第9話:風の記憶と選ばれし者
朝の断崖は、まるで世界の果てのように静まり返っていた。
風が吹くたび、切り立った岩肌がうなり声を上げる。シュワルツは祈祷塔の前に立ち、背後に控えるリシェルとティオの存在を感じながら、深く息を吸った。
塔の扉には、黒く染まった《風の紋章》が刻まれていた。
「シュワルツ……気をつけて」
リシェルが声をかける。彼女の瞳には、ただならぬ気配への警戒が宿っていた。
「行ってくる。きっと、帰ってくるから」
シュワルツは静かに微笑み、祈祷塔の扉を押し開いた。
――一歩、足を踏み入れると、空気が変わった。
目の前に広がるのは、風が渦巻く白い空間。壁も天井もなく、ただ無限に続く空のような空間に、彼は立っていた。
その中央に、ひとりの男が背中を向けて立っていた。
「……君か。“選ばれし者”というのは」
振り返ったその男は、どこかシュワルツに似ていた。
だが、違った。目に宿る光が、まるで凍った風のように冷たい。
「……誰だ?」
「俺は、“選ばれなかった者”の記憶。過去に、この試練で敗れた魂の集合体だ」
「どうしてそんな存在が……?」
「風はすべてを運ぶ。記憶も、想いも、後悔も……」
男は静かに剣を抜いた。それは、ヴァルドから託された“風の剣”とよく似ていた。
「君がここを越えるなら、俺を超えてみせろ。風のように、すべてを切り裂き、なお進めるか――」
風がうねる。空間そのものが裂けるように、暴風が渦巻いた。
シュワルツもまた、剣を構えた。
剣の柄に刻まれた《精魂の紋章(風)》が、淡く黒く光を放つ。
――風の剣と風の記憶が、空中でぶつかり合う。
その一撃ごとに、過去の“声”が流れ込んでくる。
『どうして俺じゃなかった?』
『何が足りなかった?』
『……選ばれた者にしか、進む道はないのか?』
シュワルツの耳に、無数の問いと嘆きが刺さる。
動きが鈍る。胸の奥に、重さがのしかかる。
(違う……俺は、特別なんかじゃない)
過去の声が、彼を飲み込もうとする。
だが――
「それでも、俺は進む!」
シュワルツは叫び、風の剣を振り抜いた。
一陣の風が巻き起こり、記憶の男の姿を吹き飛ばす。
空間が砕けるように音を立て、白い世界に裂け目が走る。
そして、その裂け目の奥から――
《風の精霊》が姿を現した。
黒銀の羽を持ち、透明な衣をまとう美しい姿。その瞳には、静かな観察の色が宿っている。
「……見届けた。お前は、過去の記憶に飲まれず、自らの選択で風を切り裂いた」
風の精霊は、シュワルツに手を差し出した。
「我が力、《風の紋章》をその魂に刻もう」
その瞬間、剣の柄に刻まれた黒い紋章が、完全な光を放ち――
第三の《精魂の紋章(風)》が刻まれた。
気がつけば、シュワルツは祈祷塔の外に立っていた。
リシェルとティオが駆け寄る。
「無事だったのね……!」
「……試練は終わった」
シュワルツは小さく頷き、剣を見つめた。
風の紋章が、静かに光を放っていた。
「あと、二つだな」
遠くを見つめる彼の背に、追い風が吹いた。
次の目的地――《大地の試練》へ向けて、旅は続く。