スパイ防止法2030 ― 彼らは国家の影を狩る
2030年、日本。
「スパイ防止法」が施行されてから、五年。この国は静かに変わりつつあった。
国際企業の裏取引、大学研究室への不正アクセス、官僚へのハニートラップ――。
誰が敵で、誰が味方なのか。その境界は、すでに見えなくなっていた。
政府は警察や自衛隊とは別の、全く新しい組織を作った。その名を――国家特務庁(NIA)。
表の法律で裁けない“影”を狩るための組織だ。
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霞ヶ関の地下深く。エレベーターのドアが開くと、冷たい空気が青年の頬を打った。黒いスーツに、やや大きめのIDカード。
青年の名は――朝倉 勇
今日が初出勤だ。壁のプレートには無骨な文字。国家特務庁 本部。胸の奥が小さく震える。
――本当に、ここで生きていけるのだろうか。
重い鉄扉を押し開けた瞬間、六つの視線が突き刺さった。
「今日から配属の新人か」
低く響いた声の主は、壮年の男。短く刈られた髪、頬には古い傷跡。
所長・レオン・クサナギ。元フランス外人部隊。戦場帰りの男。
彼が軽く顎をしゃくった。
「自己紹介だ。順番に」
最初に立ったのは、黒髪を後ろで束ねた長身の女。
眼差しは刃のように冷たい。
「氷室玲香。格闘・現場担当。空手日本一、ただし性格はもっと冷たいわ」
隣の男が小さく苦笑する。
「公安出身、真壁。警察関係との橋渡し役だ。君、緊張してるな」
「緊張しない新人がいたら、それはスパイだ」
次に、椅子にふんぞり返っていた男が立ち上がる。
「堂嶋。中卒、元ドカタ。腕っぷしと裏社会の顔には自信ある。ま、頭はそこまでだけどよ」
壁際でPCを叩いていた青年が片手を上げた。
「白石です。東大中退。今はネットの裏側で生きてます。ウイルスより速い指、試してみます?」
最後に、スーツ姿の女性が微笑んだ。
「神園玲子。元・政治家秘書。政界との調整役です。汚い話は、だいたい私のところへ」
それぞれが異質で、まるで別々の世界から切り取られたピースのようだった。
朝倉は姿勢を正した。
「……朝倉 勇です。前職はありません。大学を出たばかりで――」
「つまり、経験ゼロね」
氷室が冷たく切る。
「ここは研修所じゃない。死んでも文句を言わない覚悟、ある?」
所長が笑った。
「いいじゃないか。若い脳は、俺たちの錆びた神経よりマシだ」
場の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。だがその笑みの奥に、戦場の光が宿っているのを朝倉は見逃さなかった。
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最初の任務
午後三時。警報が鳴り響いた。
「都内の外資系企業から不審通信! 防衛関連のデータにアクセスあり!」
真壁の報告に、白石がモニターを叩く。
「VPN経由……内部協力者のIDだ。誰かが中から抜いてる」
「現場に行く。真壁、氷室、堂嶋、白石、朝倉――出動だ」
レオン所長の命令は迷いがない。
「え、俺もですか!?」
「新人を現場に出すのが一番早い教育だ。死ぬなよ」
黒塗りの車が首都高を疾走する。雨雲の下、東京湾のガラス塔が近づいてくる。
堂嶋が錠前を開け、氷室が無音でエレベーターを制圧。真壁が通信を繋ぎ、白石が遠隔で監視カメラを奪う。
「サーバールーム、三十二階」
「了解」
氷室のヒールが床を打つ。その瞬間――銃声が鳴った。
「警備員が敵だ!」
堂嶋が盾を構え、朝倉を押し倒す。壁に弾丸が食い込む。
「新入り! 頭下げてろ!」
「は、はいっ!」
氷室が滑り込むように間合いを詰め、拳が閃く。瞬きの間に敵の銃が宙を舞い、床へ転がった。
白石の声がイヤホンに響く。
「データ送信中止! だが……遅い。外部に一部抜かれた!」
「誰のIDだ?」
真壁が問う。
「……庁内のもの。しかも、レベルA権限」
所長が低く唸る。
「戻るぞ。作戦は成功だが、内部に裏切り者がいる」
朝倉は、まだ震える手のひらを見つめていた。さっきまで普通の学生だった自分が、誰かの命を奪う現場にいた――。
「怖いか?」
背後から、氷室の声。彼女は血のついた手袋を外しながら、静かに笑った。
「慣れなくていい。慣れたら終わりよ」
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翌朝。会議室には、昨日の緊張がそのまま残っていた。
スクリーンに映された通信ログ。使用されたIDは――所長コード「01」。
沈黙が落ちる。
「……どういうことだ」
真壁が低く問う。
「誰かが俺の認証を使った。あるいは、俺自身が裏切ったか」
レオンの言葉に、全員の背筋が凍る。
「所長、それは――」
「冗談だ。だが、事実として、モグラはこの中にいる」
氷室が机に手をつき、朝倉を睨む。
「昨日、現場であんたは何を見た?」
「な、何も……僕はただ、指示通り動いて――」
「“ただ”なんて言葉、スパイの口からよく出るわね」
堂嶋が笑って場を和ませようとする。
「ま、こいつが裏切るなら可愛げがねぇ。スパイには見えねえな」
「見えないやつが一番危ないのよ」
氷室の声が低く響く。
沈黙。
空気が張り詰める中、白石が指を鳴らした。
「解析続けます。通信ルートを逆探知すれば、内部の端末が特定できるはず」
「頼む」
所長の声は鋼のように冷たかった。
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夜。
庁舎の廊下を、朝倉は一人歩いていた。ふと、ドアの隙間から灯りが漏れる。
氷室が窓際で、ひとり夜景を見ていた。
「まだ残ってたの?」
「はい……いろいろ、頭の整理がつかなくて」
彼女は窓越しに目を細めた。
「この国には、影が多すぎるの。私たちはそれを狩る側だけど、気づけば自分の影に食われてる」
「食われる、ですか?」
「そう。正義と任務の境界が、いつのまにか曖昧になる。あなたがその境界を越えないことを祈るわ」
氷室の背中が、夜の闇に溶けていく。朝倉は拳を握った。
自分が歩き出した道が、どれほど危険か――ようやく理解した気がした。背後から、所長の声がした。
「お前、後悔してないか?」
「いいえ。……まだ、何も始まってませんから」
レオンは微笑んだ。
「そうか。なら、歓迎しよう。ようこそ――国家特務庁へ」
闇の奥で、電子音が一つ、微かに鳴る。白石の端末が赤く点滅していた。
内部通信――発信元:庁舎内。モグラは、まだそこにいる。そして物語は、静かに動き出した。
翌日、庁舎の会議室には沈黙が満ちていた。空調の低い唸りと、モニターに映るログの光だけが動いている。
「内部端末のアクセス履歴、異常は……三件。時間は昨夜二十三時、二十三時十五分、二十三時二十八分」
白石の指が高速でキーボードを叩く。
「三度目のアクセスが問題です。庁舎内から、防衛相サーバーに“ミラーリンク”が飛ばされた」
「発信者は?」
真壁の声が張りつめる。
「まだ……でも、該当端末は第二資料室のものです」
所長のレオンが椅子を引いた。
「第二資料室――普段は封鎖してあるな」
「昨日まではね」
神園がタブレットをめくり、静かに言った。
「新人の人事書類が保管されていたから、一時的に施錠を解除していたの」
全員の視線が朝倉に向く。
「ま、待ってください! 僕はそんな……」
「言い訳は後。現場を確認する」
氷室が立ち上がる。ヒールの音が床を叩き、朝倉の胸に響いた。
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資料室のドアは半開きだった。室内は暗く、蛍光灯の明滅がちらつく。
「警戒を」
真壁が拳銃を抜く。堂嶋が先に踏み込み、背中越しに声をかけた。
「センサー反応なし……誰もいねぇ。――ん?」
金属臭。机の上に、古いノートPC。画面には英数字が乱れ、通信ログが流れている。
「白石、分析を」
「すぐに」
だが、彼がケーブルを繋いだ瞬間、警告音が鳴り響いた。
「データ消去プログラム作動――」
「クソッ、爆弾じゃないよな!?」
堂嶋が叫ぶ。
「電子的な時限装置だ、外す!」
白石の額に汗が滲む。レオンが静かに時計を見た。
「白石、何秒だ?」
「三十秒……いや、二十五!」
氷室が朝倉を押し退け、机の下を覗き込む。ケーブルが二重に仕掛けられていた。
「カットラインが偽装されてる……!」
真壁が通信を開く。
「庁舎外へ信号が送られてる、誰かが監視してるぞ!」
白石が最後のコードを引き抜いた瞬間――。モニターの光がぱっと消え、静寂が戻った。
数秒後。
白石が深呼吸して言う。
「……止まりました。間一髪、です」
その時、氷室が低くつぶやいた。
「見て」
机の裏。貼り付けられていた小さなICタグには、赤い刻印があった。
――狐の紋章。全員の顔が険しくなる。
「“フォックス”だな」
所長が唸る。
「海外諜報機関のコードネーム。こいつら、ついに日本の心臓部にまで潜ってきたか」
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庁舎の照明が暗転し、非常灯が灯る。
「電力ラインが遮断された! 誰か、外部から侵入してる!」
白石の声が響く。
「堂嶋、正面入口を封鎖!」
「了解!」
氷室は拳銃を抜き、朝倉を庇うように立つ。
「新人、下がって」
耳元で、通信が割れた。
『――こちら監視班! 屋上に複数の影、三名……いや、五名!』
「フォックスの現地工作班か」
真壁が舌打ちした。
「外で迎え撃つ。氷室、白石、朝倉はサーバールームの保護を!」
レオンの声が響く。朝倉は無意識に頷いた。恐怖よりも――胸の奥に、妙な熱が湧いていた。
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階段を駆け上がる。銃声。火花。真壁が壁際に飛び込み、反撃の弾を放つ。
「警備部隊を呼べねえのか!」
「スパイ防止法の領域外だ、俺たちが“影の仕事”をしてるってことは、誰にも知られちゃいけねぇ!」
堂嶋の怒鳴り声に、真壁は笑った。
「つまり、誰も助けに来ないってことだな」
屋上へのドアを蹴破った瞬間、夜風が吹き抜けた。スーツ姿の男たちが五名、サプレッサー付きの銃を構えている。
「……日本語じゃねぇな」
「フランス語だ」
レオンが低く呟く。
「外人部隊の亡霊どもか」
次の瞬間、閃光弾が炸裂した。
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一方その頃――。
地下のサーバールーム。氷室と白石が防御壁を展開していた。
「あと何分持ちます?」
「三分。彼らが外から制御を奪ったら終わりです」
「なら、三分で終わらせる」
氷室の身体が弾けた。金属音。侵入してきた黒服の男が、床に沈む。
もう一人、気配を殺して背後からナイフを振り上げたが、その刃先が触れる前に氷室の肘が喉を砕いた。
「……氷の魔女、ね」
白石が苦笑する。
「その二つ名、伊達じゃない」
氷室は髪を払った。
「呼ぶなって言ったでしょ」
彼女の横で、朝倉が震える指で拳銃を構える。
「僕も……撃ちます」
「撃たなくていい。怖さを覚えてるうちは、まだ人間だから」
そう言って、氷室は次の敵に踏み込んだ。
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屋上では、銃声が止んでいた。煙の中から、レオンがゆっくりと立ち上がる。
肩にかすり傷、手には拳銃。
「生きてるか、真壁」
「なんとか……。こっちは三人沈めた。残りは?」
「一人逃げた」
レオンは拾い上げた通信端末を見つめる。そこに映っていたのは――庁舎内部の映像。
サーバールーム。氷室と白石、そして朝倉の姿。だが、端末の背面には――またしても狐の紋章。
その瞬間、庁舎が微かに揺れた。
「爆薬……!?」
真壁が叫ぶ。
「いや、EMP(電磁パルス)だ!」
白石の声が通信に割り込む。
「外部から、庁舎全体に電子攻撃――!」
モニターが一斉に暗転する。光が、音が、途切れた。
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数分後。非常電源が復旧した。庁舎は半壊、通信系統は壊滅。だが、生存者の確認がとれた。
氷室、白石、真壁、堂嶋、長峰、神園――そして朝倉。
レオン所長は、瓦礫の中からゆっくりと立ち上がった。
「やられたな……だが、奴らは仕留めきれなかった」
神園が小さく頷く。
「フォックスの標的は“データ”じゃないわ。きっと――人間よ」
「人間?」
朝倉が問う。
「“日本を変える種”を潰すため。あなたよ、朝倉くん」
全員が凍りついた。
「まさか……俺が?」
「あなたの家系を調べたわ。祖父は旧防諜庁の情報主任。あなたの脳には、“眠る暗号鍵”が埋め込まれている可能性がある」
朝倉は息を呑む。
「そんな……僕は何も――」
レオンが肩に手を置いた。
「“何も知らない”やつほど、利用されやすい。だが――もう逃げられん」
沈黙。
レオンはゆっくりと口を開いた。
「ここからが本当の任務だ。朝倉、お前を狙う影を狩る」
氷室が頷く。
「いいじゃない。新入りの保護任務なんて久々だわ」
白石がニヤリと笑った。
「お守り代、請求しますよ?」
堂嶋が拳を鳴らし、真壁が銃を点検する。
神園が眼鏡を押し上げた。
「さあ、“狐狩り”を始めましょうか」
朝倉はゆっくりと頷いた。もう迷わない。
国家の影を狩る――それが、自分の生きる場所なのだ。
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朝倉は瓦礫の向こうに立ち尽くしながら、ふと自分の手を見る。震えは残っているが、指先に熱が戻ってきた。熱は恐怖ではなく、希薄な誇りにも似ていた。彼を包んだのは、ただの迷いではなかった。守るべき対象として自分自身を認める瞬間が、確かに訪れたのだ。
レオンがポケットからタバコのように細い電子葉巻を取り出し、先端に火を点けようとした。だが火をつけるのをやめ、代わりに空を見上げた。
「まずは堅く防御を固める。通信系を復旧させるまでは情報が飛ばせない。フォックスは“人”を奪うことで価値を得る。朝倉、お前を盾にするわけじゃない。利用される前に、お前が慣れて利用し返す側になれ。」
氷室が短く笑った。
「口で言うのは簡単ね。やるのは私たちよ。」
白石は薄暗いサーバールームの角で、ほつれたコードを握りしめていた。画面にはまだ断片的に赤い狐のアイコンが点滅している。彼が低く呟く。
「侵入ログを差分解析してみた。奴らの手口は古典的な“ヒューマンブリーチ”に近い。だが微妙に違う。署名が残る意図的な“残骸”がある――我々を誘導するための釣り餌だ。誰かに見せたがっている。狐の紋章を見せれば、こちらが動くことを読んでいる」
神園が顔を上げ、額の皺を伸ばす。落ち着いた声だが、その言葉に含まれる重みは軽くなかった。
「政治家の回線にも同様の痕跡がある。フォックスは“人”を作り出すだけでなく、政治的影響力を打ち立てようとしている。つまり、我々が摘まみ上げれば、単なるスパイ摘発では済まない。国家のバランスごと揺らす作戦だ」
真壁が短く一言。歯切れが良い。
「内通者の線も、外部の工作班も両方追う。堂嶋、裏の顔で探りを入れろ。長峰、外部ルート封鎖。氷室、朝倉の護衛はお前が主に。白石はデータの餌を撒いて奴らを誘引しろ。神園は政界のカバーを続けてくれ。俺は公安ルートで“足”を固める。」
命令を受けたメンバーは、すぐに動き出した。短く、無駄のない動きに朝倉は驚いた。自分の中の「普通」が、ここでは無価値なのだと知る。
その晩、簡易の作戦室で朝倉は一冊のファイルを開いた。祖父の古い写真、手紙の切れ端、そしてなぜか古い暗号表。一見すると無意味な紙切れだが、どれもが朝倉の生体情報と重なる奇妙さを帯びている。神園がそっと寄り、低い声で言った。
「祖父の時代から、情報は戦力だった。彼らは人間の記憶や反応を“鍵”として利用する技術を長年研究している。もし朝倉さんの遺伝的情報や記憶の断片が鍵として扱えるなら、フォックスはそれを奪おうとする。」
朝倉は手を震わせながらも、初めて自分の運命を他人事とは思えなかった。
「どうして僕なんですか。普通の人間じゃないですか」
神園の表情が柔らかくなる。そこには秘書時代に鍛えられた冷徹さのほかに、僅かな慈悲が混じっていた。
「“普通”ほど利用価値が高いの。目立たないからこそ、鍵は見過ごされる。だが、鍵が見つかってしまえば——それを守るのは私たちの仕事よ。」
作戦は細部に至るまで練られた。白石は疑似通信を流し、フォックスのバックチャネルを生け捕りにする。堂嶋は裏通りの古い顔を呼び、逃げ道を封じる。長峰は商社時代の知己を頼り、フォックスへと続く資金の流れを洗い出す。真壁は公安の相手に「見せない」ための芝居を打ち、レオンは全体の舵を切った。
朝が来る前、白石のモニターが一つのメッセージを拾い上げた。暗号化された短い文。復号キーを解析すると、ゆっくりと文字が浮かび上がる。
――「狐は飢えている。餌はもうすぐ届く。灯りを消せば、子は来る。」
その下に、小さく――COUNTDOWN: 04:17:32。
室内の空気が一瞬にして冷たくなった。誰もが自分の呼吸を聞いた。
「奴らは時間を知っている」
氷室が言った。
「我々も時間を教えるべきよ。迎え撃つか、逃げるか。明確に決めて。」
朝倉は窓の外に広がるまだ暗い街を見つめ、固く拳を握った。彼の胸の中で、恐怖と決意が静かに融合する。守るべき「自分」が生まれた今、彼には選択肢が一つだけ残っている。
「行きます」
朝倉の声は震えたが、揺るがなかった。
「僕は隠れるつもりはありません。ここで、戦います。」
氷室は一瞬だけ朝倉を見つめ、そして小さく笑った。笑みの中に、戦士としての敬意があった。
「いい返事ね。じゃあ、新入り。焚火になるな。火力になれ。」
四時十七分。カウントダウンは静かに刻を刻む。灯りを消し、影は動き出す。国家の影を狩る夜が、もう一度始まるのだった。夜明け前の空気は、薄い硝煙の匂いを含んでいた。
港湾地区の倉庫街――無数のコンテナが積まれ、どこもかしこも静まり返っている。
しかし、その「静寂」は、作戦班が張り巡らせた電子的な結界の産物だった。
外部通信を遮断し、あらゆる電波を死に絶えさせた、国家最深部の影。
「……始まるぞ」
真壁の声が、インカム越しに響く。
朝倉は防弾ベストの上から通信機を固定し、深く息を吸った。
胸の鼓動が早い。
それでも、逃げようという気持ちはもうなかった。
「コードネーム《灯火》、突入班、準備完了」
その声に応えるように、氷室がすぐ背後で拳を鳴らした。
「背中は見ててやる。死にたくなけりゃ、ちゃんと走れ。」
「……はい!」
白石の冷静な声が重なる。
「敵の通信網、完全にジャック。四分三十秒で電磁防壁が落ちる。その間にデータを確保しろ。」
「政治屋どもには知らせるな。こっちは“作戦中止”のままだ。」
神園の声は低く、まるで祈りのようだった。
「成功すれば、政府は知らぬ顔をする。失敗すれば、存在ごと消される。それが私たちの現実。」
そして、レオンが最後に呟く。
「――それでも進む。それが〈影狩庁〉の流儀だ。」
扉が破られ、夜が弾けた。
閃光弾が白く倉庫を染め、金属の悲鳴が響く。
朝倉は氷室の背中を追い、暗闇の奥へと駆け込んだ。
中は、廃棄されたコンテナの迷路。
床一面に転がる古い機械、そして壁際に点在する端末群。
その中心に――赤い狐の紋章が浮かぶ、巨大なホログラム。
「……見つけた。」
白石の声がわずかに高まる。
「フォックス本体、ここにある!」
氷室が銃を構えた瞬間、ホログラムが音を立てて形を変えた。女の声。電子的で、どこか人間的でもある。
『やっと来たのね、〈灯火〉。』
「しゃべった……?」
『わたしを消しても、影は増える。あなたたちが“正義”でいられるのは、誰かが“悪”を演じているから。』
朝倉は息を呑んだ。その声は、まるで自分の中の何かを見透かすようだった。
「――黙れ!」
氷室が一歩踏み出し、銃口をホログラムの核へ向ける。
『あなたたちは、国家に飼われた犬。だがその首輪を、誰が締めているか知っている?』
一瞬、空間が震えた。
無数のデータが散り、電脳の光が花のように咲いた。白石が叫ぶ。
「電磁爆破! すぐ遮断しろ!」
「……朝倉、行け!」
氷室の声が飛ぶ。朝倉は無我夢中で中央端末へ駆け寄り、手のひらをスキャナーに当てた。
祖父の手紙に残っていた古い暗号表を重ねると、端末が応答した。
――ACCESS GRANTED。
「……通った! データリンク、遮断完了!」
閃光が弾け、ホログラムが音もなく消える。赤い狐の紋章がゆっくりと燃え落ちていった。
しばらくして、静寂。息を荒げながら、朝倉はその場に座り込む。
「終わったのか……」
氷室がヘルメットを外し、汗に濡れた髪をかき上げる。
「終わりじゃないわ。始まりよ。敵の巣は一つじゃない。」
レオンが無線越しに笑う。
「その通りだ。だが、よくやった。《灯火》。初任務にしては上出来だ。」
朝倉はゆっくりと夜明けの空を見上げた。港の向こうで、薄く朱が差している。煙と潮の匂いの中で、ようやく息をついた。氷室が隣で呟く。
「ねぇ、新入り。恐かった?」
「ええ。でも……それ以上に、嬉しかったです。」
氷室が短く笑い、肩を叩いた。
「それでいい。怖さを知る人だけが、影を狩れる。」
朝倉はうなずき、胸の通信機を握る。
微かなノイズの向こう、レオンの声が聞こえた。
「ようこそ、国家の影を狩る世界へ。」
その瞬間、朝倉は悟った。――ここが、自分の“日常”になる。
光の裏に潜む闇を刈り取る、終わりなき戦いの始まりだ。
夜が明ける。港の倉庫街に、風が吹き抜けた。
そこに残ったのは、壊れた端末と、一つの言葉だけ。
《スパイ防止法2030――国家の影を狩る者たち》
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
〈国家特務庁〉という架空の組織を通じて、「国家を守る影の存在」を描いてみました。
少しでも胸が熱くなったり、彼らの生き様に興味を持っていただけたなら嬉しいです。
もし楽しんでいただけたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります。
皆さまの一言一言が、次の物語を書く原動力になります。
どうぞよろしくお願い致します。




