09.光と影
慈善晩餐会での一件は、ジュリアンにとって衝撃だった。あの完璧な淑女の仮面の下に、あれほどの強さと、機転、そして勇敢さが隠されていたとは思いもよらなかったのだ。彼の脳裏には、ドレスの裾をたくし上げ、迷いなく花瓶に駆け寄るリシェルの姿が、鮮やかに焼き付いていた。
リシェルが花瓶を支えたときの、真剣な眼差し、歯を食いしばる横顔。それは、彼が今まで出会ったどんな「可愛いもの」よりも、深く、そして鮮烈に彼の心に刻み込まれた。その姿は、彼が理想とする「公爵夫人像」を遥かに超え、彼の心に直接語りかけてくるようだった。
(はあああ……なんて、尊い……!)
自室に戻ったジュリアンは、誰にも見られないことをいいことに、静かにソファへと崩れ落ちた。完璧なスパダリ公爵である彼は、これまで誰にも弱みを見せたことがなかったが、今や心の中では理性が音を立てて崩壊しそうになっていた。彼の胸は、リシェルへの募る想いで熱く、その熱は全身を駆け巡っていた。
リシェルの行動は、彼の理性の壁を軽々と乗り越え、彼の内側に新たな感情の波を呼び起こした。ジュリアンは、彼女の"おしとやか令嬢"としての姿も愛おしかったが、「中身は騎士団長」な、その素の魅力に、今まで以上に強く惹かれていることを自覚した。彼女の勇敢さ、聡明さ、そして時折見せる無邪気な表情……それらすべてが、彼の心を掴んで離さなかった。彼は、この感情をどうすればいいのか分からず、ただただ、リシェルへの想いを募らせていた。
翌日から、ジュリアンのリシェルへの態度は、周囲の者にはほとんど気づかれないほどの、しかし確かな変化を見せ始めた。彼の無表情は変わらないものの、リシェルを見る彼の漆黒の瞳の奥には、以前よりも深い熱が宿るようになった。それは、まるで氷に覆われた湖の底で、静かに炎が燃え始めたかのようだった。
例えば、リシェルが書斎で難しい領地報告書や、古くから伝わる法典と格闘していると、ジュリアンはさりげなく隣に座り、以前よりも詳細に、そして分かりやすく説明するようになった。彼の声は、いつも通り落ち着いていたが、その言葉の一つ一つには、彼女への深い配慮と、彼女の知的好奇心を満たそうとする意図が込められていた。その際、彼の指先が、偶然を装ってリシェルの指先に触れる回数が増えたことに、リシェルは気づいていなかった。しかし、ジュリアンの指先から伝わる微かな熱は、彼女の心をわずかに揺さぶっていた。彼は、彼女の集中力を妨げないよう、細心の注意を払いながら、その接触の機会を増やしていた。
また、屋敷の廊下でリシェルとすれ違う際、彼は立ち止まって、ほんの数秒だが、彼女の瞳をじっと見つめるようになった。その視線は、まるで彼女の心の奥底を見透かすかのように深く、熱を帯びていた。リシェルは、その視線にドキリとしながらも、いつも通り淑女の微笑みを返すのだが、ジュリアンの内心では(ああ、このまま抱きしめてしまいたい……だが、子リスが逃げてしまう……!)と、理性との壮絶な戦いを繰り広げていた。彼は、衝動のままに行動すれば、リシェルが驚き、あるいは恐怖を感じてしまうのではないかと危惧していたのだ。彼の抑制された態度こそが、彼なりの愛情表現だった。彼は、リシェルの本性を知ったことで、彼女を「守りたい」という感情が、以前よりもはるかに強くなっていた。
この変化に、一番早く気づいたのは、もちろんエミリアだった。彼女は、日頃から公爵夫妻の動向を注意深く観察しており、そのわずかな心の機微も敏感に察知していた。特に、ジュリアンの視線がリシェルに向けられるたびに、その熱量が増していることに気づいていたのだ。
朝食の準備をしている最中、エミリアは淡々と、しかし確信を持って告げた。彼女は、焼きたてのパンを籠に並べながら、まるで天気の話でもするかのように、自然な口調で切り出した。
「お嬢様、旦那様の視線、気づいてます? もう、完全に『私だけのもの』って顔になってますよ。まるで、獲物を見つけた猛獣のようにも見えますけれど……あ、いえ、奥様を大切に想う気持ちが、ですわ」
「え? な、何を言っているの、エミリア……?」
リシェルは顔を赤くし、動揺を隠せない。彼女は、ジュリアンが自分に好意を抱いているなどとは、夢にも思っていなかった。あくまで政略結婚であり、自分は公爵夫人の役割を果たすべき存在だと考えていたからだ。彼女の思考回路は、公的な役割に終始していたため、個人の感情、特に恋愛感情には驚くほど鈍感だった。
「いえ、何でも。鈍感もここまで来ると、もはや罪ですね。公爵様が可哀想ですわ」
ため息をつきながら、エミリアは隣で紅茶を注いでいたマルグリットに視線を送った。マルグリットはうんうんと頷き、「奥様、旦那様はもう、奥様の可愛さに完全に骨抜きなのよぉ! 顔には出さないけれど、いつも奥様のことを考えていらっしゃるわ!」と、頬を赤らめていた。使用人たちの間では、すでに公爵夫妻の恋の行方が、密かな話題となっていたのだ。リシェルは、彼女たちの言葉にますます顔を赤くするばかりだった。
その一方で、シャルロッテもまた静かに動き出していた。彼女は、慈善晩餐会でのリシェルの行動が、ジュリアンの心に予想以上の影響を与えたことに、深い焦りを感じていた。リシェルの勇敢な行いは、社交界で賞賛され、彼女の評判を一層高めてしまったのだ。
慈善晩餐会でのリシェルの行動は、シャルロッテにとって、まさに計算外の事態だった。彼女の策謀は裏目に出て、かえってリシェルを輝かせてしまったのだ。しかし、ジュリアンを諦める気など毛頭なかった。リシェルに負けたことを認められないプライドが、彼女をさらなる策略へと駆り立てた。彼女は、リシェルが一時的に注目されたに過ぎないと信じようとした。
(あんなはしたない真似で、公爵様が私ではなく、あの女に惹かれるはずがないわ……! 一時の感情に流されているだけ。私の魅力は、あの女とは違うのだから)
シャルロッテは、より巧妙な手口でジュリアンに接近し始めた。彼女は、リシェルが「完璧な淑女」を演じることに限界があることを見抜き、そこを突こうとしたのだ。
第一に、共通の趣味を装うことで、ジュリアンとの知的な距離を縮めようとした。ジュリアンが歴史書や古典文学を好むことを知った彼女は、必死にそれらの知識を詰め込み、書斎を訪れるようになった。夜遅くまで書物を読み漁り、頭に叩き込んだのだ。
「ジュリアン様、先日読んだ歴史書に、大変興味深い記述がございまして……もしよろしければ、少しお時間をいただけませんか? 古代王国の貨幣制度について、いくつか疑問がございまして……」
彼女は、教養ある女性を演じ、ジュリアンとの知的な会話を試みた。彼女の話し方は流暢で、知識も豊富に見えた。しかしジュリアンは、知識をひけらかす彼女の姿を冷静に観察し、(付け焼刃の知識だな。彼女は、知識をひけらかしたいだけだ。リシェルのように、心から探求する姿勢とは違う。リシェルの自然な聡明さには遠く及ばない……)と静かに結論を下した。彼の目には、シャルロッテの言動の裏にある計算が見透かされていた。
第二に、リシェルの「女性らしさの欠如」を強調することで、ジュリアンの興味を削ごうとした。彼女は、公爵邸を訪れるたびに、リシェルに対し、それとなく遠回しな皮肉を投げかけた。
「リシェル、最近、乗馬に凝っているんですってね。あまり激しい運動は、女性にはあまり良くないわ。淑女たるもの、もっと静かで、優雅な趣味を見つけるべきよ。例えば、刺繍や絵画など……」
これは、リシェルが男勝りな一面を持つことを印象付け、ジュリアンの興味を削ごうとする策略だった。彼女は、ジュリアンが「おしとやかでか弱い女性」を好むと信じて疑わなかった。しかしジュリアンの内心では、(乗馬姿のリシェル……想像するだけで尊い……! 彼女の凛とした姿は、どんな絵画よりも美しいだろう)と、むしろ彼女への好感を強める結果となった。彼にとって、リシェルの「強さ」は欠点ではなく、むしろ彼女の魅力の一つだったのだ。
第三に、公爵家での立場をアピールし、ジュリアンに自分こそが公爵夫人にふさわしいと印象付けようとした。メイドたちに高価な贈り物をしたり、ジュリアンに屋敷の運営に関する意見を提案したりと、まるで自分こそが公爵夫人にふさわしいかのように振る舞うようになった。彼女は、自ら屋敷の装飾を変えることを提案し、あたかも自分が既にこの家の主人であるかのように振る舞った。
「このお部屋の装飾、少し地味ではございませんか? わたくしでしたら、もっと華やかで、公爵家にふさわしいものをご提案できますのに。わたくしの実家には、素晴らしい絵画や彫刻がございますのよ」
だがジュリアンは、(彼女はこの家を飾ろうとしているだけだ。リシェルは、この家そのものに温かさをもたらしてくれた。真にこの家を豊かにするのは、内面からくるものだ)と冷静に見極めていた。彼の目には、シャルロッテの行動が、単なる自己顕示欲の表れとして映っていた。
シャルロッテのあの手この手の接近は、ジュリアンにはまったく通用していなかった。それどころか、ジュリアンのリシェルへの想いを確固たるものとし、屋敷の使用人たちからはむしろ冷ややかな目で見られる結果となった。彼の心は、すでにリシェルで満たされており、他の女性が入り込む余地はなかったのだ。
エミリアとマルグリットは、彼女が来るたびに「出たわね、今日の敵役」「また、奥様の悪口を言い始めたわ」と小さく呟きながら、密かに観察日誌をつけていた。彼女たちは、シャルロッテの偽善的な態度を完全に看破していた。
そうして、ジュリアンの変化と、シャルロッテの暗躍が交差する中、リシェルの心にもまた、少しずつ揺らぎが生まれ始めていた。シャルロッテの言葉が、彼女の心の奥に、小さな毒のように染み込んでいたのだ。
(私なんかより、シャルロッテの方がジュリアン様に……ジュリアン様の隣に立つにふさわしいのは、私ではないのかもしれない……)
そんな想いが、彼女の心に影を落とし始めたことを、ジュリアンはまだ知らなかった。彼の視線が、リシェルの心の奥底にまで届くには、もう少し時間が必要だった。しかし、彼の愛は、静かに、しかし確実に、リシェルの心を包み込もうとしていた。




