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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
番外編

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68/70

80,000PV突破記念番外編 小さな騎士の誓い ―オニイサマと、妹のアンナ―


 春の陽だまりが、ヴァレリオ公爵邸の大広間を柔らかく包み込んでいた。窓の外では、かつてリアンが見つけたあの「小さな芽」が、今や鮮やかな花を咲かせ、誇らしげに風に揺れている。


 三歳になったリアンは、今日も真剣な面持ちで廊下を歩いていた。


 数ヶ月前までは木製の剣を振り回し、「悪党をやっつけるんだ!」と息巻いていた小さな騎士は、今やその手に武器を持っていない。代わりに彼が両手で大切に抱えているのは、丁寧に畳まれた真っ白なおしぼりと、色彩豊かな分厚い絵本だった。


「おかあさま、すわるときは、これ」


 リシェルがソファへ腰掛けようとすれば、リアンは風のような速さで駆け寄り、小さな体を目一杯使ってクッションを運び込む。彼女の背の角度に合わせて、そっとそれを差し込む手つきは、執事のセドリックも驚くほどに献身的だった。


「……ありがとう、リアン。助かるわ」

「むりしちゃだめだよ。オニイサマがついてるからね」


 そう言って胸を張るリアンの声は、三歳児にしては妙に落ち着いていて、どこかかつてのジュリアンを彷彿とさせた。


 臨月を迎え、リシェルのお腹は驚くほど丸く大きく張っている。椅子から立ち上がるだけでも一苦労なその様子を、リアンは片時も目を離さずに見守っていた。彼にとって、お腹の中の「あたらしいひと」は、すでに守るべき対象なのだ。


 そして、彼には欠かせない日課があった。リシェルの前にすとんと行儀よく正座し、そっとお腹に耳を寄せる。


「ぼく、おにいちゃんだよ」


 まだ見ぬ誰かへの、内緒の囁き。


「おそとは、たのしいことがいっぱいあるよ。お花もきれいだし、おいしいお菓子もあるんだ。……だから、安心していいよ。ぼくが、ぜったいに守ってあげるからね」


 毎日欠かさぬ、騎士の誓い。その様子を、少し離れた柱の陰からジュリアンが見守っていた。漆黒の瞳が、かつてないほど穏やかに細められている。


「将来は王国一の名騎士か、あるいは史上最も過保護な兄貴か。どっちだろうな」


 横で腕を組むレオンが、にやりと笑って肩を小突く。


「……どちらにせよ、ヴァレリオを継ぐ者として頼もしい限りだ」


 ジュリアンの声は低いが、そこには父親としての隠しきれない誇らしさが滲んでいた。


 それから一ヶ月半。邸内には、春の嵐が近づく前のような、ひりつくような緊張が漂い始めていた。使用人たちの足取りは自然と速くなり、侍師ミルダがリシェルを訪れる頻度も日に日に増していく。


「もうすぐね、リアン様」


 ミルダが優しく微笑むと、リアンはこくりと頷いた。リアンは、子供ながらに察していた。リシェルの体調が優れないこと。夜中に時折、苦しそうな吐息が漏れること。


 彼はいつもより静かに、リシェルの枕元へ「自分の一等賞」たちを並べた。ふわふわの熊のぬいぐるみ、片方の耳が少しだけ折れた兎、そしてギュスターヴから贈られた銀糸の刺繍が入った小さな狼。


「ここにみんながいれば、寂しくないよ。怖くないよ」


 リシェルの手を握りながら、リアンはぎゅっと自分の小さな拳を固める。


「ぼく、泣かないよ。オニイサマだもん」


 それは三歳児なりの、自分自身に課した試練だった。


 深夜、静寂を裂くように、リシェルの小さな、けれど鋭い呻き声が響いた。


「……始まったか」


 書斎で待機していたジュリアンの声が、わずかに震える。

 邸内は瞬時に戦場へと変わった。ミルダの鋭い指示が飛び、湯が絶え間なく運ばれ、真っ白なリネンが次々と運び込まれていく。


 リシェルはお産室へ。重厚な木製の扉が、静かに、けれど決定的な重みを持って閉じられた。


 その扉の前で、リアンは年配のメイドに抱かれながら、じっと扉を見ていた。廊下は冷え込み、中からは母の苦しげな声が漏れてくる。小さな指が、メイドの服をぎゅっと掴んだ。


 三歳の子供にとって、その扉は世界の終わりと始まりを分かつ巨大な壁のように見えただろう。瞳に、熱いものが溜まっていく。


(こわい。おかあさまが、こわがってる。ぼく、たすけにいかなきゃ)


 それでも、彼は足を動かさなかった。自分が今すべきことは、泣いて大人を困らせることではない。扉の前で、新しい命を、そして母を信じて待つことなのだと、本能が告げていた。


「……ぼく、なかない」


 震える唇で、自分に言い聞かせる。


 一方、室内の空気はさらに張り詰めていた。


「呼吸を整えてください、リシェル様。……さあ、もう一度!」


 ミルダの声は鋼のように強く、迷いがない。ジュリアンはリシェルの掌を、壊れ物を扱うように、けれど決して離さないという意志を込めて強く握りしめていた。


「リシェル。ここにいる。私が、ずっとここにいるぞ」


 彼のその一言が、リシェルの最後の力となった。


 やがて。暗闇を切り裂くように、鋭く、そして驚くほど澄んだ産声が夜の静寂を揺らした。


 その瞬間。扉の前のリアンが、はっと顔を上げた。


「……っ!」


 それは、彼が今まで聞いたどんな音楽よりも美しく、力強い響きだった。泣き声ではない。それは、この世界に対する「私はここにいる」という、新しい命の最初の名乗りだった。しばらくして、ゆっくりと扉が開いた。


 現れたのは、汗に濡れ、疲れ果てながらも、後光が差しているかのような幸福に満ちたリシェル。そして、彼女を支えながら、腕の中に小さな、本当に小さな包みを抱いたジュリアンだった。


「リアン。おいで」


 父に促され、リアンは一歩ずつ、祈るような足取りで近づいた。


 包みの中から覗くのは、桃色の柔らかな頬。驚くほど細く、けれど力強く空を掴もうとする指。そして、かすかに動く桜色の唇。


 リアンは、息を呑んだ。あれほど毎日話しかけていた、あの「芽」が。今、目の前で温かい息吹を上げている。言葉が出なかった。


 ただ、吸い寄せられるように近づき、その小さな小さな手に、自分の人差し指をそっと添えた。すると、赤ん坊はその指を、ぎゅっと握り返したのだ。


 静かな室内に、祝福の沈黙が落ちた。誰もが、この奇跡の余韻に包まれ、言葉を失っていたその時。リアンの唇が、無意識に、けれど確かな響きを持って動いた。


「……アンナ」


 それは、さざ波のような小さな声だった。けれど、その場にいた全員の耳に、まるで鐘の音のように清らかに響き渡った。


 ジュリアンとリシェルが、驚いて顔を見合わせた。名付けの候補は他にもあった。公爵家に相応しい、格式高い名も用意していた。けれど、リアンの口から出たその響きを耳にした瞬間、二人は悟ったのだ。この子は、アンナだ。


 ───アンナ・ヴァレリオ。


 かつて天上のアメリアが、リアンの心に種を蒔いたのだろうか。それとも、この小さな騎士と妹の間に、すでに言葉を超えた約束があったのだろうか。傍らで見守っていたレオンが、鼻の頭を赤くしながら小さく息を吐いた。


「……最高に、似合う名だな」


 誰も異論はなかった。その名は、まるで天上の陽だまりをそのまま形にしたかのように、その場に温かく落ち着いた。


 リアンは、もう一度妹を見つめた。その瞳には、もはや「オニイサマごっこ」をしていた頃の幼さはない。ただひたすらに、自分より小さく尊いものを愛し抜こうとする、一人の男の覚悟が宿っていた。


「アンナ」


 もう一度、今度ははっきりと呼ぶ。


「ぼくが、ずっと、ずっと……守ってあげるからね」


 窓の外から、夜明けの光が差し込み始めた。銀髪の兄が、生まれたばかりの妹の小さな手を握りしめる。そのシルエットは、朝日に照らされて、本物の騎士のように凛々しく見えた。その光景を見つめながら、リシェルはジュリアンの肩に頭を預けた。


 ヴァレリオ公爵家の歴史に、また新しい一頁が刻まれた。

 それは血塗られた武勲でも、冷徹な権威でもない。ただひたすらに、愛と願いによって綴られる、家族の物語。小さな騎士は、この日、本当の意味で誕生したのだった。


これは、既存の読者へのSSだから、新規狙いではない

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