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政略結婚のはずが、完璧公爵の溺愛が子リス系令嬢を解き放ちました  作者: 宮野夏樹
番外編

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010.芽吹きの季節に


 王都に春の風が吹き込む。柔らかな風は、まだ空気にわずかな冷たさを残していたが、それは冬の終わりと、新しい季節の始まりを告げる合図のようだった。ヴァレリオ公爵邸の広大な庭園では、若木に淡い芽吹きがのぞき、色とりどりの花々が、その可憐な姿を見せ始めていた。


 その中庭を、小さな男の子が駆け回っている。淡い銀髪に黒曜石のような瞳。くっきりとした顔立ちは父ジュリアンを思わせるが、笑うとどこか母リシェルの柔らかさがにじみ出る。彼こそ、ヴァレリオ公爵夫妻の長子――リアンである。今年で三歳になった彼は、生命力に満ち溢れ、まるで庭園の小さな妖精のように、あちらこちらへと好奇心旺盛に動き回っていた。


「おかあさま! みて! ちいさいめがでてる!」


 リアンは、花壇の前で屈み込むと、その小さな指で、芽吹いたばかりの緑の双葉を指差した。土の中から顔を出したばかりのその芽は、まだか弱く、しかし力強く、春の光を浴びていた。


「本当だわ、よく気づいたわね」


 リシェルは微笑んで、リアンの柔らかな髪を撫でた。三歳の子供とはいえ、彼の鋭い観察力には、時折驚かされることがあった。何気ない庭の変化にもすぐに気づき、小さな発見を喜ぶ姿は、リシェルの心を温かく満たした。


「この芽はね、もうすぐ大きくなって……お花が咲くのよ」


 リシェルは、彼が理解できるように、ゆっくりと、優しい声で語りかける。


「じゃあ、ぼくがまいにち見ててあげる!」


 リアンは、小さな胸を張って、真剣な眼差しでそう宣言した。その健気な姿に、リシェルは愛おしさを募らせ、笑みを一層深める。彼の真っ直ぐな心は、まるで澄んだ水のようだった。


 その様子を、中庭の端にある東屋から少し離れた場所で見ていたジュリアンは、思わず口元を緩めた。完璧な公爵としての顔はどこへやら、息子と妻の微笑ましいやり取りに、すっかり骨抜きになっている。かつて、心を閉ざし、感情を押し殺して生きてきた男は、今、家族という温かい存在に囲まれ、穏やかな幸福に浸っていた。


「……どうやら父親似だな」


 ぼそりと呟くのは、傍らに立つレオンだ。彼は、ジュリアンの信頼できる親友であり、公爵の右腕として、公爵家のあらゆる業務を支えている。


「何がだ?」


 ジュリアンは、素っ頓狂な声で問いかけた。


「放っておけない性分だよ。あの芽を見つけて世話をしようって気概、まるで公爵様そのものだ」


 レオンの言葉に、ジュリアンは反論しようと口を開いたが、すぐに言葉を飲み込んだ。確かに、幼い頃の自分も、何かの役に立ちたい、誰かを守りたい、と強く願っていた。その思いが、彼の人生を形作ってきた。リアンの純粋な好奇心は、かつての自分の心を映し出しているかのようだった。


「……余計なことを言うな」


 口ではそう返しながらも、ジュリアンの瞳は柔らかい。その瞳の奥には、息子への深い愛情と、誇らしげな光が宿っていた。




 その夜。リアンは、寝物語をねだり、リシェルの膝枕に頭をのせていた。一日中遊び回って疲れたのか、彼の瞳は、すでに眠気に揺らいでいる。


「おはな、はやくさくといいなぁ」


 リアンは、昼間の出来事を思い出して、ぼんやりと呟いた。その小さな願いが、リシェルの心を再び温かくした。


「ええ。……リアン、芽が出て育っていくのは、お花だけじゃないのよ」


 リシェルは、そっと自分のお腹に手を添えた。まだ幼いリアンには、この言葉の意味を理解するのは難しいだろう。しかし、不思議と、彼女の言葉は彼の心に響いているようだった。


 そう、彼女の身体には再び新しい命が宿っていたのだ。まだ家族以外には知らせていない、ほんの初期の兆し。しかし、不思議なことに、リアンは小さな芽を見つけた日から、やけに「新しいいのち」や「増える」という言葉を口にするようになった。彼の言葉は、まるで彼女の心の内を覗いているかのようだった。


「……ねぇ、おかあさま」

「なぁに?」

「このおうちに、あたらしいひと、くる?」


 その言葉に、リシェルは一瞬、息をのんだ。彼の言葉は、偶然だろうか。それとも、子供ならではの鋭い勘なのだろうか。しかし、彼の無垢な眼差しに、嘘をつくことはできなかった。


「……そうね。来てくれるかもしれないわ」


 リシェルは、その言葉を、まるで自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと口にした。


「ほんと? じゃあ、ぼく、おにいちゃんになる?」


 リアンの瞳が、キラキラと輝いた。その喜びと期待に満ちた表情に、リシェルは胸がいっぱいになった。


「ええ。きっと、素敵なお兄ちゃんになれるわ」


 リアンは、満足げに笑い、そのまま母の膝の上で眠りに落ちた。彼の寝顔は、まるで天使のように穏やかだった。リシェルは、寝息を立てる小さな体を抱き寄せ、そっと囁く。


「あなたが今日見つけた芽はね……お花だけじゃなくて、もうひとつの芽吹きでもあるのよ」


 リシェルの心は、新しい命への期待と、リアンへの愛情で満ち溢れていた。彼女は、この家族の幸せが、これからもずっと続いていくことを願わずにはいられなかった。




 数日後。長旅から戻ってきたギュスターヴが、公爵邸を訪れた。王都に住む彼の元へ、ジュリアンが手紙で伝えたのだ。


「おじいさま! ぼく、おにいちゃんになるんだよ!」


 庭で遊んでいたリアンは、ギュスターヴの姿を見るや否や、駆け寄って、満面の笑みでそう告げた。その唐突な言葉に、ギュスターヴは目を丸くする。彼は、ジュリアンとリシェルに、まだその知らせを聞かされていなかったのだ。


「お義父様、申し訳ありません。まだお話する前だったのですが……」


 リシェルは、顔を赤らめて頭を下げた。ジュリアンはというと、信じられないほど得意げな顔で、父親を見つめている。彼の瞳には、父親としての誇らしさと、そして、この喜びを分かち合えることへの幸福感が満ちていた。ギュスターヴは、リアンを抱き上げ、その頬にキスをした。そして、ジュリアンとリシェルの顔を交互に見つめ、ぽつりと呟いた。


「……やはり、アメリアの言った通りだ」


 その言葉に、ジュリアンとリシェルは、顔を見合わせた。彼らは、ギュスターヴが何を言っているのか、すぐに理解した。アメリアは、彼らの幸せを、そして新しい命の誕生を、天国から見守ってくれているのだ。


「この家は、次々と新しい命に恵まれる。芽吹きの季節が、絶えることなく巡るのだな」


 ギュスターヴの言葉は、深い感慨を込めていた。彼の人生は、アメリアを失って以来、寂しく、孤独な旅だった。しかし、ジュリアンがリシェルと出会い、家族を築き、そして新しい命が生まれたことで、彼の人生にも、再び光が差し込んできた。彼は、この家族の幸せが、アメリアとの永遠の絆によって守られていることを、改めて確信した。


 春風が屋敷を抜け、花壇の芽吹きが光を浴びて輝いた。その輝きは、公爵家の新たな物語の始まりを告げるかのようだった。

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