第8話:風の谷と“選ばれなかった者”の剣
湖の神殿を後にしたシュワルツたちは、《風の試練》が眠るという「ルゼンの断崖」へと向かっていた。
道中、風は冷たく、空気が徐々に変わっていくのを感じる。草原の先には、高く切り立つ崖が続き、底が見えないほどの深い谷が口を開けていた。
「ここが……ルゼンの断崖」
シュワルツは風に吹かれながら目を細めた。リシェルのマントがばさりと音を立てる。
「空気が、鋭い……。ここ、危険ね」
断崖の中央には、崩れかけた吊り橋が一本。渡り切った先には、風車のような祈祷塔がぽつんと立っていた。
「見て……あそこに誰かいる」
リシェルが指差した先――祈祷塔の前に、ひとりの青年が佇んでいた。赤毛の短髪、引き締まった小柄な体。剣を背に負い、まるで“門番”のようにこちらを見据えている。
「……試練を受けに来た者か?」
その青年が問いかけてきた。
「あなたは?」
「俺の名はヴァルド。かつて、この地で《風の試練》を受けた者だ」
シュワルツたちは互いに顔を見合わせた。
「試練を“受けた”って……つまり、あなたも?」
「……いや、選ばれなかった」
彼の声には、重みがあった。
「俺は、試練を受けながらも、“風”に見放された者だ。だが、それでもこの地に留まり、次の挑戦者を見届けることにした。……同じ思いを持つ者がいるなら、力を貸す価値がある」
シュワルツは一歩、前へ出る。
「なら、俺に教えてほしい。《風の試練》って……何なんだ?」
ヴァルドはわずかに目を細め、静かに語った。
「風は、すべてを運び、すべてを断ち切る。風の試練は、“過去”と“選択”に向き合うこと。そして、“孤独”の意味を知ることだ」
その言葉が、シュワルツの胸に突き刺さる。
「お前の剣……その光。すでに二つの紋章を得ているな」
「火と、水だ」
「ならば、三つ目に挑む資格はある」
ヴァルドは立ち上がり、腰からひと振りの剣を引き抜いた。鋭く、しかし細身の刃。鍛え抜かれた意志が、そこに宿っていた。
「この剣は、“風に選ばれなかった者”の剣……。だが、誇りを捨てたことはない。お前が持って行け」
「……え?」
「これは、かつて俺の師が遺した剣。“風と共に歩む者に託してくれ”と。その者が現れるのを、ずっと待っていたんだ」
シュワルツは、剣を両手で受け取った。
触れた瞬間――風が、ざわりと音を立てた。
(この剣……応えている?)
剣の柄に、うっすらと黒く刻まれた紋様が浮かび上がる。
――《精魂の紋章(風)》。
だが、まだ完全な形ではない。半分だけが光り、残りは眠っているように沈黙している。
「それは《風の半魂》。試練を越えなければ、完全な紋章とはならない」
「……試す」
シュワルツの言葉に、ヴァルドは静かに頷いた。
その夜、彼らは祈祷塔の麓で休み、翌朝、いよいよ《風の試練》へと挑む準備を整えた。
夜空の下、シュワルツはひとり、剣を見つめていた。
(俺は、なぜ“選ばれている”んだろう?)
母の死。泉への想い。仲間の声。与えられた剣。精魂の紋章。
――運命とは、試練を越えた者に訪れるのではない。
試練に挑む覚悟がある者に、運命が寄り添うのだ。
シュワルツは剣を握りしめ、風の塔を見上げた。
その先に、自分自身の“答え”があると信じて。