デポちゃんからミャクミャクさんへ
本作は第13回星新一賞(テーマ:理系的発想、字数1万文字以内)に投稿した作品です。
薄暗い工場の中、規則的な作動音を響かせるたくさんのタオル織り機の間に立って、僕は母に
「ねぇ頼むよ。つくば万博の時は遠いからだめだって言ってたやんか。今回の未来博は、名古屋だから、つくばより、ずっと近いやろ。」
と声を張り上げた。
織り機の作動音が大きすぎて、自分がどれぐらいの声で喋っているのか分からない。
欠けた傘の下にぶら下がる裸電球には、蛾が飛び回り、電球にぶつかっては鱗粉を落とし、それが電球の光に照らされて、靄のように見える。
母は首にかけたタオルで顔を拭うと、足早に織り機の側面に回り新しい緯糸をセットした。
「あかん、あかん。納期が迫ってるし、次の次の納期もある。人手が足らんねん。そんな暇ないわ。」
僕も母の後について、機械の側面に回り、大きな声で
「なぁ、未来博やで。勉強になるやん。ビックリマン箱買いしてくれとか、ドラクエIII買うてとか、そういうのとは、わけが違うねんで。」
と怒鳴る。
母は僕を一瞥して、織り機から巻き取られたロール生地を切断機へ流していく。
「そりゃあ、ゲームやマンガ買うてくれとは違うけど、せやけど、あんた前のテスト何点や。今更勉強がどうこう言う成績か?」
「前のテストは国語やん。あんなもん先生の匙加減やんか。理科やったら成績ええやろ。」
母はヘム加工機から吐き出される検品前のタオルをコンテナに入れていく。
「理科『だけ』な。」
「全部だめよりええやんか。それに母ちゃんあかんで。せっかく我が息子が向学心に燃えてんのに、それを挫くのは、親としてどないやねん。」
母は検品前のタオルをコンテナに積み終わると、帳場に移動し、椅子に半分だけ腰掛け、半製品の数を帳面につけて大きく息をついた。
「親としてか。あんな、そんなに言うなら母ちゃんから父ちゃんに話はしたる。けど、2つだけ守ってや。」
僕は帳場のパイプ椅子を引きずり寄せ、母の前に座って頷いた。
「1つは、父ちゃんがあかん言うたら諦めんねんで。2つ目は、ちゃんと工場の手伝いするんや、分かったか?」
僕は満面の笑みで何度も何度も頷き
「ありがとう母ちゃん。ほな、俺も手伝うわ。」
僕は半製品の入ったコンテナを台車に積み、検品場へ運んだ。
「現金なもんやで。だけどな、あんま期待したあかんで。父ちゃんがあかん言うたら、あかんからな。」
「わかってるがな。」
僕はひときわ大きな声で母に返事をし、上機嫌で段ボール箱を次々と組み立て始めた。
開け放した窓から網戸越しに生暖かい風が入ってくる熱帯夜、そのたびに風鈴がチリンと小さな音を立て、部屋には蚊取り線香の匂いが立ち込めている。
僕は寝苦しさのあまり、涼を求めて寝返りを打ち続けていたらしく、上半身が敷布団から畳の上に、はみ出ていた。その状態から、また寝返りを打ち、ペリペリと皮膚が畳から剥がれる心地よい音を聞きながら、僕は、また仰向けになり、薄っすらと目を開けた。
暗闇の中、枕元の時計を探しライトを押すと午前1時半だった。僕は起き上がり、布団の上にあぐらをかくと、首を振っていた扇風機を止め、寝巻きの下から手を入れて、背中をボリボリと掻いた。
寝ぼけまなこで喉の渇きを感じた僕は、台所で水を飲むために、フラフラと廊下に出た。
「何を言うとんのや、そんな時間あるわけないやろ。そんなことお前もわかってるやろ。」
暗い廊下の先、閉じた襖の隙間から、わずかな光が漏れ、両親の話し声が聞こえる。
夜中で声が外に漏れないように気をつけているが、感情の高まりから、それを抑えられないでいる様子が伝わる。
「わかってます。わかってますけど、あの子がどうしても行きたい言うてますんや。それも遊びやない。あの子の勉強のためになることや、何とか時間作れへんやろか。」
先ほど僕が工場で母に言っていたことを、そっくりそのまま母がしゃべっている。
沈黙が続く。
父が渋っている様子が沈黙から読み取れる。
製品の納付時期などを考えると、まず無理だろうと思う。しかし母は何度も父に頼み込んでいる。おそらく父の前に手をつき、お願いしていることだろう。
僕は工場で母に軽々しく未来博に行きたいと言ったことを後悔した。
もちろん未来博の展示内容を見たいと言う気持ちは本当だが、一方で家の状況を考慮せず軽い気持ちでお願いしたことが、母を難しい状況に追い込んだことを理解した。
しばらくの沈黙の後、父は
「誤解せんときや。本当はわしも家族みんなで行きたいねん。けど、わしは行かれへん。納期もあるし、工場のみんなにも迷惑はかけられへん。だから、お前があいつを連れて行ってやってくれ。」
「ええんですか?私1人分、穴空きますけど。」
「しゃあないやんけ、あいつが行きたい言うてんやろ。」
「おおきに。ほんまにおおきに。あの子も喜ぶ思います。」
「お前は手慣れてるから1人分の穴では、すまんのやけどな。まぁ人のやりくり考えるわ。明日もあるし、はよ寝よ。」
僕は静かになった部屋の襖の前をそっと離れ、台所で水を飲むことも忘れて、自分の部屋に戻った。
「なぁ、なんで毛虫なん?」
「え?ちょっと待ってな、それは毛虫違うねん。『デポちゃん』や。創造の子らしいわ。」
「いや、もう完全毛虫やろ。これがマスコットキャラクターって名古屋の人の感性わからんな。毛虫が糸吐いて色んなものを作る、いうことなんやろうか?」
僕はパビリオンの前に設置されていた空気で膨らんだ『デポちゃん』の鼻をポンポン叩きながら言った。そんな憎まれ口を叩きながらも、僕は、バイオテクノロジーの展示が見られることに相当浮かれていた。
僕は母の手を引っ張って、パンフレットにあるバイオテクノロジーをテーマにしたパビリオンに向かった。そこには大きな水槽が設置され、中に巨大なアジが泳いでいた。
内部の展示パネルには、バイオテクノロジーを使って遺伝子を掛け合わせることによって、シャケのように大きなアジを作ることが可能であると書かれている。
「なぁ、母ちゃん見てや!シャケみたいなアジが作れるらしいぞ。」
「ちょっと早いて。母ちゃんもう歳やねんから、もうちょっと、ゆっくり移動さしてや。」
母はハンカチで汗を拭い、手に持ったうちわをせわしなく動かしながら言った。
「ほんまや。シャケみたいに大きいアジができるとなると家計が助かるなぁ。あ、でも、シャケ並みの値段になるんやろうか?せやったら、よう買わんわ。」
「何しょうもないこと言うてんねん。そんなことちゃうやろ。違う生き物の遺伝子を組み込むことで、何でも作れてまうねんで!これ、どえらいことやで。」
僕は母の言っていることがじれったくて、顔を真っ赤にして大きな声で言った。
「ほら、これ見てみぃ。これは模型やけど、将来はスイカぐらいでかいイチゴができるらしいで。」
「ほんまや。ほんまにそう書いてるわ。でも、そしたら1個食べ切るの、かなり難儀やで。」
「せやから、そういう話ちゃうやん。どえらい技術やで、いう話やろ!」
「せやな。せやけど、1人1個食べたとして、もし、みんなが半分残したら、4人分ラップかけんのに、ラップ1本使ってまうんちゃうか?」
このバイオテクノロジーが示す大きな可能性に対して、母のあまりに小さな心配事に、僕は眩暈がした。
「せやからちゃうって。人類の食料問題が簡単に解決する、そういう規模の話やろ。」
「せやな。でも、そしたら未来のスーパー、どえらいことになってんな。イチゴをワンパック買って、小アジ5匹入りワンパック買ったら、これは軽トラいるで。」
母が父を説得して未来博に連れてきてくれたことには、とても感謝をしていたが、母のとんちんかんな心配には、呆れて口が開きっぱなしになった。
「そんなんは流通の問題やろ。バイオテクノロジーは全てを解決するんや。」
「そうなんか?何か、そんなでかいイチゴ、大味っぽくて美味しくなさそうやけど。」
「そしたら、また、おいしい遺伝子を組み込んだら、えぇやんか。これからはバイオテクノロジーの時代やで。よっしゃ、俺めっちゃ勉強して、将来めっちゃでかいイチゴ作ったる。」
「めっちゃ勉強するのはええことやで。母ちゃん、でっかい軽トラ用意して待っとくわ。」
「でっかい軽トラって、それ普通のトラックちゃうんか?」
「ほんまやな。」
僕たち2人は、互いに笑い合い、バイオテクノロジーが切り開く未来を思い描いていた。
僕は、未来博から帰ると、工場でタオルを作り続ける父の元に行って、興奮したまま、遺伝子について学んでスイカくらいでっかいイチゴを作る夢を話した。騒々しいタオル織り機の音がする中、父は、疲れにむくんだ顔で
「しっかり勉強しいや、この工場は父ちゃんが片付けたるさかい。」
そう言って僕の頭を撫でたが、遺伝子工学への夢とタオル織り機の騒音にかき消され、言葉の最後は僕の耳には届いていなかった。
「もうできたんか?おっきなイチゴ。」
実家に帰り顔合わせると、母はよく僕にそれを尋ねた。僕はそのたび
「ぼちぼちや。もうちょっとで出来るから待っといてや。」
と答えていた。地元の大学の工学部生命工学科を出た僕は、中堅の製薬会社に就職し、忙しい毎日を送っている。
僕が就職した頃には、実家のタオル工場は既に倒産して、工場設備や機械類、仕掛け品や工場の底地を売って、何とか債務と売却代金をトントンにして、ひと様に迷惑をかけることだけは避けて工場を畳み、その2年後に父も亡くなった。
そういった事情もあって、母は僕が安定した製薬会社の職についたことをとても喜んでくれた。
実際、今の僕は、新薬の量産の仕事に従事していて、製造設備の操作・監視を行い、精製装置、滅菌装置などを操作している。
その他には、温度、pH、溶存酸素などのパラメータをチェックしたり、サンプリングや品質検査を行い、何より医薬品製造管理基準(GMP)に従った記録作成を行っている。
もちろん製薬会社として必要不可欠の部門だし、今の仕事に対して誇りもある。ただ、少年の頃に母と行った未来博での展示のように、遺伝子組み換え技術を用いて何かを開発しているというわけではなかった。
最初のうちは実家に帰って母に問われるたびに説明をしていたのだが、もともと専門知識に馴染みがない母が歳を重ねたことによって、ここしばらくは、でっかいイチゴを作っていることになっている。
大体、ほんの少し遺伝子組み換え技術を学び始めただけでも、未来博での展示は、かなり「盛って」いるということに気がつかざるを得なかった。
そもそも、花托が膨らみ果実のようになっているイチゴと子房が巨大化する果実であるスイカでは、発生の仕組みが違う。
それに、サイズ制御は多因子遺伝なので、遺伝子組み換えにせよ、ゲノム編集にせよ特定の遺伝子さえ弄れば、スイカみたいなイチゴが作れるわけではない。
それでも、あの頃のバイオテクノロジー万能論が、自分をここまで導いてくれたことは間違いない。学術的な発表の場であれば、また別だが、多くの市民や新しい世代に対し、多少誇張を含んで、新しい技術や新しい未来を指し示す事は、可能性であることを断りさえすれば、それほど悪いことでは無いのかもしれない。
そんなことを思いながら、日々のルーチンをこなし、業務に取り組んでいた時に、学生時代の友人から連絡があった。
学生時代はよくつるんでいたが、卒業後は学部の同窓会で1、2度顔を合わせたぐらいだった。
日程を調整し、仕事終わりに、学生時代によく通っていた場末の居酒屋で会う約束をした。
「久しぶり、悪いな呼び出して。」
「久しぶりだな、何年か前の同窓会以来か。」
「そうだな。そんなになるか。」
もう、そんなもの頼むような年代でもないが、2人で安酒とつまみを2、3品頼む。
ひとしきり学生時代の思い出話をした後、友人が用件を切り出した。
「俺たち、ベンチャーを立ち上げようと思ってるんだ。お前もどうかなって思って。」
「俺たち?」
わざわざ数年来会っていない友人に声をかけるのだから、僕はいくつか用件を想定して、友人の話は、その想定内だったから、それほど驚きはしなかった。
ただ、友人のほかに3人がベンチャーの立ち上げに参加し、かなり具体的に会社の立ち上げが進んでいるという点は、少し驚きだった。
「俺も他のやつらも、生命工学系の学部出身で、バイオベンチャーを立ち上げようと思ってる。ある程度、事業案も考えているが、お前にも参加して、一緒に共同創業者になってほしい。」
僕は、その場では回答せず、少し時間が欲しいと言った。確かに、大学で学んだCRISPR-Cas9を用いた微生物や細胞の遺伝子改変、バイオプロセスへの応用技術といった知識を活用して仕事に取り組める事は魅力的だ。
だが一方で、母が喜んでくれた今の安定した製薬会社を辞めることへの後ろめたさがある。
そして、それ以上に、工場を経営していた両親の苦労を見て育った僕には、事業を行い、その舵をとっていくことが、どれだけしんどいか、身に沁みて分かっていた。
それからしばらく、天秤のように、揺れ動く気持ちで日々を送っていた僕に、急に病院から電話が入った。
それは母が倒れて入院したと言う知らせだった。
駐車場の広さに対してポール灯が少ないためか、極端に薄暗い駐車場を突っ切って、誘導灯が付いている夜間入り口から病棟に入ると、受付の小さな窓をスライドさせ、かなり年老いたガードマンが顔を出した。
名前を名乗ると、ガードマンは頷いて内線をかけた。ほんのわずかな時間のはずだが、僕は、その間も夜間受付の前をぐるぐる回り、何度も時計を見上げていた。しばらくすると看護師がやってきて、病室へ案内された。
「今は眠っていらっしゃるので、静かに様子だけ見てあげて下さい。そのあとで担当医から病状の説明があります。」
僕は、無言で頷くと看護師に続いて病室に入った。病室は4人部屋で2つのベッドは空いていた。母のベッドはカーテンで仕切られ、母は、その中で穏やかな表情で眠っていた。
しばらく母の様子を見つめていると、自分で思ったよりもずっと時間が過ぎていたようで、看護師が僕の袖を引っ張り、指で外へ出るように合図したので、僕も、了解したと目で合図した。
エレベーターを使ってフロアを変え、診察室へ案内される。
看護師が少し重そうな扉を横にスライドさせ、僕に先に入るように促す。僕が診察室の中に入るとパソコンを操作していた医師が体をこちらに向けて頭を下げて挨拶し、回転スツールに座るように促した。
「担当医の山田です。お母様の病状について説明させていただきます。お母様が緊急搬送された経緯はお聞きになっていますか?」
「いえ。仕事中だったもので、ただ家で倒れて、救急搬送されたという事だけ、聞いています。」
「分かりました。ご説明しますと、お母様は急性心不全で救急搬送されました。心臓が水をさばけなくなって、肺に水がたまり、肺水腫も起こしています。」
「母は大丈夫なのでしょうか?」
「利尿剤や人工呼吸器を用いて治療しましたから、当面は大丈夫です。ただ、年齢も年齢なので、左室駆出率、つまり心臓の収縮する力がかなり弱っています。」
「つまり、あまり長くは持たないということでしょうか?」
「残念ながらそうです。ここから心臓の力が大きく戻る事はないと思います。」
僕は天井の蛍光灯を見上げたあと、うっすらと涙がにじむ目を医師に向けて
「具体的に、あとどれくらいでしょうか?」
と聞いた。
「年齢・合併症・回復度合い・治療内容等によって大きく変動しますが、お母様の場合は、おおよそ半年前後だと思われます。」
「そんなに!……いろいろご迷惑おかけするとは思いますが、母が穏やかに過ごせるよう、どうかお力をお貸しください。」
僕は担当医に深く頭を下げながら、何故かしら、あの時、食べかけのイチゴにラップが足りるか心配していた母を思い出していた。
次の日の朝、僕はベッドの脇に椅子を置いて母の顔を眺めて座っていた。午前8時過ぎに目を覚ました母は、僕を見ると大きな声で
「あんた、仕事は?」
と怒鳴った。
久しぶりに聞く母の大きな声だった。僕がしみじみと、うなずいていると、母は
「のんびりしとらんと早く仕事に行きや。遅刻すんで。」
と、また怒鳴った。
それでも、まだ僕が半泣きで頷いているから、母はますます怒って大きな声を出し、2人揃って看護師長さんに怒られた。
「母ちゃん、倒れたときのことを覚えてる?」
「覚えてない。胸が苦しくなって、気がついたらベッドの上やったわ。」
「そっか、まぁしばらく入院して養生しぃや。」
「ごめんなぁ、忙しいのに。病院来てくれてありがと。」
「なんや、水臭いな。親子やろ。」
僕はまた涙が出そうになったので、椅子から立ち上がり、眼鏡を外し、備え付けの洗面台で顔を洗った。
「でっかいイチゴ作るの遅くなってまうな、堪忍な。」
僕はタオルで顔を拭き眼鏡をかけて、母に
「あんな、今、僕、でっかいイチゴ作ってないねん。」
と言った。
「そうか。そしたら、どんなイチゴ作ってんの?」
「うん。今はな、平たく言うと、別の人が作ったおいしいイチゴを増やす係をしてんねん。」
母は、うんうんと
「それも大切な係やな。みんながおいしいイチゴ食べれるの、増やす係の人のおかげや。」
何度も頷いた。
「それでな、今度、一緒にでっかいイチゴ作る会社せぇへんかって、誘われてんねん。でも、そのためには、今の会社辞めなあかんねん。」
「そうか。」
「母ちゃん、工場を切り盛りすんの大変やったやろ。せやから、僕が今の会社入ったの、ごっつ喜んでくれたやん。そこ辞めるんは、どうやろか?」
僕は母の目を見ながら、母の様子を伺った。
「お前は勉強よう頑張ったし、高校しか出てへん父ちゃんと母ちゃんの自慢の息子や。せやけどな、勘違いしてるわ。」
僕が驚いた顔していると、母は続けて
「母ちゃんが父ちゃんと結婚したんも、お前を一生懸命育てたんも、父ちゃんと工場切り盛りしたんも、全部母ちゃんがやりたかったからやったこっちゃ。そりゃあ、しんどい時もあったけど、やりたいからやってたんや。せやから、あんたもやりたいことやり。あんたの人生やがな。」
と言った。
僕は涙をこらえられず、ぐしゃぐしゃの顔で
「ありがとう、母ちゃん。」
そう言うと、母は
「なんや、水臭いな。親子やろ。」
と、僕の口調を真似して言った。
僕が、もう泣いているのか笑っているのか、自分でもわからない表情で頷いていると、母は、あっと声を上げ、何か大事なことに気がついた顔をした。
僕が、あわてて何があったのか聞くと、母は
「えらい間違いしてもうた、父ちゃん中卒やったわ。」
そう言って笑い出した。
僕は申し出を受け、友人たちと共に、ベンチャー企業の立ち上げに参加した。
仲間が提案した幾つかの事業と共に、僕は、学生時代から長い間温めていた蚕の繭から強度や伸縮性を改良したシルクを作るという機能性シルク製品の開発のアイディアをみんなに話した。
CRISPRでフィブロインやセリシンの構造を改変し、高強度繊維、抗菌シルク、光学・電子用途シルクなどの特殊繊維に応用し、高級衣料や医療用縫合糸などとして市場に展開する。
もちろん、簡単じゃない。実験室レベルで改変蚕の育成と繭の取得、強度・伸縮・耐久性などの物性評価、簡易プロトタイプ製品の作成と、うまくいったとしても、かなりの費用と時間がかかる。
それでも、あんたの人生やがな、という母の言葉に背中を押され、僕は一歩踏み出すことができた。
母の体調はよくない。もうそれほど持たないところまで来ている。
母は来なくていいと言ったが、僕は、仲間に事情を話し、毎日少しの時間でも母の病室に顔を出すようにしていた。
その日、母は眠っていた。
僕はいつものように荷物を病室のチェストの上に置くと、眠っている母を見ていたが、やがて僕の事業の概念フローを、母が眠っているのに話し始めた。
「簡単に言うとな、まず、強度、伸長性、耐熱性、抗菌性、機能性タンパク質の融合とかな、どんな性質や機能を変えたいか決めるねん。」
「ほんで、次にシルクの成分のどこをどう変えるか大まかに決めるねん。」
「ほしたら、いまの状態の残すところと変えるところを考えて、構造や機能への影響を予想すんねん。」
「そいで、変えたい要素をどこでどれくらい出るようにするか考えんねん。」
「あとは、変えた部分が他に悪影響を与えないか確認したり、狙い通りか確認すんねん。」
話し続ける僕の声がうるさかったのか、母は途中から目を開けていた。
そして僕を見て
「『デポちゃん』やな。」
と言った。
僕は母が何を言っているのか理解できず、ぼんやり母を見ていると
「毛虫ちゃう。創造の子『デポちゃん』や。あの子の糸が、あんたを未来につなげてくれてんねん。」
僕は、あの時、未来博で鼻を叩いたマスコットを思い出した。
「せやな。」
「それからな、もう慣れたし、今ではごっつい人気者やけど、 1つ言うとくで。」
「なんや、母ちゃん?」
「あんた『デポちゃん』を気持ち悪い言うとったけど、36年前の人が見たら『ミャクミャクさん』も大概やで。」
母は、そう言うと、ニカっと笑った。
僕も母の顔を見て
「せやな。トントンやな。」
と泣き笑いの顔で答えた。




