3)ウマー
深い眠ったふりを破ったのは、親熊の荒い鼻息と、肩に食い込む爪の感触だった。
「んん……何だ? お前が俺を起こしたのか?」
少年が目をこすりながら起き上がると、親熊は容赦なくその鋭い爪を少年の裸の胸元に叩きつけた。だが、火花が散るような音がしただけで、白い肌には赤み一つ付かない。
「ぐわぁおー!」
親熊は丸太のような腕を少年の小さな頭めがけて振り下ろした。しかし、パァンと乾いた音が響くだけで、少年の首はびくともしない。
少年はゆっくりと身を起こした。 自分が誰なのか、なぜここにいるのか、記憶の糸はすべて断ち切られている。
「何だようっせーなぁ。それなら俺だって……ぐうおー! どうよ」
少年の威嚇に、親熊は怯むどころか猛然と胸を突き出してきた。いい加減にしなさい、と少年は鬱陶しそうに、右の手の甲で親熊の胸元を軽く、本当に払うように「タッチ」した。
――ズドォォンッ!
それは、少年の意図した「静止」とは程遠い物理現象だった。 触れた瞬間に衝撃波が親熊の胸元から背中へと突き抜け、巨体は風船が裂けるように爆散した。周囲の木々に鮮血と肉片が飛び散り、一瞬にして森の静寂が、生臭い霧に包まれる。
「ほえっ……何じゃそりゃぁ」
自分の手の甲をまじまじと見つめる少年の前で、今度は子熊が「ガオー」と頼りなく吠えた。
「ガオーじゃないだろ。お前の父ちゃんだか母ちゃんだかが死んじまってるのわかってるのかよ」
「……ガオー」
「だからいい加減にしなさいってば」
今度はさっきよりもさらに力を抜き、震える子熊の頭に軽くチョップを食らわせた。だが、創造主が作った「丈夫すぎる」腕は、その手加減ですら子熊の頭蓋を「めきょっ」と容易に陥没させた。 そのまま後ろに倒れ、動かなくなる子熊。
「なんだぁ……ウマってこんなんで死ぬもんだったっけ」
前世の記憶が混濁している少年は、目の前の死体を「馬」だと思い込んでいた。彼は暇つぶしに、その「ちっこいウマ」を解体することに決める。 岩の隙間から湧き出る清水の元まで引きずり、少年の指先はナイフよりも鋭く、軽々と背中の皮を引き裂いた。背骨を掴んで一気に引き抜く。内臓はその辺に放り投げた。
近くでは、一匹のキツネが物欲しそうにこちらを伺っている。
「ああ、わかるぞ。わかる。お前は確か……『キ』がつくよな、な。んーっと、キリンか?いやキリンは何かが長い。ああ、タヌキだな。ははは、それ食いたきゃ食っていいぞ」
「タヌキ」と呼ばれたキツネが子熊だった肉を貪り始めるのを横目に、少年は剥ぎ取った皮を水で洗い、枝にぶら下げる。 手元に残った頭部の骨を、立体ジグソーパズルのように組み立てて遊び始めた。
創造主は生物が「食べる」ことも「寝る」ことも知らなかった。 だから少年は、10歳の姿のまま、血の匂いの中でただ無心に骨を弄んでいる。
透き通るような白い肌に金髪。そして、北国の空を切り取ったかのような深い碧の瞳。 創造主――この器を創り上げた者は、宇宙の理や星の運行を完璧に操れても、人間という生物がその土地の風土にどう溶け込むべきか、その「内側」の機微を何一つ理解していなかった。
東北の山奥に、日本語しか解さぬ金髪碧眼の子供。 それはあまりにも不自然で、残酷なほどに目立つ「異形」だった。
「…………」
声を出してみるが、言葉は意味を成さず、ただの音として空気に溶ける。 少年は、自分の内側に「何か」がもう一つ存在していることに気づいていない。情報化され、少年の存在と分かちがたく紐づけられた、あの金髪の女性体のことも。
だが、その体には、創造主が「オニ」を封じ込めるために施した、超常的な強靭さが宿っていた。 飢えを知らず、熱さ寒さを寄せ付けず、物理的な破壊を拒絶する。 少年は、自分がかつて「老人」であったことすら忘れ、ただ生存の本能だけを頼りに、その日から深い森の奥へと潜んでいった。 人との接触を断ち、ただの「山の獣」として、この美しくも呪われた器を使いこなし、生き延びるために。
その頃、麓では「巨大な熊の唸り声と、聞いたこともない破裂音がした」という通報を受け、猟友会の面々が銃を手に山へと足を踏み入れようとしていた。
翌日。ぶかぶかの子熊――その中身である少年は、岩の上で胡坐をかき、おぼろげな情報の断片を反芻していた。
「確か……世界のどこかでは、生まれたばかりの赤ん坊に、言葉より先に『思念波』を教えるんだったっけか」
少年は、子熊の口の暗がりから碧い瞳を凝らし、周囲の空気に意識を向けた。 さっきから、自分以外の何者かへ向けて無言の呼びかけを繰り返している。だが、森の木々からも、遠くの獣からも、これといった応答はない。
(ん?腹減った……だろうか? それとも、なんか食べたい……か?何者かの反応があるな。タヌキ辺りかもな)
自問自答するように念じると、脳の深部でかすかな「反応」があった。 思念波というものは、発信者の意図よりも、受信者がそれをどう解釈するかにかかっている。 誰かが言っていた記憶がある。「おおよそ三歳までに、六感の基本三種を覚えないと、多重思考にはならない」と。それがいつ、誰から聞いた言葉なのかは思い出せないが、知識として脳の隅にこびりついていた。
「……三歳って体じゃねえもんな。まあ、やってみるか」
少年は、足元に転がっていた石ころを拾い上げ、手のひらに乗せた。 熱を加えるわけでも、物理的に握りつぶすわけでもない。ただ、手のひらを通じ、石の「形状」そのものに直接干渉するイメージを流し込む。 ――ぐにゃり。 「え? できた。なんだ、簡単じゃん」 少年の手の中で、硬い石が粘土のように形を変えた。 創造主は、アンドロイド計画を把握した際、機械の器では到達できない「生身の六感」に対抗心を燃やしていた。ロボットが数値制御で疑似的に行うことを、この「中身のない体」には本能としての三種――思念、念力、念動力の種を植え付けていた。
「じゃあ次は、あの葉っぱを浮かせる……『念動力』ってやつか」
少年は、目の前の枯葉を見つめ、直接触れずに持ち上げようと試みる。 ――重い! ただの葉っぱが、まるで鉛の塊のように意識を圧迫する。 格闘すること二日。真っ暗な夜の森で、子熊の姿をした少年の雄叫びが上がった。
「浮いた! ちょっとだけど、今、浮いたぞ!」
数センチ。確かに枯葉が地を離れた。 しかし、喜びも束の間。ふわりと夜風が吹き抜け、狙っていた葉っぱは呆気なく彼方へ飛んでいってしまった。
「なんだよそれ……俺の力じゃなくて、ただの風かよ」
少年はがっくりと肩を落としたが、実際には成功していた。風が吹く一瞬前、神の設計した「直列・並列思考」の回路が、初めて物理法則に干渉していたのだ。 この「二重思考」の芽生えが、いずれ記憶野の先にある「記録や(記録野)」へと彼を導くことになる。だが実際は創造主がヒューマノイド計画書を把握した際に作りものであるロボット、サイボーグ、アンドロイドでは6感は使えなかったが別の手段で似てることをアンドロイドはできていた。ここに対抗心を持ってしまった創造主は中身のない体を作る過程で3種を与えていた。さっきの葉っぱは成功していたのだ。。並列2重思考、直列思考による記憶野の先にある記録野へのダイブ。
「……致し方なし。寝るか」
少年は、ぶかぶかの毛皮をごそごそと揺らし、また孤独で愉快な「修練」の日々へと戻っていった。




