009.紡がれるもの
王都の春は、まだ空気にわずかな冷たさを残していた。柔らかな日差しが公爵邸の中庭に差し込み、白と桃色の花がちらほらと開き始めている。長い冬を乗り越えた木々が、生命の息吹を吹き返し、新たな季節の訪れを告げていた。
その日、ギュスターヴ・ヴァレリオは馬車を降り、ゆっくりと玄関へ足を運んだ。長旅を終えた疲労はあったが、彼の心はそれ以上に高鳴る期待に満ちていた。彼の旅の目的地はいつも決まっていた。亡き妻アメリアの墓を訪れ、息子ジュリアンの近況を報告し、そしてまた旅に出る。しかし、今回は違った。今回の旅は、ひとつの素晴らしい知らせを胸に、一路、王都へと向かう旅だった。
――初孫、リアン。
噂や手紙では幾度も耳にしてきたが、この腕で抱くのは今日が初めてだ。旅の途中で受け取ったジュリアンからの手紙には、生まれたばかりのリアンの様子が事細かに記されていた。その一つ一つを読むたびに、ギュスターヴの胸は温かい喜びに満たされた。
執事のセドリックが深く一礼し、恭しく玄関の扉を開ける。彼の顔にも主の帰還と、新しい命の誕生への喜びが浮かんでいるようだった。
「お帰りなさいませ、ギュスターヴ様。ジュリアン様とリシェル様は奥のお部屋でお待ちです」
セドリックは、まるで父親が孫に会うのを心待ちにしていることを知っているかのように、普段よりも少し早口でそう告げた。
「……ああ、案内してくれ」
ギュスターヴは、普段ならば決して見せないような、わずかに急いだ足取りで石造りの廊下を進んだ。彼の心は、待ちきれない気持ちでいっぱいだった。
彼が旅に出る前、亡き妻が夢に現れた。それは、いつも彼が旅に出る前、そして旅から戻った後に見る、特別な夢だった。アメリアは、いつもと変わらぬ優しい笑みを浮かべながら、こう告げたのだ。
『あの子に、そっくりよ。あなたにも、きっとすぐわかるわ』
あの子、とはジュリアンのことだ。つまり、生まれてくる孫は、幼い頃のジュリアンに瓜二つだと。そのときは半信半疑だったが、今はどうしようもなく胸が高鳴っていた。もし本当にアメリアの言った通りだとしたら、それは彼にとって、この上ない喜びだった。
セドリックに案内されて部屋に入ると、ジュリアンが立ち上がった。その顔には、父親としての誇らしさと、どこか照れくさそうな笑みが浮かんでいる。その横にはリシェルが静かに座っており、彼女の腕の中に小さな包みを抱いていた。その姿は、まるで聖母のようだった。
包みの中から覗くのは、淡い銀髪と、きゅっと結ばれた小さな唇。柔らかな光がその小さな命を照らし、まるで宝石のように輝いていた。
「……リアンです、お義父様」
リシェルは、その丸い瞳をギュスターヴに向け、そっと赤子を差し出した。彼女の声は、母親としての優しい愛情に満ちていた。
ギュスターヴは、大きな手で慎重に、そして優しく赤子を受け取った。その軽さに、彼は思わず息を呑んだ。こんなにも小さな命が、自分の腕の中にいる。その事実に、彼の胸は熱く締め付けられた。赤子は、一瞬まぶたを震わせ、黒曜石のように深く澄んだ瞳を開いた。その瞳は、紛れもなく――。
「……アメリアの言ったとおりだ」
思わず口をついて出た言葉に、ジュリアンとリシェルが顔を見合わせた。二人の間には、何がアメリアの言った通りなのかという疑問が浮かんでいた。
「アメリア……? 母上のことですか?」
ジュリアンが問う。その声には、驚きと、かすかな期待が入り混じっていた。ギュスターヴはゆっくりと頷いた。彼の視線は、まだ赤子のリアンに向けられたままだった。
「この子を出産する前辺りか、アメリアが夢に現れてな……『あの子にそっくりよ』と、そう言った。そして、この子を見た瞬間、儂にはわかった。この子は、お前の幼い頃の顔つきにそっくりだ。そして、その瞳は……」
ジュリアンは、ギュスターヴの言葉に息を呑んだ。彼の心には、母親の面影が鮮やかに蘇る。自分に似た顔立ちでありながら、その瞳には、確かにアメリアの面影が宿っている。
「……産まれる前に、会っていた……?」
リシェルが小さくつぶやいた。彼女の瞳には、驚きと、そして深い感動が浮かんでいる。彼女もまた、アメリアの存在を、この新しい命を通じて感じ取っていたのかもしれない。
ギュスターヴは微笑を浮かべ、リアンの小さな手を指で包んだ。驚くほど細い指が、ぎゅっと彼の指を握り返す。その小さな力強さに、ギュスターヴは再び胸を熱くした。
「どうやら、あいつはもう会っていたらしい。産まれる前に、この子に」
ギュスターヴは、遠い空を見上げるように目を細めた。彼の心には、アメリアがリアンと出会い、彼を祝福している姿が目に浮かぶようだった。それは、彼にとって、何よりも確かな証拠だった。アメリアは、決して彼らの前から消え去ったわけではなく、いつもそばで、彼らを見守ってくれているのだと。
その後もしばらく、ギュスターヴはリアンから目を離さなかった。寝顔を見つめ、小さな寝息を聞き、その柔らかな抱き心地を確かめる。一挙手一投足に、彼の心からの愛情がこもっていた。ジュリアンは、そんな父の姿を、まるで珍しいものでも見るように黙って見守っていた。厳格で、時に冷徹な公爵として生きてきた父が、一人の祖父として、ここまで優しく、穏やかな表情を見せることに、彼は驚きと喜びを覚えていた。リシェルは、そんな二人の様子を、穏やかな笑みで見つめながら、時折毛布を直す。
「父上、そんなに見つめていたら、リアンが落ち着かなくなりますよ」
ジュリアンが、少し照れくさそうにそう言った。
「ふん、私の声に泣かぬあたり、この子は肝が据わっている。……ジュリアン、お前よりはな」
ギュスターヴはそう言って、冗談めかして笑った。彼の言葉は、ジュリアンが幼い頃に、彼の厳格な声に怖がって泣いたことを思い出させる。
「子供の頃の話を持ち出さないでください」
ジュリアンが、少し頬を赤らめて抗議した。その二人のやり取りに、リシェルが小さく、幸せそうに笑った。ギュスターヴはその笑みを見て、また心の中でアメリアに語りかけた。
(――見ているか、アメリア。この子も、そしてこの嫁も、お前が残してくれたものの延長にいる。お前の愛は、決して途絶えることなく、こうして新たな命に受け継がれている)
日が傾き、部屋の中が橙色に染まる頃、ギュスターヴはリアンを小さなベッドに寝かせた。小さな胸が規則正しく上下し、夢の中に沈んでいく。
「……また会いに来るぞ」
その低い声は、孫だけに届くように優しかった。彼の心は、この小さな命の存在によって、これまでの旅路とは違う、新たな目的を見つけたようだった。彼の旅は、これからも続くだろう。しかし、その旅路は、この孫の成長を見守るという、新たな喜びに満ちたものになるはずだ。
部屋を出る前、ジュリアンが父に問いかける。
「父上……母上は、本当に……?」
彼の声には、まだ信じきれない思いと、それでも信じたいという切ない願いがこもっていた。
「本当だ。あいつは、お前たちの幸せをちゃんと見ている。心配するな」
ギュスターヴの言葉は、まるで魔法のように、ジュリアンの心の奥底に染み渡った。その言葉に、ジュリアンは深く息を吐き、長年抱えていた心の重荷が、ようやく解き放たれたかのような表情を浮かべた。リシェルもまた、静かにうなずき、夫の安堵を分かち合った。
廊下に出たギュスターヴは、背後から漏れる家族の笑い声を聞きながら、もう一度だけ空を見上げた。春の淡い光の中、アメリアの笑顔が見えた気がした。それは、彼の旅の終わりではなく、新たな旅の始まりを告げる、温かい光だった。彼は、愛する妻の面影と、新しい家族の絆を胸に、これからも力強く歩んでいくだろう。




