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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
番外編

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63,000PV突破記念番外編 鏡の向こう、陽だまりの記憶


 私が立っているこの庭園は、生きていた頃のヴァレリオ公爵邸の中庭によく似ている。けれど、かつて私を悩ませた季節の移ろいも、肌を刺す冬の寒さもここにはない。


 白い石畳はどこまでも滑らかで、蔓薔薇の絡む回廊には、一年中、花の香りが満ちている。午後になると噴水にはやわらかな光が落ちるけれど、その水しぶきは温かくも冷たくもない。


 すべてが透き通っている───それが、この世界のことわりだった。影は淡く、音はどこか遠い調べのように優しく響く。時間はここでは流れない。止まっているわけではなく、すべてが「今」という永遠の中に溶け込んでいるのだ。


 けれど、地上の時間だけは、足元に広がる水鏡を通して見ることができた。私は噴水の縁に腰掛け、そっと水面を覗き込む。波紋が広がった先に見えるのは、私が心から愛し、そして遺してきた大切な人々だ。


 最初に映ったのは、あの子───ジュリアン。「氷の公子」と呼ばれ、誰に対しても、そして自分に対しても厳しく、心を閉ざしていた私の可愛い息子。母親を亡くしたあの日から、彼は泣くことをやめ、可愛いものを捨て、ただ「完璧なヴァレリオ」であろうとした。けれど、今の彼を見て。氷のように固かった表情が、いつの間にか春の雪解けのように溶けている。


 隣には、彼が選び、彼を選んでくれた女性───リシェル。公爵家の重圧に戸惑いながらも、その芯の強さでジュリアンを支える彼女が、少し困ったように笑いながら彼の手を握っていた。


「……ああ、そう。あなた、そんな顔もできるようになったのね」


 私は指先で水鏡をなぞる。ジュリアンがリシェルを愛おしそうに見つめる瞳は、かつてギュスターヴが私に向けてくれたものと、驚くほど似ていた。誇らしくて、少しだけ胸が痛む。母親というのは、息子の幸せを見た瞬間に、こうして勝手に泣きたくなるものらしい。


 やがて、水鏡は別の光を映し出した。それはまだ地上では形を持たない、けれど確かにそこにある、小さな、新しい輝き。私にはわかる。この光は、まもなく芽吹く、新しい命。


 その光の奥に、懐かしい面影を見つけて、私は思わず微笑んだ。それはジュリアンに似ていて、けれど瞳の奥にはギュスターヴのような強情さが、そして私のような好奇心が混ざり合っている。


「……あなたね。もう来たの?」


 水鏡の中に、まだ見ぬ孫の面影がゆらりと浮かぶ。その子は言葉では答えない。けれど、くるりと回って笑ったような気配だけを残して、水鏡の向こうへ、地上のリシェルのもとへ戻っていった。


 産まれる前に、こうして挨拶に来るなんて。本当に、ヴァレリオの血を引いている。私は、これから始まるであろう賑やかな日々を思い、静かな天上の庭でひとり、声を立てて笑った。




 その夜。ギュスターヴは、国境近くの古びた旅の宿で眠りについた。硬いベッド、使い古された毛布。かつての公爵とは思えない質素な部屋。けれど、彼が瞳を閉じた瞬間、世界は一変する。


 私が彼を迎えたのは、かつての公爵邸にある古い書斎だった。まだ彼が先代から家督を継いで間もない頃。夜を徹して難しい顔で書類に向かっていた部屋。彼が一番若々しく、私が一番───ええ、そうね。あなたが「世界で一番美しい」と囁いてくれた頃の場所。


「……また、お前か」


 重厚な革張りの椅子に腰を下ろしたギュスターヴは、眉間に皺を寄せて苦笑した。その声は地上のそれよりも少し若返り、けれどどこか甘えるような響きを帯びている。


「勝手なものだな。人の夢に、好きな時に、一番いい時の姿で現れて」

「あら、相変わらず口が悪いわね。折角逢いに来てあげたのに」


 私はわざと少しだけ唇を尖らせて、彼の向かいの椅子に座る。今の彼は、領民に恐れられる公爵でも、各地を転々とする放蕩な旅人でもない。ただの、少し疲れた夫の顔をしていた。


「ジュリアンがな……」


 彼が語り始めるのは、いつものことながら「息子への文句」という名の、あまりにも不器用な惚気話だった。


「あの馬鹿息子、リシェルを甘やかしすぎだ。妻のために、執務室にまで花を飾らせている。あれでは公爵としての威厳が保てん」

「リアンがな、儂を呼ぶときに『じいじ』などと……。どこの領民がその呼び方を教えたのか。儂を誰だと思っている」


 私は、肘をついてその愚痴を黙って聞いていた。彼が怒れば怒るほど、その裏にある幸福が溢れ出してしまうことを知っているから。


「全部、幸せな悩みじゃない」


 私はクスクスと笑う。ギュスターヴは「ふん」と鼻を鳴らしたが、その視線は私の手元にあるラベンダーの香りがするハンカチに向けられ、否定はしなかった。




「ところで、ギュスターヴ」


 私は少しだけ声を和らげ、身を乗り出した。


「あなたが、いつまでも旅をやめない本当の理由。……わかっている?」


 ギュスターヴは、ふいと目を逸らした。窓の外には、夢の中の庭園が広がっている。彼は黙り込み、大きな手を膝の上で固く握りしめた。


「放蕩だの、気ままだの……跡を継いだ息子に任せて自分は楽隠居だなんて、世間にはそんな言い訳をしているけれど。あなたはね、ギュスターヴ」


 私は椅子の影から立ち上がり、彼の背後に回る。そして、そのがっしりとした、けれど少しだけ細くなった肩にそっと手を置いた。


「私との思い出を、各地に植え直しているのよ。私が昔『行ってみたいわ』と言った場所、二人で約束して果たせなかった場所。あなたはそれを一つずつ巡って、私の欠片を世界に刻んでいる」


 彼の肩が、わずかに揺れた。


「……勝手なことを言う。儂はただ、王都の窮屈さに耐えられんだけだ」

「勝手なのは、あなたでしょう。そうやって強がって、けれど寝る前には必ず私のハンカチを確認して」


 私は彼の耳元で囁く。


「でも、大丈夫よ。私は知っているもの。あなたがどこへ行っても、何を見て、誰と出会っても───必ず、私の待つ場所へ戻ってくることを」


 しばらくの沈黙が、静かな書斎に落ちた。やがて、ギュスターヴが重々しく口を開く。


「……会ったのか?」

「ええ」


 私は頷き、彼の前に回ってその瞳を見つめた。


「産まれる前に、会いに来てくれたわ。あの子の未来に繋がる光が。……ジュリアンが産まれた頃に、そっくりなの。そして、あなたのような負けん気の強さを持っていたわ」


 ギュスターヴは、ゆっくりと目を閉じた。その睫毛がわずかに震えている。


「そうか……。ヴァレリオの血は、まだ絶えぬか」


 そして、彼は消え入りそうな声で、ぽつりと。


「……アメリア。お前は、まだこちらに来るなと言うつもりか。儂はもう、十分すぎるほど歩いた気がするのだが」

「ええ。ダメよ」


 私は即答した。少しだけいたずらっぽく、けれど毅然とした態度で。


「あなたにはまだ、役目があるもの。あの子たちの幸せを見届け、彼らがこの世に生きた証を拾い集めるという、大切な役目が。あなたがいつかこちらに来る時、私に語って聞かせる話が足りなかったら、お茶も出してあげないわよ?」


 ギュスターヴは、降参したようにわずかに笑った。


「……相変わらず、容赦がない。お前には、死してなお勝てる気がせんな」

「当たり前でしょう?  私は、あなたの妻だもの」




 夜が明け、宿の窓から冷たい、けれど清々しい春の光が差し込む。ギュスターヴが目を覚ました時、夢の書斎はすでに消え、アメリアの姿もそこにはなかった。


「……夢か」


 彼は呟き、自分の手を見る。そこには、十七年前と変わらぬ老いと、旅で刻まれた皺があった。けれど、彼は不思議と体が軽いことに気づく。そして、ふっと鼻をくすぐったのは、古びた宿の匂いでも、馬の汗の匂いでもなかった。


 枕元には───微かに、けれど確かな強さで、ラベンダーの香りが残っていた。ギュスターヴは、その香りを確かめるように深く息を吸い込み、微笑を浮かべた。彼は何も言わず立ち上がり、簡素な荷物をまとめ、御者台へと上がる。


「……よし、行くか」


 手綱を取り、馬に合図を送る。馬車の車輪が、朝露に濡れた道を音を立てて走り出した。彼の旅は、孤独ではない。それは、目に見えない妻と一緒に続ける、終わらない新婚旅行。かつて約束した景色を、これからの家族の未来を、彼はその瞳に焼き付けるために走り続ける。


 地上で見えなくなっても、触れることができなくなっても、愛は死なない。ただ、見守る形を変え、風や光、そして受け継がれる命の中に溶け込んでいくだけ。水鏡の向こうで、私はもう一度、微笑んだ。遠ざかっていく馬車の背中を見送りながら。


 ───いってらっしゃい、ギュスターヴ。あなたの帰る場所は、いつでも、いつまでも、ここにあるのだから。

たくさんお読みいただき、ヴァレリオ公爵家のみんなも喜んでいると思います。

恐らく、1番喜んでくれるのはアメリアかな?と思い、今回はアメリア視点で書かせていただきました。

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