アルファポリス累計10,000pt突破記念番外編 氷の公爵の理性が悲鳴を上げた日 ~内扉の向こう側の攻防~
ヴァレリオ公爵邸の執務室には、いつもの静寂が満ちていた。書類の束、羽根ペン、整然と並んだ本棚。
そして、その中央に座る男───ジュリアン・ヴァレリオ。王国随一の冷徹公爵。氷の貴公子。完璧なる統治者。……そのはずだった。
「……なぜ繋げた」
低く押し殺した声が、執務室に落ちる。
「なぜ……繋げた……セドリックめ……」
彼の視線は、書類ではなく、壁に向けられていた。正確に言えば、隣室へと続く内扉。
結婚に伴い、執事セドリックの進言で設置されたものだ。
曰く、『夫婦の寝室は繋がっていた方が、何かと便利でございます』。
便利。
便利とは何だ。何がどう便利だというのだ。
(聞こえる……聞こえてしまうではないか)
隣室には、妻のリシェルがいる。衣擦れの音、柔らかな足音、侍女との小さな会話。そして、時折ふいにもれる、羽毛のように柔らかな吐息。
「…………」
ジュリアンは目を閉じた。
(なぜだ。なぜこんなにも、可愛い気配がするのだ)
「落ち着け。仕事だ」
深呼吸をし、書類に視線を落とす。だが、ペン先は一ミリも動かない。
(あの扉の向こうに、彼女がいる)
本を読んでいるのか、それとも窓辺で紅茶を飲んでいるのか。想像しただけで、理性のダムにピキリと亀裂が入る。その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が響く。ジュリアンの背筋が、まるで雷に打たれたように跳ねた。
「……どうぞ」
扉が開く。現れたのは、リシェルだった。淡い色のドレスに、儚げな細い肩。それでいて、エルノワーズ家の令嬢らしい凛とした美しさが宿っている。
「お仕事、お疲れではありませんか?」
彼女は、日だまりのような微笑みを浮かべていた。その手には、盆が乗っている。
「厨房で少し、お菓子を焼いてみましたの。よろしければ───」
(───っ!?)
ジュリアンの心臓が、一瞬停止した。またか。またあの、料理長ジャンを無言で跪かせたという伝説の「手作り」か。
(毒だ。これは毒だ。可愛すぎるという名の、猛毒だ……!)
だが、顔には出さない。公爵としての鉄の仮面が、辛うじて彼を支えていた。
「……そうか。手間をかけたな」
リシェルは自然な所作で机の側へ歩み寄り、紅茶を淹れる。優雅で、迷いがない。
(さすがだ。エルノワーズ家の令嬢……。これほど至近距離に男がいるというのに、微塵も動揺していない。なんて肝が据わっているんだ)
それに比べて、自分はどうだ。指先が触れそうになるだけで、心拍数が限界突破しているというのに。
「どうぞ、旦那様」
紅茶を差し出された、その瞬間。───指先が。ほんの、わずかに触れ合った。
「……っ!」
ジュリアンの脳内で、けたたましい警報が鳴り響いた。理性のダム、決壊。全域に避難勧告。洪水警報発令。
(かわいい)
(かわいすぎる)
(だめだ、もう無理だ、限界だ!!)
内面は、大爆発である。
(あああああああ!! なんだその、桃色の指先は! その潤んだ瞳は! 俺を殺す気か!!)
───だが。鏡に映る彼の顔は、凍りついたように無表情だった。
「……あ、ああ。……下がっていい」
声が、自分でも驚くほど硬く冷たく響いた。一瞬、リシェルの瞳が微かに揺れた。だが、彼女はすぐに完璧な笑みを浮かべ、静かに去っていった。
扉が閉まる。静寂が戻る。直後、ジュリアンは机に勢いよく突っ伏した。
「……まただ。またやってしまった……」
あんなに愛らしい妻に、なぜ、あんな冷淡な態度しか取れないのか。自分の不甲斐なさに、ため息しか出ない。
その夜。書斎でランプを灯し、ジュリアンは一枚の肖像画を見上げていた。亡き母、アメリア。
「母上……」
誰にも聞かれない小さな声で、彼は問いかける。
「父上は……どうやって、あんな幸せな家族を築いたのですか。私には……リシェルを直視することすら、難しい……」
可愛すぎて、理性が壊れる。そんな情けない理由で妻を避け続けている自分が、心底嫌になる。
「……明日こそは。明日こそは、もう少し優しく笑おう」
そう自分に言い聞かせ、彼は寝室へ向かった。
例の内扉の前で、足が止まる。扉の向こう、愛しい妻が眠る気配。彼は扉に触れるか触れないかの距離で、そっと手を止めた。
「おやすみ。……私の、リシェル」
氷の公爵と呼ばれた男は、その夜。誰にも見せないほど、柔らかく、切ない顔で眠りについた。
おはようございます!
朝起きたらアルファポリス(他サイトですみません)の累計ptが1万ptを突破していて、あまりの驚きにジュリアンの独白SSを急遽書き上げてしまいました……!
こちらも累計10万PV目前です。
皆様、たくさんの応援本当にありがとうございます。
リシェルへの愛が溢れすぎているジュリアンの様子をお楽しみいただけましたか?




