が染まり、眩い太陽がゆっくりと海から競り上がってきた。
「はあぁぁ?」
少年は、呆然と固まった。 次の瞬間、静かな森に似つかわしくない、引きつけを起こしたような笑い声が響き渡った。 昨日まで、命の構造(シカの骨格)をあんなに真剣に弄り回していたのが嘘のように、少年は腹を抱えて笑い出した。
「おいおいおい! ここはホントにどこなんだよ! 海は日が沈むとこだろ! なんで海から日が昇ってくんだよ……あーはっはっはっ! ダメだ、苦しくなってきた……!」
腹を抱えて笑い転げ、地面を転げ回る。子熊の皮が雪だるまのように泥にまみれるが、お構いなしだ。 あまりの笑いすぎに、ふと、ある違和感に気づく。 どんなに激しく笑っても、肺が焼けるような感覚も、酸素を求める喘ぎもない。
「……あ、俺、息してないっぽいなこれ」
少年は、自分の喉に手を当てた。 肺に空気を取り込むためではなく、ただ「声」という音を出すために、声帯を震わせる「空気の流れ」だけを器用に作り出している自分の体。
「あーはっはっはっ! 俺、ナニ人だよ! 呼吸すらしてねえのかよ! あーおかしい、絶対おかしいわ。この星、自転が反対に回ってるんだな、きっと! あーはっはっはっ!!」
誰一人いない山の中で、ぶかぶかの子熊が一人、宇宙規模の勘違い(あるいは彼なりの正解)を抱えて笑い続ける。 かつての住処では「海は西」だったのか、それとも単なる記憶のバグか。 空っぽの器の中で、並列思考回路は「自転の逆転現象」についてのデタラメな理論を高速で構築し、もう一方では「息もしてない自分」の滑稽さを嘲笑っていた。
一日中、少年は笑っていた。 鳥が逃げ、タヌキ(キツネ)が遠巻きに怯える中、彼はこの「おかしな星」での生活を、心底愉快に感じていた。
地面に転がり、ぶかぶかの子熊の腹を揺らす。 昨日、シカを解体した時に見た「肺」や「気管」の構造。それと引き比べ、笑い続けても全く苦しくならない自分の喉の仕組みを思い出し、彼はさらに可笑しさが込み上げた。
夏の終わりのある日、少年は猛スピードで突っ込んでくる巨体と出くわした。 鼻の形、その猛々しい突進。少年は迷わず叫んだ。
「うわっ、なんだよ。このブタ、速いな!」
だが、次の瞬間、彼は動きを止めて眉をひそめた。 脳の奥底に、どうしても拭えない強烈な「記録」がこびりついている。ブタ、それは誇り高く、鮮やかな「真紅」を纏った存在であるはずだった。
「……おかしい。なんで赤くないんだ?だから飛べないんじゃないのか?」
目の前のイノシシは、どこまでも泥臭い茶褐色だ。少年の中で「ブタ=真紅」という定義が揺らぎ、またしてもこの星の不条理さに頭を抱えたくなる。
「あーあ、自転も逆なら、ブタの色も手抜きかよ。……まあいいや、お前も鬼ごっこだ!」
「鬼」という言葉が口をついた瞬間、背骨の奥にある回路が熱を帯び、少年の碧い瞳がギラリと輝く。 真紅ではないブタ(イノシシ)の突進を、少年はぶかぶかの子熊の姿で、軽やかに——しかし内側から溢れ出す圧倒的な力で迎え撃った。赤く無く飛べもしない豚も標本室の飾りに加わった。
夏が終わりを告げようとする、風の強い日だった。 少年は、まだ陽光を弾いて美しく輝く、ぶかぶかの子熊の毛皮を揺らしながら、沢沿いを歩いていた。
ふと、並列思考の片隅が、異質な音を捉えた。 カチャリ、という、硬い金属同士が噛み合う音。
「……あ、新しい『鬼』が来た」
少年が顔を上げた先、藪をかき分けて現れたのは、オレンジ色のベストを着た猟友会の男たちだった。彼らは、目の前に立つ「二本足で立つ子熊」を見て、恐怖に顔を歪める。
「出たぞ! 人を喰ったっつう、あの狂い熊だ!」 「撃て! 撃っちまえ!」
少年は、彼らが手に持っている長い筒——散弾銃を、好奇心のままに見つめていた。 彼にとっては、それもまた「鬼ごっこ」の道具にしか見えなかった。
「あはは、それ何? 棒きれ……」
少年の言葉が、轟音にかき消された。 ドンッ! という衝撃。 一発、二発。散弾の礫が、至近距離から少年の体に叩きつけられる。
本来なら、肉を裂き、内臓をズタズタにするはずの衝撃。 だが、少年の「器」はびくともしなかった。ただ、大切にしていたぶかぶかの毛皮が、火花を散らして無惨に弾け飛ぶ。
「……あ」
少年は、自分の胸元を見た。 美しかった毛並みは一瞬で焼け焦げ、あちこちに穴が開く。 中身である彼の「白い肌」には、赤い傷一つついていない。だが、外側の「ウマ(クマ)」は、一瞬でボロボロの、ゴミ溜めから拾い上げてきたような姿に成り果てた。
「……ひどいな。せっかく綺麗だったのに」
少年は、穴だらけになった袖を悲しそうに持ち上げた。 男たちは、顔面を蒼白にして震えている。全力の散弾を浴びて、悠然と立ち止まり、服(皮)の心配をしている化け物を見て、腰を抜かさない人間はいなかった。
「……でも、いいよ。これが遊びなんだろ?」
少年の瞳の奥で、光学的紋様が静かに回転を始める。 「鬼ごっこ」。 その言葉が、ボロボロになった毛皮の隙間から漏れ出した瞬間、山の空気は一変した。
穴だらけになり、焦げた匂いを漂わせる「子熊」の姿は、もはや可愛げのある玩具などではなかった。それは、悪夢の中から這い出してきた異形そのものだ。
「……あは。これが、この星の『鬼ごっこ』か」
少年は、あえて素早くは動かなかった。 逃げ惑う男たちの背中を、一歩、また一歩と、重い足取りで追い詰めていく。逃げる側にとっては、その「ゆっくりとした接近」こそが、どんな高速の追跡よりも心臓を削り取る恐怖となった。
「ヒッ……! くるな、くるなあああ!」
男たちは、空になった銃を投げ捨て、なりふり構わず山を駆け下りた。ある者は斜面を転がり落ち、ある者は泥に顔を突っ込みながら、ただひたすらに「人里」という名の光を目指した。 少年は、彼らをあえて仕留めなかった。 逃げる背中を見送るたびに、彼の「鬼ごっこ」の熱は、静かに、しかし確実に上昇していく。




